エリの息子はならず者で主を知ろうとしなかった[サムエル記上2章]

サムエル記
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ハンナの賛美の祈りはサムエル記全体の預言となっています。

エリの息子はならず者で主を知ろうとしなかった[サムエル記上2章]

エリの息子はならず者で主を知ろうとしなかった[サムエル記上2章]

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【ノート】
1-10節はハンナの祈り。この祈りはルカによる福音書に出てくるマリアの賛歌と非常によく似ている。ペニナとハンナという二人の女性がいて、ペニナは子だくさんで、ハンナは子供なし。ペニナはハンナを攻撃し、ハンナは泣かされた。しかし、最終的に主に賛美の祈りをささげるのはハンナだ。ペニナの祈りはなく、もう名前すら出てこない。苦しめられ、泣くことも、それが祈りにつながるなら良いこと。私たちは苦しみを良い機会ととらえ、祈りと詩編と賛歌に変えよう。

ハンナのここでの祈りの特徴の第一に、喜びを歌っている。ここで、ハンナは息子サムエルとのお別れをしなければならない場面だ。しかし、ハンナはそれ悲しむのではなく、「主にあって」喜んでいる。ハンナに喜びを与え、苦しみから解放してくださったのは息子ではなく、息子を与えてくださった主だ。人間であれ物であれ、お別れしなければならないときは来る。しかし、主にある喜び、主にある御救いは決して失われない。

第二に、逆転を歌っている。勇士とよろめく者、食べ飽きている者と飢えている者、子のない女と多くの子をもつ女、貧しい者と高貴な者といった対照的な二種類の人間の立場が入れ替わることがずらっと書いてある。それは武力革命によって起こるのではなく、主が高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるからだ。主から祝福され、豊かになったら、謙遜にならなければならない。そうでなければ低くされる。また、低くされている者は主の憐れみを求めてますますへりくだろう。そうすれば高めてくださる。この逆転のハイライトはどこかというと、この祈りの真ん中にあたる6節だ。これはイエス・キリストの十字架の死と復活を指している。キリストの十字架の死と復活を仰いで窮地にも逆転があるということを覚えよう。

第三に、サムエル記全体の預言となっている。祈りは本人が知らないうちに預言を帯びることがある。少なくとも3つのことが預言されている。まずハンナ自身のことが預言されている。このない女は七人の子を産みと書いてある。七は完全数なので文字通りの数というよりは御心が成就して十分な子供が豊かに与えられるという意味。ハンナはこの祈りの時点ではまだサムエル1人しか生んでいないが、後で息子3人と娘2人を産む。次にエリの一族のことが預言されている。食べ飽きている者はパンのために雇われと書いてある。祭司は献げ物の肉やパンを食べることができたので、エリも含めて職業病で非常に太っていた。しかし、エリの一族は没落して、パンのために仕事を探さなければならないほどになる。最後にダビデが王権につくことが預言されている。貧しいものが栄光の座を嗣業として与えられると書いてあるが、末っ子で羊飼いだったダビデの出世と重なる。もっとはっきりしているのは10節の「王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる」という箇所だ。この時代に王はいなかった。主が異邦人の王に力を与えるということではもちろんない。これはやがてイスラエルに油注がれた王が立てられ、彼によって周辺諸国を裁くという預言だ。それは、まずダビデの周辺諸国に対する勝利として成就し、究極的にはダビデのひこばえであるイエス・キリストの全世界に対する裁きを意味する。

11節からサムエルとエリの息子たちの対比がなされていく。11節。幼子サムエルは祭司エリのもとにとどまってエリのサポートをするようになった。それはエリに仕えるというよりも、主に仕えることだった。教会で、兄弟姉妹に仕えるということは、単に人間に仕えることではなく、主に仕えることだ。私たちは厳粛な心で臨み、忠実に仕えなければならない。

12-17節は主に仕えて成長するサムエルと対照的なエリの息子たちの悪行。12節。祭司なのに主を知らない!エリは祭司であり、主を知っている人だった。しかし、息子たちはならず者で、主を知ろうとしなかった。ここには主を知る機会があるにもかかわらず、知ろうとしないという本人の問題と、息子たちにしっかりと信仰教育をしなかったエリの問題の両方がある。
士師記全体で課題となった世代間の信仰継承の問題をエリ一家も乗り越えられていなかった。親が信仰者でも子供に自動的に信仰が備わるわけではない。しかし、祭司職は世襲制だからほとんど自動的に継承されてしまう。だから、主を知らない祭司が出てしまう! このように肩書だけ与えられていて、実は主を知らないという場合は今でもある。クリスチャンはみんな水のバプテスマによって、王の系統を引く祭司として任職される。しかし、ただ形式的に水のバプテスマを受けているだけで、信仰がない、主を知らないという場合もあり得る。同じように神学校を卒業して自動的に牧師に任命されているけれども、信仰がない、主を知らない、むしろ主を冒涜する者であるという場合もある。ホフニとピネハスのような人はいる。

では彼らがどんな悪事を働いていたのか?13-14節。ここで下働きは肉をランダムにとっている。それではどの部位の肉を祭司に出すことになるかわからない。しかし、律法では献げ物のうち、どの部位が祭司が食べる部分でどの部位が奉納者が食べる分かということは決まっていた。祭司の分け前は胸と右後ろ脚だ。レビ7:34。下働きは本来は奉納者の取り分も祭司のものとして奪ってしまったのだ。奉納者から盗んだということ。そんなことしなくても祭司には常に食べるものが山ほどあって飢える心配はなかったのに律法に従うことを怠って奉納者のものを奪った罪は重い。しかし、もっと悪いこともしていた。

15-17節。脂肪を焼く前に肉を奪っている。脂肪は主のものとはっきり書いてある。レビ3:16-17。彼らは奉納者の礼拝を邪魔して、主のものである脂肪を焼き尽くすことができないようにした。奉納者から盗むだけでなく、主から盗んだということ。献げる人たちに対しても大きなつまずきを与えた。これはホフニとピネハスの指示の下で行われた。しかし、17節では「この下働きの罪は主に対する甚だ大きな罪であった」と書いてある。誰かの指示の下で罪を犯したとしても、何の言い訳もできない。上の人が主に背くように命令してきたら、従ってはならないのだ。

18-21節はサムエルと両親の主に喜ばれる歩み。18節。サムエルは幼子だったが、エフォドを着て、主の御前に仕えていた。エフォドは祭司が着る服だ。サムエルは幼くしてただの雑用係ではなく、祭司として仕え始めていたということ。19節。ハンナはサムエル誕生の約束をいただくときまで、毎年のシロでの礼拝が苦しみに満ちたものだった。しかし、サムエルを献げた後からは、主に献げた息子に会える唯一の機会となり、上着を縫いながら楽しみにするシロ行きとなった。20-21節。ハンナはサムエルを主に献げることで満足していたが、主の方がエリを通して、サムエルに代わる子供たちを得られるように祝福してくださった。主に献げるということは、失われることではなく、豊かに得ることなのだ。そして、サムエルも失われてはおらず、毎年主のもとで成長した姿を見ることができた。献げることは生かし、成長させ、豊かにする。

22節。エリの息子たちのもう一つの罪は臨在の幕屋の入り口で仕える女性たちを誘惑して姦淫の罪をたびたび犯したことだ。彼らは主に奉仕をする場所で、姦淫の相手を探し、祭司という立場を利用して誘惑したのだ。少なくともピネハスには妻がいたのに。このことはイスラエル中で噂になり、エリの耳にも入った。23-25節。エリは息子たちを諭してはいるが、息子たちは聞き入れない。年をとってから諭そうとしてもおそいのだ。もっと幼いころからしっかりと信仰教育をしなければならなかったのだ。「人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」と書いてある。ましてや、本来神と人との間に立って執り成すはずの祭司が罪を犯したら誰が執り成してくれるのか?エリの時代には知られていなかったが、偉大な大祭司であるイエス・キリストが執り成してくださる。イエス・キリストに執り成しがあるので、私たちはエリの息子たちのように頑なになってはならない。人の諭しの言葉に耳を傾け、罪を犯したら悔い改めて主に立ち帰ろう。

「主は彼らの命を経とうとしておられた」とある。これは彼ら二人に対する裁きの決定にとどまらず、旧約の祭司制度の限界を暗示している。人を執り成す祭司が、世代交代に失敗して断たれてしまうようではいけない。そこで今は、永遠に生きる大祭司なるイエス・キリストが立てられているのだ。

エリは信仰教育が下手だった。しかし、そんな中でもサムエルは立派に成長していった。26節。なぜ教育が下手なエリと最悪なホフニとピネハスの中にいて、サムエルは健全に成長をすることができたのだろうか。一つには乳離れまでの両親の信仰教育が大きな影響与えただろう。しかし、乳離れ以降は、両親とは年に一回会うだけだ。それは、主がサムエルを成長させてくださったからだ。ハンナはサムエルを主にゆだねた。親は遅かれ早かれ、自立させるためにいつかは子供を主にゆだねなければならない。信仰によって主にゆだねるなら、主は親よりもずっと上手に子供を成長させてくださる。Ⅰコリント3:6-7。

27-36節は神の人からの預言。神の人は名前もどこから来たのかも分からず、ただ神の御言葉だけを語り、去っていく。人間なのか天使なのかもわからず、ただ語った御言葉だけが残る。それによって、神が御言葉を語るために遣わしたのだということがわかる。
祭司の家の没落という不幸が、神に力がないから起こるのではなく、むしろ、彼らが神に背いたので、神によって引き起こされるのだということを明らかにするためだ。主は決して侮られるままにはされない。
27-28節。主は、エリの先祖に主に仕える特権と献げ物の分け前を取れるという特権が与えられていることを思い起こさせる。大きな特権には大きな責任が伴う。それだけ背任の罪は重い。

29節。エリの罪は主が命じた生け贄と献げ物をないがしろにしたことと主よりも大事にしたこと。この2つはリンクしている。実際には生け贄と献げ物をないがしろにしたのはホフニとピネハスだ。父は子の罪によって罰せられず、子は父の罪によって罰せられないというのが律法の大原則。しかし、エリの場合、父である前に祭司であって、後継者の祭司にどのようにして献げ物を大事にしなければならないのかということをよく教え込む必要があった。それを怠った罪は大きい。親が子供を可愛がりすぎて罪と地獄を恐れさせることを怠るなら、かえって子供を滅ぼすことになる。エリは主よりも息子たちを大事にしたので、家に災いを招き、息子たちも失うことになる。ハンナは息子サムエルよりも主を大事にしたので、家に大きな祝福をもたらし、サムエルも大いに用いられるようになった。
30節からは判決。30-34節。罰1、短命。ホフニとピネハスの死はしるしに過ぎない。サウル王が祭司の街ノブを剣で滅ぼしたときにこのことが本格的に実現した。

35-36節。罰2、特権の喪失。この罰はソロモンの時代のアビアタルの失脚によって成就する。実に100年以上後だ。長い年月をかけることはあるが、主はやると言ったことはやるのだ。私たちはこれを警告として、王の系統を引く祭司として、献げ物を軽んじたり、自分の子供を主よりも大事にしたりしないようにしよう。ところで、ここに書いてある忠実な祭司とは誰のことだろうか?サムエルのことではない。アビアタルの失脚の後に立てられる祭司ツァドクの家系を指している。ツァドクがどう仕えたかということは、詳しく書いていないが、ダビデとソロモンの時代を通じて、祭司として長い間用いられた。そして、アビアタルと違って主の定めに反することはしなかった。不忠実な者たちの醜聞は広まり、人々に知られるが、忠実な者たちについては、特別注目はされないものだ。私たちは良い意味で、つまり、忠実であるがゆえに話題に登らない者になろう。主はちゃんと見ておられる。

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