死んだ犬が受けた恵み[サムエル下9章]

サムエル記
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メフィボシェトが契約のゆえに受けた恵みは、まさに福音の恵みです。

死んだ犬が受けた恵み[サムエル下9章]


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【ノート】
1-5節。ダビデはサウル家の中で忠実を尽くす相手を探そうとした。1節と3節の「忠実を尽くす」という言葉は原語ではヘセッドという言葉が使われており、善とか親切という意味があり、新改訳第3版では「恵みを施す」と訳されている。どうしてそんなことを思いついたのか?ヨナタンゆえだ。ダビデとヨナタンは深い友情で結ばれていた。ダビデはヨナタンの死を知ったとき、ヨナタンのダビデに対する愛を「女の愛にまさる愛」と表現した。しかし、単にヨナタンとの麗しい過去の思い出があったというだけでは、ダビデもここまでの行動を取らなかっただろう。3節で、「神に誓った忠実」と書いてある。ダビデとヨナタンの間には主なる神様にあって結んだ契約があった。その契約は、ヨナタンが死んでも終わらない。ダビデの家とヨナタンの家との間に結ばれた契約なので、いまだに有効だ。ダビデはヨナタンと結んだ契約を意識して、その契約を履行して恵みを施す対象を探した。神様は真実なお方であり、契約を必ず守られ、恵みをお与えになるお方だ。その神様を信じる者たちも、神様に倣って、主にあって結んだ契約について真実であろうとし、恵みを施そうとすることは御心に適うことだ。私たちの忠実な態度、また気前よく良いものを分け与える態度を通して、神様がどんなにすばらしい方かを表すのだ。御心に適うことをすれば結果が伴う。からぶりでは終わらない。友人のダビデすらも知らなかったヨナタンの子どもが一人いて、連れてくることに成功した。昔かたく約束したことで、放置してしまっていることは何かないか?あれば果たそう。恵みを施すべき人々はいないか?いれば惜しみなく恵みを施そう。そうすれば、あなたを通して、メフィボシェトのように主にあって回復を体験する人々が起こされてくる。

6-11節。メフィボシェトはダビデからの好意に驚いてしまった。8節で、メフィボシェトは自分のことを「死んだ犬」と表現している。犬というのは聖書では汚れた生き物として書かれている。新約聖書では汚れたアイデンティティーを持つ人のことを犬のような者と書かれている。また、死んでいることも汚れだ。死者や死んだ動物に触れたら汚れてしまう。死んだ犬は二重の意味で汚れている。コヘレト9:4から死んだ犬というのがどれだけひどく悪いかわかる。メフィボシェトは二重の意味で呪われていた。

第一に、サウル家の人間だ。王座がサウル家からダビデ家に移った。新たに別の家から王が出ると、旧王家は不穏分子として根絶やしにされてしまうのが古代世界では常だった。実際、聖書でも列王記の北イスラエル王国の歴史を見ると、クーデターによって王座が別の王家に移ると、新しい王によって旧王家がみんな滅ぼされてしまうということが何度も出てくる。それで、メフィボシェトもダビデの前に出るとき、恐れおののいた。
第二に、メフィボシェトは両足が不自由だった。律法では、主に献げる動物には障害があってはならないとされている。また、主に仕える祭司にも障害があってはならない。さらには、ダビデがエルサレムのエブス人を倒したときのエピソードにより「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」とされるようになった。
サウル家であることも足の障害も、どちらも自分のせいではない。メフィボシェトがどうすることもできないことだ。しかし、その二重の呪いによって、メフィボシェトが唯一希望できることといえば、ひっそりと静かに生きて、生涯を終えることだけだ。
そして、個人的にもメフィボシェトがダビデから高評価を得られそうな理由はない。メフィボシェトはダビデと初対面だ。今まで、ダビデのために一生懸命働いてその統治に貢献したことはない。また、両足が不自由なので、ダビデのために戦場で戦う能力はない。過去に役に立ってわけではないし、将来そうなる見込みもあまりない。ダビデから良くしてもらう資格は何もないように見える。
にもかかわらず、ダビデから一方的な好意を受けることができた。なぜか?父ヨナタンがダビデと結んだ契約ゆえだ。メフィボシェトは何もしていないのに、ヨナタンのお陰でダビデの好意が得られた。この契約はクリスチャンが結ぶ新しい契約に似ている。クリスチャンもまた、ただイエス様と結んだ新約ゆえに、死んだ犬のような者だったのに、罪の呪いを幾重にも受けていた身だったのに、何の功績もないのに、神様の一方的な愛のご好意を受けることができる。私は何もしていないのに、ただただイエス様がすべてを成し遂げてくださったお陰で天のお父様のご好意を恵みとしてただで受けることができる。ダビデはキリストの予型だ。ダビデを通して提供された恵みの内容を知ることによって、イエス様が私たちに提供しておられる恵みの内容を知ることができる。7節のダビデの言葉から、その恵みの内容を大きく3つ取り上げる。

第一に、「恐れることはない」という言葉をかけられた。偉大な人物の前に出ることは誰でも緊張してしまい、粗相がないようにしなければならないと思うものだ。ダビデ王の権威や名声についてはメフィボシェトも良く聞いていただろう。ダビデがその気になれば、メフィボシェトの命は簡単に奪われてしまう。しかも、メフィボシェトにはサウル家の人間であり、障害であるという二重の負い目があった。確かに、父ヨナタンがダビデと親しかったのは良いことだが、祖父のサウルがダビデを追い回したという悪いことの方が裁かれるのではないかと恐れた。ところが、ダビデは「恐れることはない」と言った。この言葉を聞いてメフィボシェトはどれだけ安心したことか。悪いことについての追求ではなかった。ダビデはメフィボシェトの家系にまつわる悪い点はすべて忘れて、ただひたすら良い点についてだけ報いようとしていた。
この「恐れることはない」というのは、主なる神様が良く口にされることでもある。人間は皆やがて、古代世界の王よりももっと絶大な力を持つ方の御前に必ず立つことになる。イエス様が言われた「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」のことだ。その時、自分が犯してきた罪の数々が思い起こされる。裁きにかけられる前から、もう有罪だということがわかる。それはどれだけの恐怖かわからない。しかし、イエス様の恵みを受けた者は「恐れることはない」。罪は全部イエス様が負ってくださったので、もう私たちが裁かれる分は残っていない。その時間にはただひたすら主の栄光を現した事柄が、評価され、ほめられて、永遠のご褒美をいただいていくことになる。主はあなたに言われる「恐れることはない」。主の御前に進み出るとき「恐れることはない」。もう裁きはなく、良いもの、天の報いだけが残っている。

第二に、地所をすべて返してもらった。サウル家が滅亡したかに見えたので、その嗣業の地は失われてしまった。主を失い、直系の相続人がいない土地の末路については、遠い親戚のものになったり、祭司に寄進されたり、荒れ果ててしまったりと、様々な可能性があるが、サウルの土地の場合、一時的にダビデのものになったようだ。王の権限がサムエルによって紹介されたが、その中には土地を没収するというものがあった。これは正当な持ち主がいてさえ可能な強力な権限だ。相続人のいない土地ならなおさら簡単に没収できてしまう。おそらく、サウルもその権限を使って広大の土地を持っていただろう。実際その土地の管理にはツィバの家の15人の息子と20人の召し使いを動員しなければならないくらいだったから、かなり広大な土地だったに違いない。本来なら、メフィボシェトも大邸宅や広大な畑を相続する権利を持っていた。しかし、家が潰れて、すべて失われてしまった。ずっと居候として肩身の狭い思いをしていた。それが、いきなりダビデによって全部返ってきて、自分のものになったのだ。
これは、全面的な贖いを意味する。あなたが本来持っていたはずの権利は、どれほど栄光に満ちたものだろうか?神の栄光の輝きがあなたの内と外を照らし、地に満ちて地を支配せよという偉大な使命を受け、命の木の実がすぐ近くにあった。それらは罪によって全部サタンに奪われてしまった。人生は空しいものになってしまった。さらにサタンはあなたを食い尽くして、あなたの努力、あなたの経済、あなたの健康、あなたの人間関係、あなたの貴重な若い日の時間などを全部台無しにしてしまったかもしれない。いなごが食い尽くすようにサタンに食い尽くされた人生を過ごしてきたかもしれない。しかし、イエス様に出会うとき、全部贖われる。神の栄光の輝きが回復し、貴い使命が回復し、永遠の命を得た。やがては復活の朽ちない体を得て、イエス様から千年王国で支配する地所が配られる権利まで与えられる。それに加えて、ダビデがツィバに命じてメフィボシェトの家を守らせたように、イエス様はあなたの必要が満たされるように守ってくださる。聖霊様による加護があり、天使による守りがあり、兄弟姉妹たちの祈りと助けがある。だから、生きていく上で、何も心配しなくていい。仮に今までどれだけ多くのものを失ったとしても、悔やむ必要はない。イエス様からすべてを償ってあまりある恵みが与えられる!ハレルヤ!

第三に、王の食卓で食事をする権利が与えられた。これは古代世界では共通して、その国の中で最も名誉ある地位に引き上げられたことを意味する。王の食卓で食事をできる人物はごくごく限られていた。王の近親にあたる人物か、特に目をかけられている重要人物だけだ。たとえば、サウルの王の食卓には、義理の息子のダビデがつくことを許されていた。また、列王記下の最後には、南ユダ王国の元王だったヨヤキンが、バビロンの王エビル・メロダクの即位の時に恩赦をかけられて出獄させられ、王と共に食事をする権利を得たことが書いてある。それがわざわざ最後に書いてあるのは、国は滅びてもまだ神の憐れみがあり、名誉が回復されるのだという前兆を示すためだ。王と一緒に食事ができるというのは、なかなか得難い最高の栄誉なのだ。メフィボシェトは王子の一人のようになり、幼い時に失われたロイヤルファミリーのような身分が回復された。
イエス様を受け入れるときに最初に回復されることもやはり、王と共に食事をする権利だ。黙示録3:20。私たちは、イエス様との内なる親しい交わりをこの地上の生涯でずっと楽しむことになる。それを外にも表したのが聖餐だ。聖餐にあずかれるということは私たちが天国のロイヤルファミリーの一員であり、最重要人物であり、最高の栄誉にあずかっているということなのだ。やがて、イエス様が再臨されるときには、メシアの祝宴が開かれる。あなたはもうその食卓に予約されているか?もしまだならば、今日イエス様からの招待に応じて、予約をすませよう。

12-13節。ミカという息子が紹介されている。ダビデとヨナタンの間の契約の恵みは、メフィボシェトだけでなく、ミカにも注がれるのだ。イエス様の恵みを受けると、あなただけでなく、あなたゆえにあなたの家族も祝福される。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と書いてある通りだ。
メフィボシェトは両足が不自由だったのでエルサレムに住んだ。どこにも行けない代わりに、ダビデ王のもとにいることができた。ある教会、ある仕事、ある人間関係の内にとどまるということは、ある意味不自由なことだが、その場所で落ち着いて存分にイエス様にある恵みを味わい尽くすことができるということでもある。それは大きな祝福だ。

メフィボシェトの名前の意味は「恥の払拭者」だ。二重の呪いを受けていたが、ダビデ王の恵みで一気に引き上げられ、すべての恥を払拭できた。あなたもまたメフィボシェトのように恥の払拭者になることができる。これまでの人生でどれだけ屈辱を味わってきたとしても、イエス様の恵みで一気に引き上げられることができる。イエス様がすべての呪いからあなたを解放してくださる。あなたはもうその恵みを受けたか?もしまだなら、今イエス様を受け入れよう。

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