弟子道を極める

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【ノート】
イエス様は大宣教命令で、弟子たちに対して、「すべての民を私の弟子にしなさい」と命じられた。マタイ28:18-20。私たちは、イエス様の弟子としてこの命令を受けている。一人一人がこの命令を守るように召されている。これが、私たちがライフワークとして一生涯取り組むべきもの。この箇所から弟子とは、ただイエス様を信じる者というのではなく、イエス様が命じたことをすべて守るように教えられた者だとわかる。ということは、私たちが大宣教命令を成就するには、誰かに福音を語って、イエス様を信じて受け入れる祈りを導いたとして、それでゴールではないとわかる。その後さらに、イエス様が命じられたことをすべて守るように教えなければならない。誰がそうすることができるだろうか?もちろん、イエス様の弟子として十分訓練された者がそうすることができる。訓練された弟子が、ほかの人々のことも弟子にすることができる。大宣教命令に従うためにはまず、自分が訓練された弟子にならねばならない。では、弟子として訓練される上で、私たちに与えられている最高の教材は一体何か?それはもちろん聖書だ。Ⅱテモテ3:16-17。訓練と書いてある。今日は訓練教材である聖書から、弟子としての心得と祝福をお伝えする。

第一に、弟子は、すぐにイエス様に従う。十二弟子たちが弟子になったとき、皆、すぐにイエス様に従った。マルコ1:17-20、2:14。十二弟子は、みんな暇をもてあましていたからイエス様に従うことができたのではない。忙しかった。ペトロたちは漁師だったし、マタイは徴税人でまさに仕事の真っ最中だった。彼らは仕事も、富も、家族も残してイエス様に従った。すぐに従った。言い訳をした人々はイエス様の弟子になれなかった。言い訳をした人々のことはルカ9章に出てくる。ある人は、「父を葬りに行かせてください」と言い「まず家族に暇乞いをさせてください」と言った。またある金持ちは財産を処分することを惜しんでイエス様に従えなかった。私たちはイエス様から何かを命じられたとき、言い訳をしようとすればいくらでもできる。誰でももっともらしい理由をあげて「無理です」とか「待ってください」とか「いつか従います」とか言える。しかし、それはイエス様の弟子がとる態度ではない。イエス様から何かを命じられたら、メッセージで、ディボーションで語られたことがあったら、言い訳をせずにすぐに従おう。

第二に、弟子は何があってもイエス様から離れない。弟子ではない人々もイエス様の周りにはいた。群衆だ。群衆の特徴は何か?群衆も何らかの良いものを求めてイエス様のもとに行く。イエス様のすばらしい教えを聞きたい、イエス様から癒していただき、悪霊を追い出していただきたい。別にそれは悪いことではない。ぜひそうしていただこう。群衆と弟子たちの違いは、群衆は、自分の願望が満たされると、満足してイエス様から去っていってしまうことだ。映画のエキストラのような存在だ。決して神様に用いられることがない。弟子たちはずっとイエス様と共にいる。朝起きるときも、夜眠るときも、カナの婚礼に出席するときも、嵐の湖を船で渡るときも、病人を癒し悪霊を追い出すときもイエス様の周りには弟子たちがいた。でも、弟子の中にもイエス様から離れてしまう人たちもいたのではないか?確かにいた。イエス様が命のパンについてのメッセージを語ったとき、理解できずにイエス様から離れていく弟子たちがいた。しかし、それでも離れない弟子たちもいた。ヨハネ6:66-69。イエス様から離れないのが「本当の弟子」たちだ。私たちにとって、イエス様から離れないとはどういうことか?ヨハネ8:31-32。イエス様の御言葉にとどまることだ。イエス様の御言葉にいつまでもとどまる本当の弟子になろう。どんな困難があってもイエス様についていく者になろう。アーメン。

第三に、弟子は挫折してもまた立ち上がる。本当の弟子だからといって、絶対に挫折しないということではない。人間的な弱さによって、大きな失敗をしてしまうこともある。イエス様の十字架を前にして、十二弟子たちは、一人がイエス様を裏切って銀貨30枚で売り、十一人がイエス様を見捨てて逃げてしまい、そのうち一人はイエス様を三度否定した。本当の弟子でも挫折はある。大切なのはそこから立ち上がることだ。イスカリオテのユダは、イエス様を裏切った後、後悔のあまり自殺してしまった。彼は立ち上がらなかった。主は、あなたが挫折するとき、立ち上がることを望んでおられる。むしろ、主があなたを立ち上がらせてくださる。ルカ22:31-32。主はあなたが過去の挫折から、あるいは将来の挫折から立ち上がることができるように執り成して祈っていてくださる。「こんなことをしてしまったからにはもうイエス様の弟子として歩むことはできない」などということは何一つないのだ。イエス様は執り成して祈るだけでなく、復活した後、漁師に戻ってしまったやぶれかぶれの弟子たちの前に現れて、「私の羊を飼いなさい」と三度言われた。つまり、もう一度召命をお与えになったのだ。「あなたは失格者ではない。あなたは過去に与えた召命にこたえられなかったと思うか。それなら、私は別の言葉でもう一度あなたに召命を与えよう」ということだ。主の弟子として、挫折しても何度でも立ち上がる者になろう。

第四に、弟子にはイエス様の御業を目撃する特権が与えられている。群衆は、たまたま居合わせたときにイエス様の御業のほんの一部を見ることしか許されない。弟子たちにはイエス様が御業をもっと多く目撃する特権にあずかった。イエス様が水の上を歩くのは、弟子たちしか見ていない。ヤイロの娘を生き返らせるときには、十二人の弟子のうちでも三人の弟子たちだけがそれを目撃する栄誉にあずかった。イエス様が十字架で死なれ三日目に復活されたのは弟子たちだけが目撃した。ただ興味本位でイエス様のしるしを見たいと願ったヘロデには許されなかった特権だ。私たちが弟子として福音を宣べ伝えるときにも、特権としてイエス様の御業を目撃することができる。マルコ16:20。これはイエス様の霊である聖霊様が福音宣教をするときに働かれるということだ。奇跡を次々と体験する人生を歩みたくないだろうか?それはイエス様の弟子としての歩みだ。

第五に、弟子には神の国の奥義を悟る特権が与えられている。御言葉というのは聞いて悟ると実を結ぶものだ。だから、悟れるか悟れないかの違いはあまりにも大きい。実は、弟子とそうでない人とでは、御言葉を悟る力が全然違う。それはイエス様が明確に区別しておられるのだ。マルコ4:10-12。イエス様がたとえを用いて語ったのは、弟子以外にはわからなくするためだった。イエス様は誰にでも御言葉を安売りするということをしなかった。弟子ではない人々というのはどういう人々か?御言葉をどうしても悟ろうとして求める心がない人々だ。御言葉を聞いても絶対に従おうとする心のない人々だ。そんな人々に御言葉の悟りを与えても全部無駄になってしまう。10節ではイエス様の周りにずっといて、イエス様が語ったたとえの意味を尋ねた人々だけに解き明かしがされている。御言葉を悟って実を結びたいか?イエス様の弟子として訓練された者になろう。

第六に、弟子は聖霊様の力を受けてイエス様と同じように生きることができる。イエス様の弟子訓練は大成功だったのかというと、実はそうでもなかった。あの神の独り子であるイエス様が直接3年間指導したのに、弟子たちは相変わらず誰が一番偉いかと争う人々だったし、肝心な時にイエス様を見捨てて逃げてしまう人々だった。イエス様の弟子訓練はそこまで成功していなかった。
しかし、使徒言行録を見ると、十二弟子たちは人格も霊性も別人のように変えられ、イエス様が何人もいるかのように豊かに実を結んでいる。いったい何が決定的な変化を与えたのかといえば聖霊様だ。聖霊降臨前までの時点では、イエス様ですら、弟子訓練を大成功させたとは言えなかった。ましてや、私たちが聖霊様のことを脇に置いて弟子訓練に励んだところで大して変わることはできない。聖霊様がイエス様のように生きる力を与えてくださる。逆に、イエス様が地上にもう一度来て、直接指導していただけなかったとしても、聖霊様がおられるので私たちは十分にイエス様のようになれる。人格的な部分については、ガラテヤ5:22-23。力にはついては、使徒1:8。この力には奇跡の力すら含まれる。イエス様は聖霊降臨を見越して、大胆な発言をなさっている。ヨハネ14:12。自分の最大限の努力で立派な弟子になるというのは信じがたい。聖霊様がそうさせてくださることを信じよう。聖霊様がそうさせてくださるなら誰でも訓練された弟子になれるということだ。私の内に働く聖霊様の力を信じよう。聖霊様の導きに従おう。聖霊様の賜物を熱心に求めよう。異言の祈りで霊性を開発しよう。

第七に、弟子は弟子を産む。大宣教命令はそれを端的に示している。命は命を産む。本物は本物を産む。訓練された弟子になったしるしは、訓練された弟子を産むことだ。使徒言行録を読むと、弟子の系譜を見ることができる。まず十二弟子が訓練をした結果、バルナバが成熟した弟子になる。バルナバはパウロやマルコを弟子にする。パウロはテモテとテトスを弟子にしている。使徒言行録の中だけでも4世代まで弟子が立てられているのを見ることができる。パウロは明らかに弟子訓練を意識していた。いつも自分自身を身近な模範として示すことができた。フィリピ4:9。テモテに対しても新たな弟子を産むことを命じていた。Ⅱテモテ2:2。弟子を産む弟子になろう。

第八に、弟子は最も報いられる。弟子道を究めるためには、時につらいことも覚悟する必要がある。ルカ9:23。マタイ10:24-25。そこには困難があるということをイエス様は隠していない。しかし、イエス様はただでそれを私たちに押し付ける方ではない。犠牲した分をはるかに超えるご褒美が約束されている。マルコ10:29-30。犠牲と天の報いの割合は1:100。何を失っても惜しむことはない。与えられる報いを期待して、犠牲をいとわずにとことん弟子の道を邁進しよう。

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