オカルトに頼るサウル[サムエル上28章]

サムエル記
スポンサーリンク

人には導きが必要ですが、どんな方法でも良いわけではありません。
オカルトは人を破滅させます。

オカルトに頼るサウル[サムエル上28章]

オカルトに頼るサウル[サムエル上28章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
1-2節。ダビデは1年4か月に渡ってアキシュをだまして、すっかり信頼された。アキシュからあまりに信頼されすぎたので、ペリシテ人の対イスラエルの一大決戦に護衛兵の長として召集されてしまった。ダビデは自分を守るために嘘をついたが、一度嘘をつく、嘘をつき続けなければならなくなる。嘘が自分を縛るようになる。イスラエルとの戦いにまで駆り出されようとしたとき、ダビデは「なんてこった。イスラエルと戦いたくなんてないのに。どうやってやり過ごそうか」と内心思ったに違いないが、アキシュには「それによって、僕の働きがお分かりになるでしょう」と答えている。嘘は良くない。嘘は、最終的に自分を破滅させ得るものだということを認識しよう。嘘は良くない。罪を犯しても、人に隠すだけでなく、自分自身までをも欺いて「私は悪いことをしていない。仕方なかったのだ」などと妄想したり自己弁護したりし続ける人がいる。そういうことをしていたら、いつまでもその罪から清められることができなくなる。ダビデはそれからずっと主に祈り続けただろう。「主よ、イスラエルと戦いたくありません!何とか戦いを避けられるように助けてください!」と。

3節。サムエルの死については、25章で起こったのに、ここで再度アナウンスされている。サムエルについては、「主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」と書いてある。サムエルが死んでもういないということは、主からの預言の御言葉をいつでも取り次ぐことのできた強力な預言者が失われたということ。
また、もう一つの過去の出来事としては、サウルは口寄せや魔術師を国内から追放していた。それは良いことだ。霊媒や魔術をすることは、律法ではっきりと禁じられている。レビ20:6,27。霊媒をすることは死罪であり、関わりを持つことは神の民としての身分を失うことになる。聖書は変わらない。クリスチャンの中には、占い、魔法、超能力、霊媒といったオカルトと関わることは、大したことないと何の根拠もなしに想像している人がいる。しかし、オカルトは恵みの新約の時代の今でも、大きな罪であって、クリスチャンがそれに少しでも関わることは堕落を意味する。新約聖書にも、それが致命的な罪であるということはちゃんと書いてある。オカルトの罪は天国に行けない人のリストの中に見られる。黙示録21:8、ガラテヤ5:19-21。オカルトを悔い改めないということは、天国に入ることを危うくするのだ。オカルトと関わることは悪魔と契約を結ぶことになるからだ。占いや霊媒によって導きを求めることは、悪魔の話に耳を傾けることであって、悪魔の支配下に入って悪魔の嘘偽りに自分の人生をゆだねることになる。オカルトに関わると永遠の破滅に一歩近づくということを覚えておこう。だから、過去に一度でもオカルトの罪を犯したことがあれば、すぐに悔い改めて、悪魔との契約を破棄しよう。サウルは律法で意図されていることを正確につかんではいなかったが、とにかく主への熱心さゆえに律法の通りにしたのだ。そのときサウルは、オカルトの世界にも確かに何かしらの不思議な力があるのだということは何となく感じた。もちろん、それは決して踏み入れてはならない世界ではあったが。
サムエルの死とオカルトの追放、これはどちらも、導きを求める手段の喪失を意味する。サムエルは主からの預言を語り、オカルトは悪魔の言葉を語った。人生には困難がつきものであり、迷うことが多い。そういうときには何か自分よりも偉大なものからの導きや励ましを得て、幸せをつかみたいと願うものだ。そういうとき、方法は何でもよいのではなく、一方は祝福を、もう一方は破滅をもたらすということを覚えておこう。

4-6節。サウルが「ペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた」と書いてある。サウルはその治世全体に渡って戦いに明け暮れた王だ。サウルは勇敢な人物であり、戦いを前に恐れるということは滅多になかった。そのサウルがひどく恐れおののいていた。ペリシテ人との局地戦はサウルの治世でよく行われていた。全面対決となるとそれほど多くはない。
過去の二度の全面対決では、一度目はヨナタンの活躍によって、二度目はダビデの活躍によって勝利することができた。しかし、サウルは勝利に用いられたヨナタンともダビデとも敵対してしまい、万軍の主にも背いて敵対してしまっていた。もう頼れるものが何もない。それで、三度目の全面対決を前にして、恐れおののいていたのだ。主から離れると私たちは恐れにとりつかれてしまう。だから、主から離れてはならない。主から離れたら悔い改めて主に立ち帰らなければならない。そうすれば、恐れは去る。恐れを克服させてくださるのは主だ。主への信仰と従順が勝利を確信させる。ヨシュア1:8-9。主に聞き従って強く雄々しくあろう。
サウルは聖書に記録されている限り初めて主に託宣を求めた。主に聞いた。様々な方法を試してみた。しかし、主は何によっても答えてくださらなかった。主はなぜ沈黙されるのか?すでに語られたことに従順していないからだ。もうすでに必要なことは語られている。それに聞き従えば良いのだ。すでに語られたことに背いている人に、主がそれとは別の新たな御言葉を語るということはしない。そんなことをしてもまた背いてしまうだろうし、それでは、主の御言葉があなどられてしまうだろう。主は本来、私たちに常に、豊かに、様々な方法で語ってくださるお方だ。私たちが求めるなら聖書を通して、心に預言を与えることを通して、夢や幻を通して、人を通して主は語ってくださる。サウルのように、切羽詰まったときだけ主に聞くのではなく、ダビデのようにことあるごとに主に聞く者となろう。主に聞くとき、もし、何も示されず、主が沈黙しておられるように思われるなら、まず自分自身が主の御言葉に対して耳をふさいでいなかったか、吟味して、悔い改めなければならない。

しかし、サウルは悔い改め以外の方法を選んだ。7-11節。口寄せとある。新改訳では霊媒となっている。どちらにせよ、死者や何かしらの霊を自分に憑依させて、その霊を通して語る人のことだ。これが悪魔との関わりを持つことになるのは、その霊というのは、結局のところ悪霊のなりすましだからだ。霊媒師は悪霊にとりつかれた人なのだ。悪魔は偽り者の父であり、悪魔の手下の悪霊も嘘ばかりつく。そして、悪霊は過去に起きた出来事を知っているので、誰かになりすますということは非常に簡単だ。
サウルは以前自分で追放した霊媒に頼った。これはサウルが違犯者であることを証明している。ガラテヤ2:18。以前、これは罪だとして、自分の生活から遠ざけていたものに再び戻ることはあるか。それはやはり罪だ。その罪に誘因する力に対処すべく主に対して信仰を働かせなければならない。
サウルは霊媒師に霊媒を依頼して、「主は生きておられる。この事であなたが咎を追うことは決してない」と主にかけて誓っている。主は霊媒師を死罪としておられるのにだ。サウルの霊的に錯乱状態であることが見てとれる。霊的なフレーズの言葉を使うからといってその人が霊的に健全な状態であるとは限らないことを良く心に止めておこう。
サウルは落ちるところまで落ちようとしていた。しかし、サウル自身にはその自覚がなかった。サウルの中にはいつも言い訳があった。人間は自分を正当化する達人であり、誰でも自分の評価で偽りの義人になることができる。サウルが口寄せを求めたのは、サムエルを呼び出したかったからだ。主が直接御言葉を与えてくださらなくても、サムエルなら語ってくれるだろう。サムエルは主に仕える預言者だ。霊媒は罪だが、預言者に聞き従おうとするのは良いこと。善悪半々だから、それほど悪いことではない。善悪が入り混じった行動は、善なのか、悪なのか?それは悪だ。悪とは、善が腐敗したものだとCSルイスは定義する。少しでも腐った部分があればそれはもはや善ではないのだ。

12-19節。これはオカルトが私たちにどのような害をもたらすのか、主が分かりやすく示してくださっている。ここで現れたサムエルが本物なのか、偽者なのか。ほかならぬ聖書にこれはサムエルと書いてある。このサムエルは預言までしている。それであれば、サムエルであることを疑う理由はない。ということは本来は違法な方法であり、悪霊を呼び込むことになる霊媒だが、そこに主が介入して審判を宣言するのに用いられたということだ。サムエルは、以前サウルに預言した内容を繰り返した。それだけでなく、聞きたくなかったサウルと子供たちが明日死ぬことまで預言した。

サウルがこの時に死ぬことは霊媒をする前から定まっていたのか?そうではない。歴代誌上10:13-14。これがサウルが死の原因だ。霊媒をしたことによってサウルの死が決定的なものになった。オカルトに手を出すなら死ぬというだ。
以前サムエルはサウルに対して、反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しいと言った。その預言の通り、サウルの主に対する反逆は最終的にオカルトの罪に結びついてサウルを破滅させたのだ。

霊媒は何の役にも立たないだけでなく、サウルにさらなる恐怖を与えた。20-25節。サウルの末路だ。魔女は追放され、肩身の狭い思いをしていた。その魔女すら、自分を追放したサウルに同情して食事を提供するほど、サウルはおびえきり、食べ物もろくに喉を通らず、打ちひしがれた状態だ。これが神に反逆し続けて悔い改めようとしなかった人間の末路だ。こんなふうに手の施しようがない状態になる前に、私たちにはもっと良い道、罪を悔い改める、主に聞き従うという道が残されている。イエス・キリストは私たちを愛して、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださった。イエス様が私やあなたのすべての罪を肩代わりしてくださった。キリストの十字架にはあらゆる罪の赦しがある。オカルトの罪も、反逆の罪も、赦され、イエス様が流された血潮によって清められる。罪を告白して、イエス様の十字架の恵みを豊かに体験して、破滅の道を逃れよう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました