聖霊様によって救いを確信する

福音&主題メッセージ
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信仰者は自分の救いを何が何でも徹底的に確信するものです。

聖霊様によって救いを確信する

聖霊様によって救いを確信する

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【ノート】
先週はペンテコステ。聖霊様が降ってきて教会が誕生した日だ。聖霊様は私たちに多くの良いものをもたらすが、そのうちの一つは、救いの確信だ。
福音書を読むと弟子たちはイエス様から信仰がうすいことを叱られている。マタイによる福音書を調べてみるとイエス様は5回、弟子たちの信仰がうすいことを指摘された。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエス様は言われる。弟子たちには決していろいろな点で確信はなかった。

しかし、使徒言行録を読むと、ペンテコステ以降、同じ弟子たちが確信に満ちあふれて大胆に救いをもたらす福音を語るのを見ることができる。救いの確信をもっていたのだ。そして、迫害され、尋問されたり、鞭打たれたり、仲間が処刑されたりしても、決してその確信はゆるがずに、続けて福音を力強く宣べ伝えた。死に至るまで忠実にイエス様に仕えた。どうしてこんなに変わったのか?ペンテコステの日に聖霊様を受けたからだ。聖霊様が弟子たちの心にしるしを与えた。それによって弟子たちは自分のすべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を得ていて、死んでも天国に入れるという救いの確信にみちあふれた。

聖霊様は私たちの心にしるしを与えて、自分が確かに救われた者であるという確信を与えてくださる。あなたには救いの確信はあるか?人はイエス・キリストへの信仰によって救われる。それがクリスチャンとして歩みの入口だ。その救いの信仰に基づいて歩むようになる。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある通りだ。神からの良い賜物も信仰によって受け取るし、御言葉にどれだけすばらしい約束の数々も信仰が無いと何ひとつ体験することはできない。だから、クリスチャンであっても救いの信仰があいまいなら、人生全体が中途半端で、不安定で、みじめな生き方となってしまう。信仰がうすいならクリスチャンであっても敗北人生を歩むことになる。救いの確信がないと、救われているかわからないので救いの喜びがない。神様から愛されているかよくわからないので、神を愛することも隣人を愛することもできない。罪の赦しがわからないので罪悪感にさいなまれる。罪が清められないので、罪にとどまってしまう。天国に行けるかわからないので、希望が持てず、献身もできない。救いの確信がないなら、ちょっとした試練があると簡単に倒れてしまい、もう起き上がれない。救いの確信がないなら私たちは、神様が私たちに望んでおられることを何ひとつ全うことができない。そんなことはあってはならない。だから、私たちは皆、聖霊様のしるしによって救いの確信を持つようになろう。そうしてこそやっとクリスチャンライフのスタートラインに立つのだと認識しよう。そして、それは決して難しいことではない。

聖霊様のしるしによって、救いの確信を持つにあたって私たちが持つべき認識を2つとりあげる。
第一に、御言葉を自分のこととして信仰をもって受け取る。聖霊様は御言葉と共に働かれるお方だ。初めに神が天地を創造されたときもそうだ。聖霊様は水の上を動いていた。そのとき、「光あれ」という御言葉が語られた。創造の御業は聖霊様と御言葉のコンビネーションだ。救いについても、聖霊様は御言葉と共に働かれる。まずは、聖書の御言葉を信仰をもって受け取ることが大事だ。御言葉を信仰をもって受け取るとはどういうことか?エフェソ1:4。この御言葉を読むとき、どう理解するか?私たちは永遠の昔から神に愛され、選ばれている人であり、救いは確定しているということがわかる。天地創造の前には私たちは存在していない。それでは、どうやって神は私たちを愛し、選ぶことができたのか?予知能力によってだ。神は永遠の未来に至るまで何でもご存知のお方だ。世界の始まりの前に、神はすでに私たちが生まれてきて、やがてイエス・キリストを信じることになることをご存知だった。その予知に基づいて、愛して、選んでおられた。永遠の未来まですべてを見通す神が私たちを選んでおられるということは、地獄行きの人を選ぶはずがない。私たちの救いはゆるぎないものであり、天国に入れることが確定しているということがわかる。
しかし、人によってはクリスチャンになった後に、信仰を完全に捨ててしまったり、異端に陥ってしまったりすることもある。ヘブライ6:4-6。Ⅱペトロ2:1。その人は救いから脱落してしまった人だ。その人は神に選ばれていなかった人だ。そこでこう考える人がいる。途中で救いから脱落する人がいるからには、私も神に選ばれているとは限らないのではないか?そう考えるのは的外れだ。エフェソ1:4には「わたしたち」と書いてある。わたしたちとは誰のことか?エフェソの信徒たちか?そうではない。聖書は「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益」な書物であり、特定の人々のためだけの本ではない。また、当時の書簡というのは、公の文書としての性格をもっていた。コロサイの信徒への手紙4:16。パウロの手紙は回し読みすることが奨励されていた。手紙は特定の人々だけが対象ではなかった。だから、エフェソ1:4の「わたしたち」とは、その御言葉に触れるすべての人を指す。すべての人がこの御言葉によって神の招きを受けているということだ。神の御心は人々が「自分も救いから脱落するかもしれない。選ばれていないかもしれない」と勘繰らせることではなく、この御言葉によって救いをゆるぎないものとして確信させることだ。御言葉を自分のこととして信仰をもって受け取るというのは、エフェソ1:4を読んだときに、「私は永遠の昔から神に愛され、選ばれていて、ゆるぎない救いを与えられた人だ」と信じることだ。この御言葉をもって選びの信仰を持たせることが神の御心だ。確かに途中で救いから脱落する人はいるので、私も警戒しなければならない。Ⅰコリント10:12「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と書いてある。しかし、私はあくまでも神に選ばれ、救われている者である。御言葉を読むなら、いろいろな人が読むにもかかわらず、ほとんどの場合、読者をクリスチャン、救われている者、選ばれている者として扱っている。それは神の招きなのだ。エフェソ1:4に限らない。聖書を読むとき、そこに「あなた、あなたがた、わたしたち」などと書いてある約束の御言葉を自分に適用しよう。それが神の御心だ。

救いの約束の御言葉があることを知っていても、自分の罪、自分の不甲斐なさ、自分の感情と言ったものが救いをそのまま信じて受け取ることを躊躇してしまう人もいる。しかし、私たちを救ってくださるのは神だ。神が救うのだから、救いに必要な条件をお決めになるのは神だ。神の御言葉である聖書こそがすべてに決着をつけるもの。そして、神が出しておられる条件は、ただ信じることだけだ。旧約聖書には「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。ガラテヤ書とローマ書には「信仰によって義とされる」と書いてある。ヤコブの手紙には行いも必要と書いてあるのではないか?いや、ヤコブは信仰には行いが伴うことを書いているだけだ。しかも、ヤコブがとりあげている「行い」というのはいわゆる善行ではなく信仰的な行いだ。ローマ書にも「信仰による従順」と書いてある。信仰によって救われた人は神様に従うようになるのだ。人は信仰によって救われるとき、新しい誕生を体験する。罪人としての古い自分に死んで、罪から解放され、罪を犯したくない人、神を愛し、隣人を愛する新しい人になる。新しい誕生を体験してこそ、神がお定めになった良い業を行うことができるのだ。
救いに関する事柄について、一つ一つ何が条件になっているか確認しよう。
罪の赦し。使徒26:18。信仰によって義とされる。ガラテヤ2:16。神の子になる。ヨハネ1:12。永遠の命を得る。Ⅰヨハネ5:13。こういった御言葉は必要に応じて暗唱することをおすすめする。
信仰者は御言葉に基づいて、自分は天地創造の前に選ばれている者であり、すべての罪が赦されたのであり、神の子であり、永遠の命を得ており、確実に天国に入る者であると何が何でも信じるのだ。御言葉だけでも救いの確信を得るには十分である。御言葉と共に聖霊様が働いてくださり、人は救われる。しかし、より強固な確信を持つべく、さらなる前進をすることが望ましい。

第二に、聖霊様による交わりを通して聖霊様のしるしを確認する。このことが得られるまでは満足してはならない。エフェソ1:13-14。聖霊様のことを御国を受け継ぐ保証と書いてある。
イエス・キリストを信じて救われた人の内には、聖霊様が住まわれるようになる。聖霊様が共におられることによって、私たちは自分が天国行きだと確信できる。
聖霊様で証印を押されたと書いてある。今の時代、文書に書名や押印が必要ないということはある。しかし、署名や押印が必要な文書があれば、なしで済ませるということはありえない。私はエンジニアの仕事をしている。ある日、作業が終わったことを備品管理の担当者に連絡した。担当者は備品に関する書類2枚のうち、1枚しかもって来なかった。その書類には、書名が必要なものだった。せっかく作業が終わったのにその担当者が書類をとりにオフィスに戻って帰ってくるのを待つのが面倒だったので、「この通り、ここに備品はあるので、これで良いですよね」と言ったらいったんは引き下がった。私は「よし、これで面倒なことにならなくて済んだ」と思った。しかし、後になって電話がかかってきて、どうしても私の署名がもう1枚の書類にも必要だと言われた。どんなに面倒でもなしで済ませるわけにはいかない。なしで済ませようとしても、後になってどこまでも追いかけてくる。それが署名であり押印だ。それで、多くの会社では、文書の作成の期日になると部課長を探して書名や押印をもらうべく奔走するということになる。

このテレワーク時代、書名、押印というのはなかなか面倒なものではある。それでは、なぜそれをあえてするのかといえば、文書の内容を保証するためだ。署名や押印はそれをした人の権威を付与することになる。その権威によってその内容が絶対のものであることが保証される。聖霊様での証印ということは神の権威による保証だ。私たちが福音を聞くとき、私たちの心には救いに関する御言葉が格納される。しかし、御言葉は聖霊様による証印が必要な文書だ。聖霊様によってこそ、御言葉は私たちの心で絶対的なものとなる。神様は聖霊様を通して私たちに対して、「この者は私の愛する子だ」ということを保証してくださっている。それ以外の様々な御言葉の約束についても全部保証してくださっている。私たちが神の国に入るとき、聖霊様が通行許可証となる。天使たちは、私たちに聖霊様による証印が押されているのを見て、「この人はこの国の王子、王女だ」ということで丁重に扱われることになる。

それでは、どうすれば聖霊様が内住しておられるということを知ることができるのか?もちろん、御言葉によって知ることはできる。クリスチャンであればみな、聖霊様が心の内に住んでおられる。それは、エフェソ1:13-14によってもわかる。しかし、それだけでなく聖霊様による交わりによってもわかる。私たちは、両手をあげて聖霊様を祈り求めるなら、聖霊様が私たちの心に神の愛を注ぎ、喜び、平和を与えてくださることを体験することができる。ローマ5:5。ローマ14:17。聖霊様による交わりを体験している人は、自分が救われていることを疑うことができない。聖霊様が共におられるのだから、救われているに決まっている。聖霊体験によって確信する。こういう質問をいただくことがよくある。「私はもしかしたら聖霊を冒涜する赦されない罪を犯したかもしれません。私は背教してしまったかもしれません。はたして私は救われているでしょうか?」主は憐れみ深いお方であって、すべての罪を赦してくださるお方だ。しかし、それでいて、聖書には確かに赦されない罪もあることが書いてある。その人を神がどう判断しておられるか、私には決めつけることができない。そこで、私が勧めるのは、聖霊様を求めることだ。聖霊様による交わりを体験することができるなら、その人は救われている。実際に聖霊様を祈り求めてみて、平和が与えられたという連絡をもらったことがある。このように、御言葉に関する難しい問題を抱えていたとしても、聖霊様による交わりはそれらを吹き飛ばし、確固たる救いの確信を保つことができるようにする。いつも聖霊様が共におられることを意識し、祈りをささげ、聖霊様による主との交わりを深めていこう。聖霊のバプテスマを受けて、異言で祈るようにすることも大きな力がある。

気をつけなければならないのは、聖霊様による交わりは罪によって損なわれ得るということだ。罪を犯すと救いがなくなるわけではない。しかし、聖霊様によって得られていた喜びや平和はなくなってしまう。罪を犯すと平安がなくなるのはそのためだ。エフェソ4:30。もし隠れた罪を犯していたら罪を告白し、悔い改めて血潮の恵みによってただちに罪から離れよう。そうすれば、聖霊様との交わりを回復することができる。Ⅰヨハネ1:9。あなたが御言葉と聖霊様のしるしによって確信に満ちあふれ、力強いクリスチャンライフを送ることができるように。

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