あなたは愚かなことをした[サムエル上13章]

サムエル記
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頭をフル回転させて自己弁護しても、神に背くことは常に愚かなことです。

あなたは愚かなことをした[サムエル上13章]

あなたは愚かなことをした[サムエル上13章]

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【ノート】
9-11章までがサウルの光の部分だとすると、13-15章までがサウルの闇の部分だ。この13章、サウルがまだ王になってたったの2年しか経っていないときから、サウルの転落が始まる。王座に着かなければ傑出した人物だったのに、早くも2年で主から「あなたの王権は続かない」と宣言されてしまう。王座に着いて権力を握ることで、人がどのように狂ってしまう恐れがあるのかをサウルは示している。

1-2節。サウルは11章でアンモン人のナハシュを打つとき、イスラエル全土から33万人を動員した。その戦いに勝利して名実ともにイスラエル全体の王として認められた。しかし、33万人全員を常備軍として抱えるだけの体制はない。そこで、サウルは精鋭3千人をえりすぐって召し抱え、ほかの民は家に帰らせた。そして、3千人の内の2千人を自分のもとに、千人を息子のヨナタンのもとに配備した。サウルには王になって2年の時点で、兵を率いる能力のある息子がいた。当時の結婚は早かったが、ヨナタンがかなり若いとしても、サウルはこのとき少なくとも30歳前後にはなっていたということがわかる。

3-4節。おもしろいことに息子のヨナタンがペリシテ人の守備隊を撃退したのに、サウルが国中に角笛を吹き鳴らして大々的に伝えたのは、サウルがペリシテ人の守備隊を打ち破ったということだった。息子の手柄を自分のものにしている!理解はできる。そこには、虚栄心もあったろうが、初代の王としての功績を宣伝して権威を強め、イスラエルを従わせようと必死だったのだろう。何事も第一人者というのは大きな重荷だ。しかし、神の民として必要な権威は、手柄を宣言することによって得るのではなく、主がお与えなるものだということを忘れてはならない。主をたたえ、主に従おう!そうすれば、主が御名の権威を私たちに帯びさせてくださる。

サウルとしては、アンモン人のナハシュを倒したときのように、民を招集すれば、また何十万人と動員することができるという算段があった。ペリシテ人に決戦を挑んでも勝てると思った。ところが、イスラエルはもうこの時点で及び腰だった。「ペリシテ人の守備隊を撃破した!」という自分たちの王が敵に勝った知らせを聞いた。それはグッドニュースのはずでしょう。ところが、イスラエルは「やった!敵をやっつけたぞ!」と思う代わりに、「イスラエルがペリシテ人の憎しみをかうことになった」と思った。「サウルが余計なことをしたからペリシテ人が一斉に攻めてくる!大変だ!大変だ!」もう戦う前から負けている!

なぜイスラエルは戦う前からそこまでペリシテ人を恐れたのか?その理由は5節。肉眼で見える範囲で判断するなら、敵の装備、数、士気のすべての面で、イスラエルよりもはるかに上回っていた。その敵が攻めてくる。召集をかけられていたイスラエルはどうしたか?6-7節。王の召集に応じるどころか恥も外聞もなく、命からがらに逃げ出している。かろうじて踏みとどまっていた兵たちもみんなおびえ、戦意喪失していた。
私たちはどうか?やはり困難な状況では、戦う前から負けてしまう人がいる。その人は必然的に負ける。こういう思いが頭を巡ったり、口から出たりすることはないか?「どうせどれだけがんばってもうまくいかない」「どうせ私は幸せにはなれない」「どうせどうせ」。それは不信仰による敗北宣言だ!そう思うからこそ負けてしまうのだ。敵は確かに強い。しかし、もっと強い方がおられる。信仰を働かせて、その方に目を移そう。あなたは死を打ち破って復活されたイエス・キリストを信じているか?そうであれば、あなたは主イエス様につながっている。あなたの一言一言に主は耳を傾けてくださる。主との結びつきを意識しよう!主が共におられる。勝利しかない。祝福しかない。リバイバルしかない。霊的な戦いはこういう思考の中で起こっている。私たちは霊的な戦いにおいて、戦う前から勝利する者となろう。

サウルは、それでも勇気をふりしぼり、逃げずにペリシテ人に立ち向かおうとしていた。8-10節。サウルはサムエルをあてにしていた。サムエルが来て、祈って、焼き尽くす献げ物をささげたら、また雷雨といった神の御業が起きて、敵を撃退できるかもしれない。サムエルから私が来るまで待つようにと指示があった。預言者からの指示というものは、神からの指示に等しい。イスラエルが異邦人の国と違うのは、王は絶対君主ではなく、王たりとも神からの指示には従わなければならないということだ。神からの指示は「待て!」だ。神を信じて待つことが求められた。いつまで待てばよいか、約束の日はサムエルとの間に決めていた。ところが、サムエルは約束の日に現れなかった。信仰者は時に、神の介入があるまで、祈り続けて「待つ」ことが求められることがある。神にだけ期待してひたすら「待つ」ということは、自分でアクションを起こすよりもずっと難しいことがある。自分で宣伝する、自分で人を説得する、自分で計画を立てる、そういうアクションを起こせば、やっている感を出せる!自分や周りに対して、「私は一生懸命やっている!」とアピールできる。自分の力に頼ることは簡単なのだ。ただ祈って待つということは、本当に信仰が必要だ。時間を浪費しているように思える。自分がさぼっているように思える。そういう思いが誘惑になる。しかも、神は、私たちが想像していた以上に長い時間、待つことを要求されることもあるのだ。そのときには、待つことは大きな試練となる。しかし、それでも最後まで待つのが神に頼るということだ。時に、私たちの行動が、神の御業の邪魔になってしまう!そのことを覚えて、祈って御業を待つことを学ぶ者となろう。

サウルはこの試練に不合格だった。サウルの待つ限界は、サムエルとの約束の日までだった。想定以上に待つことには耐えられなかった。敵が攻めてきていて、味方の兵が散り始めているのに、ただ待つというのは貴重な時間の無駄遣いに思われた。味方の兵を鼓舞するためにも、何か行動を起こさないといけないと思われた。それで、本来はサムエルに期待していたはずの、焼き尽くす献げ物をささげるということを行った。全部、主を意識してのことではなく、周りの状況や味方や敵を意識してのことだ。主への信仰から出た考えではない。焼き尽くす献げ物とは、本来は献身を意味するものだ。私のすべてを主にささげますというものだ。しかし、サウルの心は主になかった。サウルは、はっきりと主に背いてしまった。しかも、サウルは、自分がそこまで悪いことをしたと認識していなかった。いろんな言い訳があったからだ。それで、サウルは何もしていないかのように平気でサムエルを迎えに出た。

11-14節。サムエルは尋ねる。「あなたは何をしたのか?」と。「待て」という指示を破ってサウルは焼き尽くす献げ物をささげたことを指摘されていることはわかった。しかし、いろいろな致し方ない言い訳があるので、自分のしたことは正しいと思った。自分は適切に、賢くふるまったと。それに対してサムエルは何と言ったか?「あなたは愚かなことをした。」どんな理由があろうと、私たちが神に背くなら、私たちは愚かなことをしたのだ。頭をフル回転させ、こうこうこういう理由があるから、この行動は正しいと自分の中で勝手に自己弁護したしても、実際には愚かなことをしたのだ。賢いのは、主に従順することであり、主に背いたら言い訳せずにすぐにそのことを認めて、罪を告白することだ。主を畏れることが知恵の初めだ。

これは恵みがはっきりと啓示されていない旧約での出来事ではあるが、この箇所から、主は本来非常に厳しいお方だということがわかる。特に指導者に対して厳しい。なんとサウルは油注がれて、王に立てられたばかりなのに、もう、その「王権は続かない」と終わりを予告されてしまった。そして、主の御心に適う別の人を指導者に立てるというのだ。サウル王は近いうちにクビになるということ。こんなにも早くに退けられてしまうなら、何のためにサウルは王にされたのか?サウルが王になったのは間違いだったのか?それとも、もともと悪い王の見本として立てる予定だったのか?
神は間違いを犯すことのないお方だ。そして、私が思うに、サウルは確かに反面教師的な性質を持っているが、主はそのためにあえて悪い人物としてサウルを選んだわけではない。サウルは勝利者として意図して選ばれ、油を注がれた。サウルが王に立てられたとき、サムエルは「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない」と言った。ということは、サウルは全イスラエル人の中で最も王としてふさわしい人物だったに違いない。主は最善の人物を選んだ。それがサウルだった。実際にサウルはこの困難な状況でも、逃げずに勇敢にも立ち向かおうとしている。もし他の人が王になっていたら、すぐに民を捨てて逃げたり、降伏して約束の地を占領されたりしていたかもしれない。サウルよりダビデの方が優れているが、サウルが選ばれたとき、ダビデはまだ若すぎて油注ぐには早かった。数百万人の人間の中の最善の人物であっても、人間に過ぎない。多くの欠点があるということだ。私たちはサウルより優れているか?どうだろう。私はいろいろな点で自分よりもサウルの方が優れていると思う。

しかし、私にはサウルよりも恵まれている点が確かにある。それは、イエス・キリストを知っているということだ。私は恵みを知っている。神の御前で自己弁護をしても厳しい判決を免れることはできない。しかし、罪を認めるなら、イエス・キリストが私たちを弁護してくださる。キリストの弁護は完璧だ。キリストにあって、私たちは神の御前で無罪だ。

15-16節。サムエルは去って行ってしまった。3千人のえり抜きの兵士が今や6百人しかいない。つまり80%が敵前逃亡してしまったのだ。状況だけを見れば、この時点でイスラエルには何の希望もないように見える。

しかも、敵はじりじりと迫ってくる。17-18節。優勢なペリシテ人には余裕がある。三方向から圧迫して、どこにも逃げられないようにしようとしている。

こんな状況でもイスラエルの6百人は逃げずに残っていた。しかし、彼らは兵と言っても、ろくな装備を支給されてはいなかった。19-23節。このころ、世界は青銅器から鉄器の時代に徐々に移行している時期だった。ペリシテ人は鉄の精錬の技術を習得し、それを独占し、イスラエルにその技術を与えまいとしていたのだ。イスラエルにもモーセの時代には金属の技師がいたが、士師の時代にその技術が失われたのだろう。ダビデ、ソロモンの時代にはイスラエルに金属の精錬技術が広まり、自前で武器や道具を作れるようになっている。ペリシテ人は強力な武器で武装した大軍団、イスラエルはただでさえ劣勢なのに、手にしている武器といえば剣や槍ではなく、本来は農具として使う鋤や桑ばかり。

日本の霊的な状況もこのときのイスラエルと同じようなものかもしれない。この状況でどうしよう?神を信じて戦って勝利しよう!どんなに絶望的に状況に見えても、神には覆す力がある。私たちは勝つことができる。そう信じて、勇敢に信仰の戦いを戦う者となろう。

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