契約の箱をエルサレムに運ぶ[サムエル下6章]

サムエル記
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神の臨在はあなたとあなたの家族と財産をすべての面で祝福します。
神の臨在、神の臨在を大切にする者に力強く臨みます。

契約の箱をエルサレムに運ぶ[サムエル下6章]


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【ノート】
1-5節。ダビデはイスラエルの精鋭3万人を動員した。契約の箱をキルヤト・エアリムから運ぶためだ。サウルの時代の治世には契約の箱は放置されたままになっていたので、すでに50年近く経過していたことになる。イスラエルは神の民なのに、神の臨在を伴う契約の箱を50年も放置していた。これは、クリスチャンが、神の臨在なしで一生を終えるようなもの。あるいは教会が、神の臨在なしで、機械的にプログラムを進めていくようなもの。神がそこにおられないのに、淡々とプログラムだけ進める。それは命のない、空っぽな、無味乾燥とした歩みだ。神が力強く臨在されるとき、後にオベド・エドムが体験したように、それだけで、祝福が絶えなくなる。私たちはどうすれば人生において、教会において、神の臨在を体験することができるだろうか?

神の臨在を大切にすれば、神の臨在を体験できる。ダビデは、神の臨在を大切にした。どうして精鋭を3万人も動員する必要があるだろうか?ただ箱を運ぶだけなら、2人いれば十分だ。3万人の精鋭は神の箱をお迎えするにあたっての盛大な礼拝として用意された。神の臨在に対して最大限の敬意を払い、最大限尽力している。さらには、ウザとアフヨという二人の祭司がいた。これは今で言えば牧師のような立場の人々。聖別された人々、礼拝のプロフェッショナルも用意されていた。また、様々な楽器を使った演奏が行われた。それは、沿道にいる人々に聞かせるためではない。「主の御前で」と書いてある。音楽の演奏も、礼拝として、主にささげるためになされたことだ。律法書には、楽器を使って礼拝するようにとはほとんど書いていない。楽器といえば、せいぜいラッパの祭りに用いられたくらいだ。だから、楽器による礼拝はダビデから始まったものだ。ダビデは精鋭大勢を集めて、プロフェッショナルを動員して、楽器の演奏を行いながら契約の箱を運んだ。もともと戦争のために動員されたようなものを、ダビデは契約の箱を運ぶ上で動員した。賛美による礼拝と戦争には関連性がある。悪魔との霊的戦いは、賛美と祈りによって神の臨在をお迎えしたものに勝利が与えられる。神が共におられるなら、悪魔との戦いには絶対に勝てるということだ。

臨在を大切にする者に主は力強く臨在してくださる。臨在を大切にしよう。神の臨在を喜び迎えるべく、最大限尽くそう。教会の礼拝をささげることに真剣になろう、熱心になろう。家でもそうしよう。四六時中、感謝と賛美を主にささげよう。賛美のDVDを用意すると良いだろう。神の臨在はいつもあなたの家にとどまるようになる。栄光が雲のように現れてくる。
でも、一つ気をつけたいこととしては、私たちは、一生懸命がんばって神の臨在を「造り出す」ものではないということを認識しなければならない。新約に生きる私たちに対しては、イエス様の恵みによって、全然がんばらなくても、神はいつも共におられる。ヘブライ13:5。マタイ28:20。ヨハネ14:16-17。大切なのは、サウルの時代のイスラエルのように神がおられることを忘れてしまい、おろそかにしてしまうことなく、いつも神が共におられる、絶えず神が共におられるということを、御言葉をもとに意識することだ。そうするときに、神が力強く臨在してくださるようになる。

ダビデの契約の箱を運ぼうとする姿勢は良かった。しかし、一つまずいことがあった。6-10節。ウザが主に打たれて死んでしまった。どうして主はウザを打たれたのだろうか?過失ゆえにと書いてあるが、ウザがしたのは、神の箱が落ちそうなのを手で支えただけではないか。
どうしてこれが過失で、ウザが打たれてしまったのか、詳しく書いていない。ダビデも、理由もわからず突然ウザが主に打たれて死んだので、主に対して怒った。私たちも、理由もなしに突然の不幸に見舞われると、神に対して怒ってしまうことがあるかもしれない。神は森羅万象を司るお方だ。イエス様は、神の許しなしには、空の鳥すら地に落ちることはないと言われた。人間については、なおさら大切にしてくださる。それであれば、私たちを襲う突然の不幸もすべて、究極的には神の許しのもとに起こるということになる。その理由がわからないとき、不当に思われて、神に対して怒ってしまうのだ。それでは、そういう場合、神と人間、どちらが正しいのだろうか?当然、神が正しい。常に神が正しい。そして、理由が最後までわからないこともあるが、よく吟味してみればわかることもある。ダビデが遭遇したことについても考えてみよう。ウザとアフヨは祭司だ。祭司ということは、神に関する事柄のプロフェッショナルであり、律法に精通していて、礼拝の方法についても熟知していなければならない立場だ。当然、どうやって契約の箱を運ぶべきか知っていなければならない。契約の箱は民数記4章によるとレビ人のうち、ケハトの氏族がかついで運ぶように定められている。それなのに、ウザとアフヨはペリシテ人たちと同じように牛にひかせるという間違った方法をとってしまった。祭司が異邦人のやり方で主を礼拝した。祭司あるまじき行為だ。それで、主に打たれたのだ。ダビデに過失があるとすれば、主に聞かなかったことだろう。ダビデは戦いのとき主に託宣を求めたが、契約の箱を運ぶ上では主に聞いていない。この点でダビデは軽率だった。何事についても、主の御声を聞いてその通りにする姿勢が必要なのだ。不当に思えることが起こったとしても、そこには適切な理由がある。もし過去の不幸な出来事について、いまだに神に対して怒っていることがあれば、悔い改めよう。ある意味、神を許し、神の主権、神のすばらしいご計画を認めよう。

11-12節。オベド・エドムという人物が出てくる。ガト人とあるが、ガトはペリシテ人の都市だ。だから、オベド・エドムはおそらくペリシテ人だ。しかし、外国人でありながらもダビデに信頼していたらしく、急に契約の箱がオベド・エドムの家に置かれることになった。手で触れただけで死んでしまう神の箱が家にやってきたのでオベド・エドムは驚いただろう。ところが、契約の箱が置かれてからというもの、主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。オベド・エドムが何もしなくても、ただ契約の箱があるだけで祝福された。神の御心は、人を裁いて滅ぼすことではなく、祝福することなのだ。その祝福の内容は、一家と財産のすべてと書いてある。具体的にどういうことが起こったのかは書いていないが、それは多くの人の目にはっきりとわかるほどの祝福だったので、ダビデの耳にも届くようになった。一家は皆、健康が守られ、仕事がうまくいき、社会的にも出世し、周囲の人々と良好な人間関係を築くことができたのだろう。財産のすべても祝福されたと書いてあるので、オベド・エドムの家に入ったり、持ち物に触れたりするだけで祝福されるほどだったのだろう。神の臨在があると、ただそれだけで、祝福される。すべての面で祝福される。家族や財産まで祝福される。はっきりわかるほど、ほかの人が驚き、うらやむほど祝福される。そんな祝福を体験したいか?それであれば、神の臨在を意識し、歓迎しよう。
ダビデはオベド・エドムが祝福される様を見て悔い改めた。私たちが神様の祝福を受けていると、それだけで人々を悔い改めさせ、イエス様に立ち帰らせることができる。クリスチャンについては「ああ、主は本来あのように人を祝福される方だ。私が祝福されなかったのは、私の不従順のゆえだった」と悔い改めさせ、未信者については、「私もあのように祝福されたい」として悔い改めさせられる。
ダビデがオベド・エドムの家から契約の箱を運びだした。すると、オベド・エドムの家からは神の臨在がなくなってしまっただろう。祝福も止まっただろう。今はそういうことがないことが本当に感謝だ。新約でいうところの契約の箱は、私たち自身だからだ。

12-16節。ここで、ダビデはまた新しいことを行っている。まずエフォドを着けている。エフェドは、本来祭司が着るものであって、王であるダビデが着るべきではない。
しかし、特にこのことはおとがめなしだ。なぜだろうか?ダビデは預言者だったので、主から示された通りにふるまったに違いない。ダビデがやったことは、ある意味新約のスタイルを先取りするものだ。ダビデはこのとき、王と祭司を兼任する働きをしている。これはまさにクリスチャンにあてはまることだ。Ⅰペトロ2:9。新改訳第3版では「王である祭司」となっている。ダビデは王である祭司としてふるまっている点で新約のクリスチャンと同じスタイル。それであれば、ダビデのように飛び跳ねて踊ることも、新約スタイルだということ。もし私たちが厳密に聖書に基づいて礼拝をささげようとするならば、ただただ静かで厳粛な礼拝ということはありえない。もちろん時に静けさがあっても良いだろう。だが、基本的には礼拝はにぎやかなもの。手をあげたり、手をたたいたり、飛び跳ねたり、踊ったり、様々な楽器を鳴らしたり、角笛までも吹いたりする。主が共におられるのだから、喜びを大胆に表現するのは当然のことだ。私たちはミカルのように喜びを表すものをさげすんではならない。主にある喜びがあふれてくるのに、あえておとなしくしようとするのは不従順で不健康だ。ダビデのように主にある喜びを爆発させて礼拝をささげよう。

17-19節。ダビデは喜びを民全員に惜しみなく分かち合っている。主にある喜びは伝染するものだ。主の臨在によって祝福されたら、周りの人を祝福し、主の御業を証しし、喜びを表す贈り物をしよう。また、逆の立場からすると、私たちはダビデのように主にある喜びに満たされた人が周りにいたら、白い目で見てはならない。さげすんだり嘲ったり遠ざけたりせずに、その喜びを共にする者となろう。「私もあの人のようになりたい」として共に喜ぶ者になろう。

イスラエルの民たちは皆、ダビデと喜びを共にした。ただ一人、ミカルだけが違った。20-23節。ミカルはダビデが「裸になった」と言った。もし本当に真っ裸だったなら、確かにほめられたものではない。もし同じことをやったら犯罪になる。ダビデはエフォドを着ていたので、真っ裸だったわけではない。これは王としての品がないことを表す表現だろう。ミカルはダビデがごろつきのような振る舞いをしたと非難している。ミカルは王家の娘として気位が高かったが、サウル同様、主を愛する心が欠けていた。
ダビデの返答は、「お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ」誰のためでもなく、主の御前でということが強調されている。ダビデは礼拝者としてただ主を見ていて、ほかの人間の目からどういうふうに見られようが全く気にしなかった。そのことは高慢なミカルにはわからなくても、神の民の「はしため」つまり身分の低い女性たちには理解され、敬われることになる。ミカルは子を持つことのないまま死の日を迎えたとある。主の臨在は本来一家を祝福するものだ。しかし、ミカルは冷ややかな態度をとったばかりに、ダビデと共に祝福に与かることができなかったのだ。冷ややかな態度が、祝福を遠ざける。主の愛は燃える炎だ。冷ややかな態度とは無縁だ。燃える愛を持って主を愛し、主を喜び、主の臨在を歓迎する者になろう。

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