一部の異端は土曜日が安息日であり、日曜日に礼拝をささげている教会は聖書に則っていないと批判します。
しかし、聖書を読むと、異邦人のクリスチャンが安息日礼拝を厳守するというのは、間違いであるばかりでなく、信仰による救いから律法主義への転落であることがわかります。その点について、深堀していきます。
安息日の由来
安息日の由来は天地創造です。
神は六日間(24時間X6とは限らない)で天地万物を創造され、七日目に創造の仕事を終えて休まれたので、第七の日が安息日とされました。この第七の日とは、現在の曜日でいうところの土曜日です。現在の日本でも、グレゴリオ暦が採用されており、週の始まりの曜日は日曜日、七日目は土曜日です。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2:2-3)
安息日の律法の制定
イスラエルが出エジプトして荒れ野にいたとき、安息日に仕事をせずに休むことは、律法としても与えられました。律法の数は513ありますが、安息日は特に十戒の第4の戒めであり、主要な律法の一つです。イスラエルが荒れ野にいたとき、安息日に仕事をしてはならないため、安息日にはマナが降りませんでした。また、安息日に薪を集めている人は、安息日違犯の罪によって処刑されました。
【十戒の抜粋】
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト20:8-11)
【安息日にマナは降らなかった】
六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。(出エジプト16:22-27)
【安息日に薪を拾った人が処刑される】
イスラエルの人々が荒れ野にいたときのこと、ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられた。見つけた人々は、彼をモーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて来たが、どうすべきか、示しが与えられていなかったので、留置しておいた。主はモーセに言われた。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」(民数記15:32-35)
イスラエルの堕落と悔い改め
しかし、イスラエルはカナンの地に定住した後、もとの住民に影響されて堕落し、安息日を含めて律法を守ろうとしませんでした。イスラエルは南北に分裂していましたが、律法を守らなかった呪いとしてレビ記や申命記に書いてある通り、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされて捕囚とされ、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされて捕囚とされました。
南ユダ王国の元住民たちは、ユダヤ人と呼ばれました。ユダヤ人は捕囚先のバビロン帝国で律法を守らなかった罪を悔い改めました。その結果、捕囚から70年が経ったころ、バビロン帝国を滅ぼしたペルシアの王キュロスが勅令を出し、ユダヤ人の中で望む者はエルサレムに帰って神殿を建築することを許されました。
捕囚から帰還した人々は、エズラとネヘミヤの宗教改革などによって、安息日を含めた律法を厳守することをたたきこまれました。
【ネヘミヤの宗教改革】
またそのころ、ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに負わせて運んでいるのを、わたしは見た。また、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、その他あらゆる種類の荷物も同じようにして、安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、わたしは彼らを戒めた。ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」そこで、安息日の始まる前に、エルサレムの城門の辺りが暗くなってくると、わたしはその扉を閉じるように命じ、安息日が過ぎるまでそれを開けないように言いつけた。そしてわたしの部下をその門の前に立たせ、安息日には荷物が決して運び込まれないようにした。そのため、取り引きする人やあらゆるものを売る人が、エルサレムの外で夜を過ごすことも一度ならずあった。わたしは彼らを戒めて、「なぜ城壁の前で夜を過ごすのか。繰り返すならば、お前たちを処罰する」と言った。そのとき以来、彼らは安息日には来なくなった。またわたしはレビ人に、身を清めて門を守り、安息日を聖とするように命じた。わたしの神よ、このことについてもわたしを心に留め、あなたの大いなる慈しみによって、わたしを憐れんでください。(ネヘミヤ13:15-22)
こうして、ユダヤ人は安息日を含めたすべての律法について、徹底的に守るようになっていきました。アンティオコス・エピファネス4世がイスラエルの地を支配し、住民を弾圧して律法を捨てるように迫ったときも、棄教する人々もいましたが、祭司の家系のマタティアと5人の息子たち(特にユダ・マカバイ)を指導者として、律法を守るために立ちあがり、戦いに勝利してユダヤ人の独立王国を建国します。
その後、ユダヤ人はローマの帝国の支配下に置かれ、福音書のイエス様の時代に至ります。そのころには、エズラ・ネヘミヤ、マカバイの流れを汲んだ律法を遵守する派閥としてファリサイ派の人々が民衆を教えていました。彼らは安息日に会堂に集まって旧約聖書を読むようにし、人々を教育していました。
古い契約ではなく新しい契約を常に優先する
以上の理由から、シナイ山の律法を厳守するという古い契約(旧約)を結んだユダヤ教徒にとって、安息日を守るということは今でも重要だということがわかります。
それでは、クリスチャンも土曜日を安息日として礼拝をささげるべきなのでしょうか。答えは「否」です。
そもそもクリスチャンが結ぶ契約はシナイ山に由来する旧約ではなく、イエス様の新約です。イエス・キリストがパンと杯をもって弟子たちと契約を結ばれました。その聖餐にあずかることを通して、クリスチャンはイエス・キリストにあって新しい契約を結びます。
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(ルカ22:19-20)
アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。(ガラテヤ4:22-31)
上記のガラテヤ書の御言葉から、シナイ山に由来する古い契約は人をがんじがらめにして、奴隷にしてしまいますが、クリスチャンは古い契約とは無関係だとわかります。クリスチャンは、イエス様に由来する新しい契約によって自由を得ている者です。
そして、新しい契約は古い契約の土台があって結ばれますが、新しい契約は古い契約よりも常に優先して効力を持ちます。
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。(ヘブライ8:13)
イエス・キリストの登場によって、律法にも変更が加えられました。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。(ヘブライ7:12)
だから、クリスチャンは旧約聖書ではなく、新約聖書を根拠にして信仰を建て上げる必要があります。安息日については、旧約聖書では厳守するように繰り返し書いてありますが、新約聖書では安息日について声高に叫んでいたのは、イエス様を最も憎んでいたファリサイ派の人々だけです。イエス様や使徒たちが「安息日を守りなさい」と命じる箇所は1箇所もありません。旧約の通りに守るべきではないからです。なぜでしょうか。
イエス・キリストによる律法の完成
イエス・キリストが律法を完成したからです。
【山上の説教でのイエス様の御言葉】
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタイ5:17-19)
【イエス・キリストへの信仰によって律法を確立する】
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(ローマ3:31)
律法を「完成する」とは何を意味するのでしょうか。律法全体について言えることは、イエス・キリストが十字架によって律法の呪いを引き受けることで、神の義を成就したということです。
律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:10-13)
ファリサイ派の人々は律法によって神の御前で正しい者と認められようとしました。しかし、それは不可能でした。誰も律法を絶えず守ることはできません。ファリサイ派の人々も、律法に自分たちに都合の良い解釈を加えて守っていることにしていた偽善者でした。イエス様からその点を鋭く指摘されました。律法を守らない者は呪われます。律法の精神は呪いなのです。
しかし、イエス・キリストがその呪いを十字架ですべて身代わりに受けてくださいました。イエス・キリストを信じる者には、もはや律法の呪いはありません。あるのは祝福だけです。
そして、一部の律法についてはキリストの十字架によって完成しているため、そのまま実践する必要がなくなりました。律法は大きくわけると、祭儀律法、司法律法、道徳律法があります。祭儀律法は臨在の幕屋、祭司制度、聖め、神にささげる生け贄などの儀礼に関する規定で、安息日を守ることもこれに含まれます。神に近づくには、細かい規定をすべて順守する必要があったのです。少しでも汚れた者は神の前に出るにふさわしくありませんでした。この祭儀律法のことを新約に生きる私たちはどう捉えたらよいのでしょうか。
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。(ヘブライ10:1)
旧約の祭儀律法は不完全なもので、やがて来る良いことの影があるばかりなのです。やがてくる良いこととは何のことでしょうか。イエス・キリストです。
なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。(ヘブライ10:14)
祭儀律法はイエス・キリストの十字架を通して完成しました。偉大な大祭司、イエス・キリスト御自身が生け贄となり、神の臨在への道を開いてくださいました。イエス・キリストが私たちを聖なる者としてくださいました。そして、イエス・キリストこそが永遠の安息をもたらします。
次に司法律法についてですが、これは古代のイスラエルに神が法律として与えた民法や刑法にあたるものです。そこには神の正義を見出すことができ、大いに参考にすることができますが、多くは古代のイスラエル特有のものであって、現代の私たちがそのまま適用するべきではありません。旧約聖書を根拠に石打ちの刑を実行してはありません。そこに含まれる霊的、道徳的意味についてはガイドラインとすることができます。
最後の道徳律法は道徳的な内容の律法です。これは今でもほとんど文字通りに実践すべきことです。実際に、新約聖書の中でも、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」などはそのまま書いてあります。それを破ることによる呪いはなくなりました。しかし、道徳律法は善悪の基準とし、何が神の御心か、何が善いことで、神に喜ばれ、完全なものであるかをわきまえるために用いることができます。
旧約聖書の律法は、私たちをキリストのもとに導くための養育係です。
信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。(ガラテヤ3:23-25)
生け贄の規定を見るとき、私たちのために生け贄となられたイエス・キリストを見ることができます。聖めの規定を見るとき、汚れた私たちをイエス・キリストが聖なる者としてくださったことを見ることができます。道徳律法を見るとき、罪人だった私たちのために罪のない完全な生涯を歩まれたイエス・キリストを見ることができます。
異邦人クリスチャンが旧約聖書の通りに律法を守るべきではないということは、初代教会で使徒会議が開かれ、結論が出てきます。
律法主義に陥るな
イエス・キリストを信じた後も、ユダヤ人クリスチャンは律法をほぼそのまま守っていました。
福音が世界に広まっていき、多くの異邦人がイエス・キリストを信じて救われていくにつれて、議論が沸き起こりました。救われた異邦人が割礼を受けて律法を守るべきかどうかという議論です。パウロは、イエス・キリストの福音を信じれば、恵みにより、信仰によって救われると説いていました。しかし、一部の律法主義者は異邦人も律法を守るように主張しました。律法主義者はパウロが開拓したガラテヤ教会に侵入し、信仰によって救われた異邦人クリスチャンに対して「割礼を受けて律法守らなければならない」といって惑わしました。ガラテヤの信徒たちはその言葉にだまされてなびいてしまいました。パウロはガラテヤの信徒への手紙で強く反論しています。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。(ガラテヤ5:3-4)
信仰によって救われたのに、割礼を受けてユダヤ教徒のようになり、律法によって救われるかのように考えると、すべての律法を守る義務を背負うことになります。また、もはやその人はクリスチャンではなく、救いの恵みをも失ってしまうのです。律法主義に陥ることは異端に陥ることです。
そして、律法主義の兆候として、割礼と共に、日、月、時節、年を守ることが書いてあります。
しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。(ガラテヤ4:9-11)
日は安息日、月は新月祭、時節は七つの主の例祭、年は安息年とヨベルの年のことです。
クリスチャンは、これらのものから実体であるイエス・キリストに関する霊的な真理を受け取ることはできます。しかし、少なくとも異邦人クリスチャンは旧約聖書の通りに厳守しようとするなら、律法主義に転落することになります。
あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。(コロサイ2:11-17)
土曜日の安息日の厳守が必要なら、新月祭や七つの主の例祭(エルサレムに定期的に行く必要もある)も守らなければならないでしょう。また、割礼やその他の律法に従わない理由もありません。
異邦人クリスチャンが割礼を受けて律法を守るべきかどうかは、エルサレムの使徒会議にて話し合われました。そのときの結論は下記の通りです。
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」(使徒15:28-29)
この結論の中には、安息日を守るということは含まれていません。
安息日にかわる主日を守る
異邦人クリスチャンの間では、初期のころから、安息日にかわって週の初めの日、つまり日曜日を「主の日」(主日ともいう)として集会を守っていました。なぜなら、日曜日にイエス・キリストが復活されたからです。影に過ぎない安息日ではなく、実体であるイエス・キリストの復活の日に復活を喜び祝って礼拝をささげるのです。
新約聖書を読むなら、集会の日が週の初めの日であり、黙示録のころには主の日として教会で広く知られていたことがわかります。
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。(使徒20:7)
わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。(Ⅰコリント16:2)
ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。(黙示録1:10)
集会を怠ってはならないことは、はっきりと書いてあります。
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ10:25)
一週間に一度集まるとすれば、クリスチャンは普通、イエス様が復活した日曜日に集まるのです。
それで、旧約聖書の安息日の掟の意義を、日曜日にあてはめる人々もいます。それも一つの在り方です。
日曜日をどの程度特別と考えて重んじるかは、各々の教会の在り方によって異なるでしょう。
他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。(ローマ14:4-6)
上記ローマ書の御言葉は、安息日を重んじるユダヤ人クリスチャンや主日を重んじる異邦人クリスチャンにあてはまるでしょう。しかし、少なくとも、ガラテヤ書やコロサイ書と調和をとる形で解釈するなら、土曜日の安息日礼拝を律法として厳守する異邦人クリスチャンというのは予定されていないことがわかります。私たちは律法ではなくイエス・キリストによる恵みの下にいるのです。
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