無条件、無償、無限の神の愛

福音&主題メッセージ
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この愛だけがあなたを完全に満たし、安らぎをもたらします。

無条件、無償、無限の神の愛

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【ノート】
私たちが一生懸命がんばる、努力するのは何のためか?多くの場合、人に認められるためというのがある。期待に答えたい、ほめてもらいたい、尊敬されたいという思いがある。親に、先生に、上司に、友人に、異性に、その他の不特定多数の人々に、はたまた、自分自身に認められることを求めて努力する。素行に注意し、善良で正しい人間として生きようとする。知識を身に着け、成績を上げ、試験を合格しようとする。スポーツではうまくなることを目指す。仕事でも、より大きな成果を出すことを求める。より魅力的になろうとする。そうすることで、人々の承認を得ようとするのだ。結局のところ、人は周りからの好意を、愛を求めている。より多く愛されることを求めて努力をするのだ。ただ愛だけが人の心の空洞を満たすことができるものなのだ。人は真実の愛に飢え渇いている。愛によって満たされると人は生き生きするが、満たされないと欲求不満に陥ってしまう。

しかし、人というのは能力の有無、外見、性格、持ち物、育った環境などに違いがあり、愛されやすい人とそうでない人がいる。その違いというのは、努力では簡単に埋められないものだ。私が必死に努力してやっと到達できる地点を、ある種の人々は最初から軽々と超えている。そこには不公平感がある。また、人が持っているものはすべていつか失われてしまうものだ。能力も美しさも経済力も絶対的なものではない。いつまでも最高の能力を発揮できるわけではない。美しさもむなしいものだ。必死に努力して貯めたお金も、事故、災害、社会の大きな変動によって一気になくなってしまうことがありうる。それでは持っているものを失ったら愛されなくなり、人々から見捨てられてしまうのだろうか?そこには不安がつきない。人々からの愛は、私たちの心を満たすことはできない。なぜなら、人々の愛は、条件つきであり、代価を払う必要があり、その愛の程度には限りがあるからだ。そこで、最初から愛を受けることをあきらめて、冷ややかな態度をとり、努力を全然せず、漫然と生きる人もいる。どうせ世の中はこんなものだと。かといえば、どこまでも全力で努力して、愛を勝ち取ろうとする人もいる。私たちはどうすればよいだろうか?私たちは、真実な愛を神から受けて、満たされればよい。

多くの人が神の愛について、誤解している。神もまた人のように私たちに多くのことを要求し、それらの要求をすべて完璧に満たした人だけを受け入れ、愛するのだと誤解している。イエス様の時代、ファリサイ派の人々はそう考えた。ファリサイ派の人々は聖書に則って神が望んでおられる正しい人になることを全力で努力した。彼ら以上に熱心だった人はいない。それで、自分たちは正しい人間だと自負した。しかし、イエス様は彼らのことを偽善者と呼ばれた。実際にはその心が悪い思い、高慢、みだらな思い、殺意、貪欲、ねたみ、無分別などで満ちていたのに、正しい者のふりをしていたからだ。ファリサイ派の人々は誰一人として、神の御前で完全に正しい生き方をしていなかった。ファリサイ派の人々だけでなく人類は誰一人、神の御前で完全に正しい生き方をすることができない。ローマ3:10で「正しい者はいない。一人もいない」と書いてある。それでは、誰一人神に愛されないということになるのではないか?そうではない。私たちはまず自分に根拠を求める時点で間違いを犯している。神の愛を受けるからには、まず何か自分にそれにふさわしい特徴がなければならないのではないかと考えることはあるか?それは間違いだ。天国に行くからには、まず自分にそれにふさわしい正しい生き方をしなければならないのではないかと考えることはあるか?それは間違いだ。神の愛を受けること、天国に行けるということ、救われるということの根拠を自分に見出そうとしてはならない。私たちはまず神を見なければならない。神にこそその根拠がある。Ⅰヨハネ4:10。私たちがまだ何もしないうちから、まず神が私たちを愛してくださった。そして、私たちが罪の赦しを受けられるように、御子イエス・キリストが十字架で死なれるようにしてくださった。私の行い、私の能力ではない。まずイエス・キリストの十字架で神の愛が示されている。救いの根拠も私たちのうちにはない。黙示録7:10。救いは父なる神と小羊イエス・キリストにある。私たちの行い、能力にではない。神を見よう。神にこそある。

神の愛こそが真実の愛であって、私たちの心を完全に満たすものだ。神の愛にこそ、私たちは安らぎを見出すことができる。神の愛によってこそ、私たちは生き生きとすることができる。神の愛のすばらしい特徴を大きく3つお伝えする。

第一に、神は無条件であなたを愛してくださる。神様はあなたの行い、能力、年齢、外見、年収、性格、状況に全く関係なく、何が何でもあなたを愛してくださる。神様は寝ても覚めてもあなたを愛してくださる。頑ななまでに、一途に、変わることなく、あなたを愛してくださる。あなたの心が良いときも悪いときもあなたを愛してくださり、あなたを愛することをやめたり後悔したりすることは決してない。聖書ではこの無条件な愛のことを「恵み」と書いてある。恵みは、神様だけが与えられる良いものであり、それを受ける価値も資格もないものが、神様のご好意によって一方的に与えられることをいう。恵みを受ける根拠は私たちには何もなく、全面的に神様にあるのだ。聖書を解釈する人の中には、そのことを否定する人がたまにいるがそれは間違いである。ローマ4:4-5。ここでは、恵みのことを働きに対して当然支払われるべき報酬と対比して書いてある。恵みは働きがなくても与えられる良いものという意味だとわかる。恵みは当然期待できるものではなく、思いがけずに与えられるものだ。恵みには驚きが伴う。Amazing Grace、驚くばかりの恵みという賛美がある。罪深い私に救いが与えられるという恵みに対する驚きと感動を歌っている。罪人である人間が自分の行いによって期待できるのは、罪に対する罰だけだからだ。

具体的に、神の愛がどんな悪条件を抱える人に臨むと聖書に書いてあるかを確認しよう。マタイ5:44-45。ここでは敵を愛する例として、父なる神が悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせてくださるということが挙げられている。神は敵を愛し、悪人を愛し、正しくない者を愛しておられるのだ。あなたは神の敵か?それであれば、神はあなたを愛しておられる。あなたは悪人か?それであれば、神はあなたを愛しておられる。あなたは正しくない者か?それであれば、神はやはりあなたを愛しておられる。太陽が昇り、雨が降るのと同じくらい確実にあなたを愛しておられる。父なる神は勝手に群れから迷い出た羊を愛するし、遺産を要求して放蕩の限りを尽くして使い果たしてしまった放蕩息子をも愛する。イエス様は御自分を三度否定したペトロを愛しておられたし、御自分を裏切ったイスカリオテのユダをも愛しておられた。この上なく愛し抜かれたとヨハネ13章に書いてある。あなたは道を踏み外した人か、放蕩息子か、イエス様を否定する者か、イエス様を裏切る者か、それであれば神はあなたを愛しておられる。

第二に、神は無償であなたを愛してくださる。無償の愛とは、見返りを求めない愛だ。Ⅰコリント13:5では聖書でいうところの神の愛、アガペーの愛の定義として「自分の利益を求めず」と書いてある。神が私たちを愛するのは、私たちから何らかの利益を求めておられるからではない。神は何にもよらず御自身で存在できるお方、何でも豊かに持っておられるお方、何でもおできになるお方だ。私たちが持っているものを神は全く必要としてはおられない。神は私たちが神に献身したり、奉仕をささげたり、神にために献金したりすることを喜ばれはする。しかし、そのことを神は全く必要としてはおられない。神は下心のない純粋な愛で私たちを愛しておられるのだ。イエス・キリストによる救いも、無償だった。ローマ3:23-24。私たちはイエス・キリストによる救いを受ける上で、何も要求されていない。良い行いも、試験も、労働も、お金も要求されていない。罪からの救いのために必要なことはイエス様がすべて十字架の上で成し遂げてくださった。ただ、イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださったことに感謝して、「信じます」と告白してその救いを受け取ればよい。

第三に、神は無限の愛であなたを愛してくださる。神の愛の大きさには限りがない。神はその限りない愛を全く躊躇することも惜しむこともなく、私たちに注いでくださる。神の無限の愛が何に現れているだろうか?イエス・キリストだ。ローマ5:8。イエス様は神が私たちをいかに愛しておられるかを体現されたお方だ。エフェソ3:18-19。人知を超えた愛とある。しかし、それでいて理解できる。

イエス・キリストは神の御子が人間となられたお方だ。神が人間となるとはどれだけ大きな愛だろうか?創造者と被造物には無限の差がある。だから、その愛は無限だ。それは、世界一の億万長者がホームレスを愛するあまりすべての財産を放棄してホームレスになることよりももっと大きな愛だ。イエス様は豊かな天での生活を捨てて、何もかも欠乏している私たちがいるこの地に来られた。私たちを愛しておられるからだ。あるいは、王が一般庶民を愛するあまり、王の身分を捨てて、自分も一般庶民になるよりももっと大きな愛だ。イギリスの王、エドワード8世が離婚歴のある平民のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために歴代最短の在位期間わずか325日で退位したことがある。そのことは「王冠を賭けた恋」だと言われている。イエス様は私たちのために天の栄光を捨てて地上に来てくださった。燃えるような愛であなたを愛しておられるからだ。あるいは、健康な医者が治療法の確立されていない難病から人々を救うために、自分もその病気にかかってまでも研究するようなものだ。野口英世は黄熱病を研究しているうちに亡くなった。野口英世はクリスチャンだ。イエス様は不死で、苦しみを知らないお方だったにもかかわらず、この地で罪によって苦しむ私たちと同じようになってくださった。そして、私たちが死ぬように、イエス様は私たちのために死んでくださった。ヨハネ15:13。死んでくださるだけで最大の愛だ。しかも、十字架という最も残酷で最も呪われた処刑方法でイエス様は死なれた。神の御子の命には無限の価値がある。その命をも私たちのために捨ててくださった愛は無限の愛だ。
あなたはこの愛を感じて生きているだろうか?神はあなたが意識しようがしまいが、感じられようがそうでなかろうが、あなたを愛しておられる。そのことはイエス・キリストを通して示されている。しかし、せっかくこのような愛を受けているのだから、その愛に気づき、その愛を深く意識しよう。神の無限の愛は、イエス様を信じるときに与えられる聖霊様によって私たちの心に注がれ、実感することができる。ローマ5:5。私たちが神の愛に思いをよせて深く意識するとき、聖霊様がその愛の豊かさを教えてくださるのだ。

神の愛は無条件で、無償で、無限の愛だ。この神の愛を知るとき、初めて人目を気にすることから解放される。人からの評価に一喜一憂することから解放される。この愛を知るとき、何かをなさねばならないとか、何かをなすべきだという義務感は消え去る。むしろ、自分がいかに深く愛されているかを知ることにより、自ら、その愛に応えて変わりたい、神様の喜ばせたい!という思いがあふれてくる。それこそがイエス様の恵みにより、信仰によって生きる人の生き方だ。神がいかに自分を愛しているか、その愛を意識して、その愛に満たされて、愛に動かされて生きる者となろう!

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