ペンテコステの祝福

福音&主題メッセージ
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クリスチャンライフの最高の体験はペンテコステの祝福にあります。
それは、私たちが今いる場所で真剣に求めるなら、必ず獲得できるはずのものです。

ペンテコステの祝福


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【ノート】
ペンテコステとは、五旬節の別名だ。過越祭から七週間後、つまり50日目なので五旬節。この日に聖霊様が降ってきて、教会が誕生した。聖霊様が教会という新しい霊的な命をこの地に誕生させたのだ。教会は聖霊様を通して、堕落したこの世に神の国を侵入させる集まりだ。だから、教会は誕生のときだけでなく、いつも聖霊様に満たされていなければならない。聖霊様に満たされて、この地にイエス・キリストの御名をとどろかせて神の国を拡張させるのだ。使徒1:8。聖霊様に満たされない教会は、無力な教会、命を失った教会、使命を果たせない教会、存在意義がない教会だ。私たちは聖霊様に満たされた教会、聖霊様に満たされたクリスチャン一人一人となろう。

クリスチャンライフの最高の体験はペンテコステの祝福にこそある。多くのクリスチャンは、神様が私たちに与えたいと願っておられる最高の体験にまでは至っていない。人は、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じたら、救いの感動が与えられる。聖書を学び、祈ることを覚え、人々にイエス様を証しするようになる。しかし、しばらくすると最初のころの感動は薄れてきて、信仰生活がマンネリ化してくる。そこからは、一進一退だ。恵みにおいて成長しようと意思を向ける人は、段階的にキリストに似た者に帰られていく。しかし、不真面目な人は、以前犯していた罪に逆戻りしてしまったり、神様との交わりが遠のいたり、集会に足を運ばなくなったりする。そして、たいていは、どちらか一方に傾くというよりは、成長したり、後退したりを繰り返し、一年経っても二年経ってもあまり変わらない。自分の中で矛盾やフラストレーションや「これでいいのか」という思いを抱えながら、何となく過ごしてしまう。聖書の、特に使徒言行録に書いてあることと、自分の生活にあまりに乖離がある。でも、どうしたらいいのかわからない!
環境を変えれば、うまくいくようになるだろうか?仕事を変え、教会を変えたらうまくいくだろうか?いや、自分が変わらなければ環境を変えても何も変わらない。責任の所在を認識しなければならない。いまの私の状態は私に責任がある。私たちは、いつでもどこでも主にあって180度変わることができる。ローマ12:1-2。誰を変えていただくのか?牧師か?教会か?職場か?配偶者か?いいや、自分だ。自分を変えていただくのだ。そして、それはいつでもどこでも可能である。申命記30:11-14。私は、海外のリバイバル集会に出席すれば、聖霊様の火を豊かに受けられると思っていた。それは一理あるが、借り物の火だけでは燃え上がらない。ほかの人の炎で燃え上がることよりも、むしろ私たち自身が着火剤となることを目指すべきだ。ある人は急に突拍子もなく、「イスラエルに行く方法を教えてほしい。イスラエルに行かなければならない」という。その人は多くの問題を抱えていた。しかし、私は罪を悔い改めて御言葉に今従順するようにと伝えた。するとその人は悔い改めて、その人がいるその場所で変えられた。何よりもまず、自分が変わることに取り組む者となろう。

ペンテコステの祝福を得る上で、私たちはまず自分を変える決意が必要だ。いまから、この場所で、私は変わる!そうすれば、私たちはペンテコステの祝福にあずかることができる。ペンテコステの祝福こそが、最高のクリスチャンライフへの道だ。これは、初代教会の特権ではない。使徒2:17-18。終わりの時とは、ペンテコステの日からキリストの再臨までの時だ。これは、今に至るまでのすべての教会に与えられている特権であって、私たちが真剣に求めるなら、この祝福を体験することができる。その祝福の内容とはどのようなものか?
第一に、しるしが伴う。使徒2:1-4。異言だ。異言を語ることを恥ずかしがってはならない。異言を語ることを恐れてはならない。また、異言について誰かが否定的なことを言うのに一切耳を傾けてはならない。異言は神様からの賜物だ。異言は教会に与えられた最初のしるしだ。異言は熱心に求めるべきものだ。異言は自分自身を建て上げる。異言は神様との言語を超越した親密な交わりを持つことを可能にする。異言は時にしるしにもなり、聖霊様の世界の扉を開くカギともなる。そして、その他の多くのしるしも教会には与えられた。使徒2:43。癒し。死人に生き返り。牢の扉が開くしるし。霊的戦いでは、悪霊の追い出し。魔術師の目が見えなくなる。アナニアとサフィラの死などだ。ペンテコステの祝福にあずかるならば、私たちは奇跡の日々を送るようになる。

第二に、大胆さが与えられる。それまでペトロたちはユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもっていた。イエス様を十字架にかけたように、自分たちもひどいめにあうと思ったからだ。しかし、聖霊のバプテスマを受けた後は、恐れがない。五旬節で大勢のユダヤ人たちがいる前で、大胆に聖書を引用し、自分たちがしていることについて弁明し、さらにはイエス様の十字架の死と復活を力強く、理路整然と宣べ伝えた。そして、結論部分は暴動になってもおかしくないほど過激な内容だ。使徒2:36。ペトロは大胆に人々の罪の指摘をした。恐れによって、正しい行動をとることを躊躇したことはないだろうか?ペンテコステの祝福にあずかるならば、もうそんな後悔はしなくてよくなる。私たちは大胆に確信をもって、御心を行えるようになる。

第三に、救いの実が結ばれる。私の経験から言えば、日本のクリスチャンは一年間真剣に伝道に取り組むなら、1人あたり1人から3人くらいの人を伝道し、水のバプテスマまで導くことができる。もしかしたら5人も可能かもしれない。だから、伝道を一生懸命しよう。それでは、1人で10人とか20人一気に導けるかというと、よほどの賜物がある人以外は厳しい。しかし、ペンテコステの祝福にあずかるならば、10人や20人どころか、爆発的な救いの実を結ぶのに用いられることになる。使徒2:41。1回の伝道メッセージで成人男性だけで3千人だ。一人が一生かけても難しいことをペンテコステの祝福にあずかるならば、一日で達成できる。

第四に、信仰熱が熱くなる。使徒2:42。これらは教会の主要な活動だ。使徒の教えは聖書を学ぶこと、交わりはクリスチャンが同じ時間を共有し愛し合うこと、パンを裂くことは聖餐、そして、祈ることは祈りだ。人々はこれらを熱心に行った。惰性とか、習慣ということは一切なく、神様と人に対する愛に燃えて、喜びをもって行った。救われたばかりのころの感動以上の感動をもって、初めのころの愛以上の愛をもって行った。教会に行きたくて仕方がない!聖書を読むのがやめられない、とまらない!ことあるごとに祈りに熱中する!これがペンテコステの祝福にあずかるクリスチャンの信仰生活であって、すべての人がこのような信仰生活であるべきだ。

私たちはこの祝福にあずかっているだろうか?十分にあずかっているだろうか?きっと、そうではないだろう。それでは、私たちはどうすれば、この祝福にあずかることができるのか?すべての答えは聖書に書いてある。聖書を通して、ペンテコステの祝福にあずかる秘訣を大きく3つお伝えする。

第一に、自己中心の罪の悔い改めだ。聖霊様を受ける条件の一つとして、聖書には悔い改めが書いてある。使徒2:38。「悔い改めなさい」と書いてある。この悔い改めが不十分だと、聖霊様を受け取るのも中途半端なものとなる。悔い改めない分だけ、聖霊様に満たされ切らないことになる。私たちは思い違いをしてはいけない。もし、聖霊様を体験してみたことがあるけど、大したことがない、変化がないと思っている人がいれば、それはその人が罪をしっかりと悔い改めていないだけだ。聖霊様のせいではなく、自分のせいだ。私たちは自己中心の罪を悔い改めているだろうか?私たちの人生、私たちの生活、私たちの心、私たちの時間、私たちの経済生活の中心は、神様でなければならない。使徒たちはそうしていた。使徒たちはお金や仕事よりもイエス様を優先して従い、伝道と奉仕を熱心に行った。十字架を前にしてイエス様を見捨てて逃げてしまったことを悔い改め、それ以後は全然逃げることなく、最期までイエス様を命をかけて宣べ伝えた。私たちはそういう召しがない限りは仕事をやめる必要はないが、同じように神様を第一とするということをあらゆる領域で実践することが求められている。マタイ6:33。ルカ9:23。私たちは御言葉通りにそうしているだろうか?御言葉に背いていることについて、一つ一つ認めて、神様の御前に告白して、清めていただき、方向転換しているだろうか?それとも、自分なりの勝手な言い訳を並べて御言葉に背くことを正当化しているだろうか?礼拝を守ることは仕事よりも大事であり、十分の一をささげることは趣味活動よりも大事だ。御言葉を食べることは食事と同じように欠かせないし、祈ることは呼吸のように必須だ。身近な家族や兄弟姉妹のために喜んで仕える。税金を納め、約束を守り、人の罪を赦し、同情の心を持つ。お金も異性も私の心の中心にはなく、ただ私たちの主なる神様が心の中心を占める。その方を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛し、隣人を自分の体のように愛する。

第二に、聖霊様を信仰によって求めることだ。使徒たちは何の目的もなく集まっていたわけではないし、闇雲に祈っていたわけではない。イエス様があらかじめ御言葉を与えておられ、その御言葉に基づいて信仰を持って祈った。使徒1:4-5。私たちに対しても、聖霊様に満たされることについて約束が与えられている。ヨハネ7:37-38。ルカ11:13。エフェソ5:18。使徒2:38。これらの御言葉に対する信仰に基づいて、熱心に祈る。神様が約束を破ることがありえるだろうか?ありえない!だから、悔い改めて祈るならば、必ず約束通りに聖霊様に満たされ、ペンテコステの祝福を体験できると信じよう。与えられるその瞬間まで、何の兆候もないかもしれない。何の変化も見られないかもしれない。しかし、飢え渇き、約束を信じるなら、祈り求め続けることができる。そうすれば、ペンテコステの日のときのように、突然、上よりの力で覆われることになる。

第三に、頻繁に集まって祈ることだ。ペンテコステのときは、使徒たちが家で個別に祈っていたのではなく、10日間もの間、一同が一つになって集まって、祈っていた。使徒1:13-14,2:1。聖霊様の力は、1人で受けられないこともないが、クリスチャンは集まった方が燃え上がる。そして、ただ集まるだけでなく、集まって祈ることだ。マタイ18:18-20。アズサストリートリバイバルは集まって祈ることによって起こった。日本のホーリネスのリバイバルも、集まって祈ることを通して起こった。集まろう。主の御名によって集まって祈ろう。
私はこの祝福を私たちが受けることを先延ばしにしたいとは思っていない。いま、聖霊様を求めて祈ろう。この祝福にあずかることができるように祈ろう。

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