ただただ、王なる主イエス様の権威に服従しましょう!
宮清めと権威についての問答[ルカ19:45-20:8]
【ノート】
イエス様が王としてエルサレムに入城された。イエス様が王として、エルサレムで最初にどこに行き、何をしたか?これを知ることによって、イエス様が最も強い関心を抱いていることが何かがわかる。45-48節。イエス様が最初に行ったのは、神殿であり、最初にしたのは神殿を清めることだ。イエス様は礼拝に最も強い関心を持っておられた。私たちが最も関心を持っていることは何だろうか?教会のことだろうか?教会の特に日曜日の礼拝だろうか?そうであればすばらしい。そうであればすばらしい。天国では永遠の礼拝をすることになる。天国にいるとき、私たちは礼拝こそが幸せであり、礼拝こそが最も重要なことだとよくわかっている。今からそれをわかっていれば、私たちは天国に行ってから、なんで世のことをもっと優先してしまったのだろうと悔やむ必要がなくなる。教会の礼拝に、最も強い関心を抱く者となろう。
ところで、このイエス様を見てみよう。いつも柔和で謙遜なイエス様だが、それでいて神の義に燃える性質を内に秘めておられることがよくわかる。礼拝が汚れているのを黙ってみてはいられない。実力で神殿の境内にいる商人たちを追い出している。しかもイエス様は単独でこのことを行っている。たったお一人で商人たちを追い出せたということはイエス様は大工で鍛え上げられた腕を使って力づくで追い出したことだろう。また、誰も委縮して抵抗できなくなるくらいすごい剣幕で、このことを行っただろう。しかし、単なる人間的な力でこれをしたのなら、何人か歯向かう人もいたはずだ。誰一人そうすることができなかったのは、神としての権威、王としての圧倒的な権威でイエス様は商人たちを追い出したに違いない。神の権威には誰も逆らうことができない。最後の審判のとき、人々は主なる神様に裁かれることになるが、人々は誰一人としてその裁きを不当だと声を上げることのできる人はいないだろう。誰もが口を閉ざし何の言い逃れはできないだろう。みんな御前に立っただけで恐れおののき、自分が有罪であり、行先は永遠の地獄しかありえないということを直感することになるだろう。私たちは御前に立つ前に、神の権威を認めて、服従する者となろう。
しかし、どうして神殿の境内で商売をしている人々を強盗呼ばわりしたのだろうか?それは、彼らが実際強盗に等しいことをしていたからだ。神殿の商売人には両替人と生け贄の動物を売る者がいた。彼らは神殿への献げ物を扱っていた。だから、ある意味必要なことだった。問題はその値段だ。まず両替人について。ユダヤ人の男性は、毎年半シェケルを神殿税として納めなければならなかった。これは出エジプト30:13-15に根拠がある。半シェケルは、2日分の労働賃金にあたる。イスラエルでは世界中の様々な通貨が使用できたが、神殿税として使えるのは、神殿のシェケルかガリラヤのシェケルだけだった。世界に離散したユダヤ人たちは普段シェケルを持っていない。そこで両替が必要になるが、両替人の手数料として半シェケルごとに1日の労働賃金の2/7程度に上った。つまり、3~4回両替したらもう1日分の儲けが出るのだ。
生け贄の動物については、牛や羊のうち律法で傷も汚れもない完全なものでなければならないことが定められていた。レビ22:20-25。自分で傷のない動物を生け贄としてどこかで買って神殿まで引いていってもよい。しかし、神殿には検査官がいて、動物が傷もしみもない動物なのか厳しくチェックする。だから、当局が神殿内で認めた屋台から動物を買った方が確実だ。ところが、神殿内の屋台はある時には外で買うよりも15倍も高い。しかもこれらの屋台は前大祭司のアンナスの名がつく「アンナスの店」と呼ばれ、大祭司の一族の財源だった。
つまり、神殿の境内の屋台はすべて、主を礼拝しようとして来る敬虔な巡礼者たちに対する詐欺だ。主の御名を使い、神殿を使った組織的な詐欺だ。祭司長たちがなぜイエス様を殺害しようとしたのか?宗教的な理由からか?そうすることが、主なる神様の御心に適うと思ったからか?とんでもない!ただ自分たちの詐欺が邪魔されたからに過ぎない。全部お金のためだ。しかも、この詐欺は、異邦人の庭とも呼ばれる神殿の境内で行われていた。神殿は、その人が何者かによって、入れる区画が3つに分かれていた。一番の外の境内は異邦人の庭で、異邦人でも、つまり誰でも入ることができ、その内側は婦人の庭でユダヤ人しか入れず、その内側はイスラエルの庭でユダヤ人男性しか入れなかった。だから、神殿では異邦人の庭だけがあらゆる民族の人々が主なる神様に祈りをささげることが許された場所だった。そこで公然と詐欺行為が行われているのを異邦人が見た。異邦人たちはどう思っただろうか?大きなつまずきになったに違いない。主の御名が全世界の人々に対して汚されてしまった。
イエス様が怒るのも当然だ。イエス様は巨悪に対して一人で立ちあがった。私たちも、もし目の前で公然と悪が行われているなら、その状況を放置していてはならない。御名を汚す者、不正を働く者、いじめる者、詐欺を働く者がいれば、神の義を心に抱いて立ちあがり必要な措置をとるようにしよう。自分の教会の会計に関心を持つのは良いこと。
さらには、今は私たち一人一人が神の神殿だ。私たちの聖霊の宮として心と体の清さは保たれているだろうか?イエス様が神の義に燃えて追い出さなければならないものがないか?あれば、それ告白し、イエス様に明け渡し、清めていただこう。
ところで、果たしてイエス様のこの行動は果たして実を結んだのか?イエス様がいるときには、もしかしたら神殿の境内は静かだったかもしれない。しかし、イエス様はこの週の金曜日に十字架につけられて死なれる。その後復活するが、祭司長たちが神殿で詐欺を働くのを止める人はもういなくなってしまったのではないか?イエス様がなさったことには意味があったのか?もちろん意味があった。主のなさることで無意味なことは何もないし、私たちも主にあって無駄なことは何もない。イエス様は預言者だ。預言者の行為には預言的な意味がある。紀元70年のティトゥス将軍がエルサレムを陥落させたとき、神殿が崩壊した。もはや神殿のために神殿税をささげることも生け贄をささげることもなくなった。これはイエス様の御心であり、イエス様が廃止されたのだ。
マタイによる福音書では神殿税を徴収する人々がイエス様のもとにも来たエピソードが書いてある。イエス様は最終的に人々をつまずかせないために神殿税を納めたが、本来神の子は納めなくて良いと教えられた。だから、私たちは神殿税を払わなくて良い。命の贖いはイエス様が十字架の死ですべて成し遂げてくださった。ハレルヤ!
また、生け贄については、傷やしみのない完全な生け贄が必要だったが、動物の生け贄が完全な生け贄だろうか?そうではない。もし完全な生け贄なら、一度にすべての罪を取り除くことができるはずだ。それはどんな生け贄なのか?Ⅰペトロ1:18-19。キリストだ!イエス・キリストこそが完全な生け贄だ。この方がすべての罪を取り除いたので、ユダヤ人の先祖伝来のむなしい生活、つまり、律法の規定に従って神殿税や生け贄といった不完全な献げ物を毎年ささげる生活から解放されたのだ。私たちは、ただイエス・キリストの十字架で流された貴い血潮によってすべての罪から救われている。
だから、イエス様を信じたはずなのに、自分の罪は赦されないとか天国に行けないというのは謙遜ではなく、不信仰で高慢なことだ。イエス様の血潮と私の罪とどちらが偉大か?血潮の力を軽んじてはならない。
20:1-44では問答が続く。イエス様を敵視するあらゆる勢力の人々がイエス様の言葉尻をとらえて罠にかけようと議論を吹きかけてくる。イエス様は神からの知恵によって、完全に論破しつつ見事な教えを説く機会としても用いられた。今でも神を信じたくなく、イエス様を敵とする人々は様々な方法で無理矢理真理を否定しようとするが、私たちは動じてはならない。イエス様は常に完全な答えを持っておられる。人間がどうあがこうと真理は決して否定できるものではない。
20:1-2。イエス様は異邦人の庭で、商売人たちが追い出されたあの庭で人々に教え、福音を告げ知らせておられた。礼拝が清められると、霊的な雰囲気が変わり、教えと福音が人々に入りやすくなる。人々はイエス様の御言葉をスポンジのように吸収したことだろう。
そこへ三種類の人々が邪魔しにきた。祭司長、律法学者、長老だ。この人たちは神殿に関する特権を持つ人々で、ユダヤ人の最高議会であるサンヘドリンの主要な構成メンバーだった。彼らがイエス様に「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と尋ねた。このようなことというのは、イエス様が子ろばに乗って大勢の人々に囲まれてエルサレムに入城したこと、神殿の境内にいた商人たちを追い出したこと、そして今も人々に対して神殿の境内で公然と教えを説いていることなどについてだ。最高権力機関であり、神殿の管理をになうこの人々にとって、イエス様のなさることはどれもこれも我慢ならなかった。特に、祭司長たちにとって、神殿での詐欺を阻止されたことが悔しかったに違いない。彼らはイエス様が「私は神の子として権威でこのようなことをしている」とあからさまにいうことを期待した。そうなれば、あらかじめ用意していた冒瀆罪を適用してイエス様を現行犯逮捕することができる。ところが、イエス様はそういう答え方をしなかった。イエス様の時はまだ来ていなかった。
3-6節。イエス様は質問を質問で返している。これはマナー違反だと考える人もいる。しかし、イエス様はごまかしや正直に答えたくないといった不誠実な心で質問しているのではない。イエス様はいつも真実な方だ。むしろ、祭司長、律法学者、長老たちを真理に導くために質問している。人は与えられた回答を好まない。実際、イエス様がただ事実をありのままに口にして、「私は神の子だ」と言ったところでこの人たちは受け入れるつもりが全くなかった。しかし、ヒントとなる質問だけを与えられて、それをもとに自分で考えた答えであれば受け入れるし、消化していつまでもその人の内に残る。ディボーションをするとき、聖書箇所について自分自身にいろいろな質問を投げかけてみよう。それまで見えなかった御言葉の深みを悟ることができるようになる。イエス様が与えたヒントとなる質問は、「ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」だ。もし、ヨハネのバプテスマを天からのものだったと認めるなら、イエス様の権威の由来については自動的に天からのものだと認めなければならない。なぜなら、ヨハネはイエス様のことを証ししたからだ。自動的にだ。このことから、イエス様の権威は、無数の権威によって裏付けられていることがわかる。誰か神から権威によって働いて証しを立てたクリスチャンがいれば、その人を認めることが自動的にイエス様の権威をも認めることにつながる。ジョン・ウェスレーに神からの権威を認める人は自動的にイエス様の権威を認めなければならない。
ビリー・グラハムに神からの権威を認める人は自動的にイエス様の権威を認めなければならない。彼らには実際に神からの権威があったので、彼らの権威を認めた多くの人々がイエス様の権威を自動的に認めてイエス様を信じて救われた。私たちもそういう人の一人となろう。人々が、私たちに神からの権威があることを認めさせる者となろう。この人には不思議な霊が宿っている。この人には特別な力が感じられる。この人には惹きつけられてやまない。この人は優れた人格者だ。そのように人々があなたについて思い、あなたに神からの権威を認め、イエス様の権威を認めるように導く者となろう。
祭司長たちとしては、イエス様の権威を認めたくないので、「人からのものだ」と言いたい。ところだが、そう言えば民衆を敵に回すことになる。それでは彼らは何と答えたか?
7-8節。「わからない」と答えた。本当にわからなかったのか?いや、わかろうとしなかっただけだ。彼らはただ自分たちの権威が傷つけられたことに憤慨してイエス様を陥れようとしただけで、イエス様の権威が実際どこから来ているのかということを真剣に知ろうとしていない。「わからない」と答えたのも、イエス様を認めたくないし、民衆に石で打ち殺されたくないという、あくまでも自己中心的な考えをもとにした回答だ。彼らにとって、イエス様が何者かという真理はどうでもよく、とにかく自分たちがかわいいだけなのだ。そういう人々にイエス様が何か重要なことを話したところで何の意味もない。「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」イエス様は口を閉ざした。神の真理は、本気で知ろうとする人だけに与えられる。自分にとってどちらが都合が良いかという自己中心的な観点で真理と向き合うなら、真理は絶対にわからない。私たちには、聖書に触れるとき、本当に真理を知ろうとする心があるか?それとも自分の都合の良いように解釈しようとしたり、都合の悪い部分は聞き流したりする傾向があるだろうか?それではいけない。それでは、イエス様が口を閉ざしてしまう。私たちは、たとえ真理が自分にとって都合が悪いことであったとしても、それが真理であるがゆえに受け入れる者となろう。
イエス様には権威がある。イエス様はどんなことでもする権威がある。王としてふるまう権威がある。私たちに悔い改めなさいと命令する権威がある。私たちの礼拝を改めさせ、私たちの不正を正し、私たちの人生の方向性を改めさせ、私たちの自分なりの計画をキャンセルさせる権威がある。イエス様にはその権威がある。私たちはそのことを認めて、たとえそれが何であったとしても、主と主の御言葉全部の権威を認めて服従する者となろう。
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