ぶどう園と農夫のたとえ(ルカ20:9-19)

ルカによる福音書
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良いものを豊かに与えてくださる主、忍耐強い主に感謝しましょう。
この方に当然納めるべきものを納めましょう。

ぶどう園と農夫のたとえ(ルカ20:9-19)

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【ノート】
イエス様はイスラエルの指導者たちから、何の権威でこのようなことをするのか、と質問された。イエス様の権威について、問い質したのだ。イエス様はもちろん絶対の権威をお持ちの方だ。私たちはこの方の権威に全面的に服従しなければならない。今度はイエス様がイスラエルの指導者たちの権威について問いただす番だ。イスラエルの指導者たちには確かに神様からの権威があった。彼らが神殿を管理することは当然のことだった。しかし、イスラエルの指導者たちは権威を乱用してしまった。それをお金儲けのために使ってしまった。そして、最も御心を敏感に察知しなければならない立場なのに、霊的に鈍感なので、メシアが来られたのに積極的に受け入れるどころか、殺害してしまおうと陰謀を企んだ。彼らこそが権威の乱用について責められなければならない立場だった。ブーメラン。おまいうだ。そこで、イエス様は神の国のたとえを話された。私たちも、神の子として、神様からいただいて権威を適切に用いているかどうか自分自身について吟味しなければならない。悔い改めなければならない。このたとえを通して、私たちが適切にふるまっているかどうか、自己点検しよう。

9-16節。このたとえを聞いている人々は「そんなことがあってはなりません」と言った。彼らはイエス様が何を言わんとしているか、すぐにわかったのだ。私たちもわからなければならない。
ぶどう園の主のある人とは、父なる神様のことだ。ぶどう園は神の国のこと。農夫たちはイスラエルの指導者たちだ。収穫をおさめさせるために遣わされた僕は、預言者たちのことだ。愛する息子はイエス様御自身だ。愛する息子を殺害してしまうのは十字架を指している。ぶどう園の主が農夫たちを殺すのは、紀元70年のエルサレム陥落だ。ぶどう園をほかの人たちに与えるのは、異邦人が神の国を受け継ぐことができるようになることを指している。これはユダヤ人にとっては悲鳴をあげたくなるとんでもないことなので、「そんなことがあってはなりません」と言ったのだ。でも私たちはユダヤ人ではない。異邦人だ。私たちにとっては「やったー!代わりに私たち異邦人に神の国が与えられた!教会の勝利!イエス様万歳!」と拍手喝采したくなる内容だ。それは本当に恵みであって、喜ばしいことだ。しかし、それとだけ受け取ってしまうならば、間違いだ。今後は私たちに神の国に関する責任が生じる。与えられている神の国に対して誠実でなければならない。そうでなければどうなるのか?ローマ11:17-22。切り取られると書いてある。そうならないように、このたとえから得られる教訓を自分のこととして受け取ろう。

第一に、父なる神様は人間に特権と信頼を与えてくださっている。9節。この農夫たちは、自分のお金で購入したのではないぶどう園を借りることができた。農夫たちはただ収穫の時に一定量を納めればよかった。しかも、主人はぶどう園を農夫たちに全面的に信頼してまかせて長い旅に出た。農夫たちがちゃんと仕事をしているか監視したり、奴隷のようにこき使ったりすることはない。なんというホワイトな環境だろう。これが神様の私たちに対する取り扱いだ。神様は私たちに霊肉の命を与え、健康を与え、賜物を与え、家族や教会を与え、仕事を与え、あらゆる良いもので満たしてくださった。それらをもって神様に喜ばれる生き方をすることが期待されている。しかも、神様は私たちを無理矢理奴隷のようにこき使うことなく、私たちがどう生きるか、信頼して全面的にまかせてくださっている。これはすごいことだ。
学校に行けば出欠をとる。会社ではタイムカードや勤怠管理システムに入力する。リモートワークでも、仕事をちゃんとしているか、仕事と関係ないウェブサイトを開いていないか、ソフトウェアによって常に管理されている。それは、人間の不正を防ぐためだ。その根底には、人間に対する不信がある。嘘をつくんじゃないか、さぼるんじゃないか、ごまかすんじゃないか、そういう疑いの精神がある。しかし、神様は全面的に私たちを信頼してまかせてくださっている。それは管理責任の放棄ではない。私たちには聖霊様と聖書が与えられている。私たちは自分がどう生きればよいかわかっている。少なくとも知ることができる。後は、私たちが神様からの信頼にこたえるだけだ。神様からの信頼にこたえよう。神様からの良いものをもって神様に喜ばれる生活をする者となろう。アーメン。

第二に、神様に納めるべきものを自分のものにする罪がある。10-14節。ぶどう園の 農夫たちは、何度機会が与えられても当然果たすべき収穫一部を納める義務を全部拒否した。それのみならず、彼らは結託してぶどう園の支配権までも暴力で自分たちのものにしようとした。これはぶどう園の主からの恩をあだで返すことだ。明確な反逆だ。
神を無視し、神に反逆して、何を言われようがどこまでも自分のためだけに生きようとする人間の姿を見ることができる。私たちはどうだろうか?私たちは神様に納めるべきものを納めているだろうか?時間を納めない罪がある。イスラエルは安息日や祭りを守ることを怠った。私たちは集会の時間、祈りの時間を守ろう。毎日、そして毎週ごとに神様に納めるべき時間がある。その時間には、喜びをもって、神様に集中しよう。それは私たちの力の源になり、結局私たち自身の益になる。賜物の実を納めない罪がある。仕事や趣味活動で生かされている私たちの特別な能力や人間性がある。クリスチャンがその一部だけでも主のために用いるならば、神の国はどれだけ前進できるだろうか?私たちは礼拝で席にただ座っているように召されているのではない。礼拝はポップコーンとコーラをもってただ傍観者として楽しむものではない。礼拝はいわば続けてなされる決起集会でもある。イエス様からの号令を聞いて席から飛び上がって神と人とに仕えるように召されている。主のために賜物の実を納める者となろう。収入の十分の一を納めない罪がある。神様は私たちに与えた十分の十のうち、収入の十分の一を納めるように私たちに命じておられる。これを納めないことは、まさに神様に納めるべきものを自分で着服していることになる。神様に納めるべき収入の十分の一をしっかり納める者となろう。

第三に、父なる神様は忍耐強く罪人を取り扱われる。ぶどう園の主は、農夫たちに何度も僕を送った。一人の僕が拒まれても、もう一人の僕を送り、2人目が拒まれてもさらに3人目を送った。これは神の忍耐を表している。神様が忍耐強いお方であることを感謝しよう。神様は誰よりも忍耐強い。もし、神様の忍耐が人間と同じ程度だったら、人間はとっくの昔に滅ぼされていただろう。そのことをよくわからなければならない。多くの人は洪水、ソドムとゴモラの滅亡、バビロン捕囚、エルサレム陥落という結果だけを見て、神様が短気を起こすと勘違いする。そうではない。そういう人は神様のことを何も知らない。その背後に気の遠くなるほどの神様の忍耐があり、滅亡以外の方法をとることができない場合に神様がことを行っておられる。誰もこの忍耐を真似することができない。あなただったら毎日毎日人々から背かれ続け、馬鹿にされ続け、裏切られ続けている状態で何日耐えられるだろうか?一日も耐えられないのではないか?むしろ考えなければならないのは、人間の罪の方だ。何度も機会を与えられながら悔い改めない。神様の愛の忍耐に感謝しよう。

第四に、神様は最後の切り札として愛する御子を遣わされる。ぶどう園の主は最後に愛する子を送った。もしこの愛する子を受け入れるなら、それまで反抗してきたすべての罪を赦す準備ができていた。愛する子は、僕たちと同列で書かれていない。イエス様は過去に遣わされた預言者たちとは別次元の存在だ。イエス様は御自分の神性についてにごすことが多かった。神だといったらあまりにもユダヤ人たちに刺激が大きすぎるからだ。しかし、ここではイエス様ははっきりと御自分が父なる神様から愛されている神の子であるということを示している。そして、愛する子は最後に遣わされ、その後に遣わされるものは何もない。このことから、イエス様が神様から最後に遣わされた使者であって、この方を拒むなら神の裁きを受けなければならないということだ。しかし、もしイエス様を信じて受け入れるなら、それまで反抗ばかりしてきたすべての罪が赦され、永遠の命が与えられて、神の子とされる。イエス様が何度も何度も反抗し続ける私たちの罪のために十字架で死んでくださったからだ。神様はイエス様にあって、いつもすべての罪の赦しを与える準備ができている。13節。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。父なる神様は私たちが御子イエス・キリストを敬うことを期待しておられる。イエス様を敬おう。その語られた御言葉一つ一つを敬い、従おう。

第五に、神様は最後まで悔い改めない人間を簡単に滅ぼすことができる。14-16節。農夫たちは陰謀を巡らし、愛する子を殺害してぶどう園の支配権を自分たちのものにできると思った。彼らはぶどう園の主を畏れていなかったのだ。ぶどう園の主の忍耐を弱腰と勘違いした。実力がないものと勘違いした。自分たちの方が強い。ワンチャン勝てるかもしれないと思った。しかし、実際には、ぶどう園の主は簡単に農夫たちを一掃することができた。神様は強い。神様は私たちを簡単に滅ぼすことができるお方だ。神様はその気になれば、一瞬で私たちを滅ぼせる。私たちがその方に何度も背いておきながら、今日まで無事でいられているのは、ただただその方の愛の忍耐のゆえだということを忘れてはならない。神様を畏れる心を持つ者となろう。神様はずっと忍耐しておられるが、正義が必要な時には行動を起こされる。最後まで罪を悔い改めない罪人に対しては、厳しい裁きを降す。その時、罪人はただ一方的に滅ぼされることになる。

人々は最初のたとえに対して「そんなことがあってはなりません」と言ったので、イエス様は御言葉を引用してたとえの内容がまぎれもない事実であることを語った。17-19節。これは詩編118:22の御言葉だ。これはちょうどイエス様がエルサレムに入城するときに人々がイエス様のこととして引用した御言葉、詩編118:25と同じ編にある。人々は意図せずイエス様が詩編118:22の石でもあることを告白していたのだ。これはどういう意味か?家を建てる者はイスラエルの指導者たちだ。その家を建てる者が石を捨てるとは、イエス様の十字架の死のことだ。隅の親石あるいは要石と訳されることもあるが、どちらにせよ建物を建てる上でなくてはならない重要な石のことだ。捨てられたはずなのに隅の親石になるというのはイエス様の復活を表している。神の国と教会はいつもイエス様こそが隅の親石、鍵なのだ。イエス様に敵対して最後まで悔い改めない人々は、砕かれ、つぶれてしまうことになる。
人々は「そんなことがあってはなりません」と言ったが、悔い改めないならば、悲鳴をあげたくなる出来事は起こる。御言葉はすべて実現する。いくら神の裁きや地獄について「そんなことがあってはなりません」と言ったところで、私たちが悔い改めないなら、確実にそれは実現する。私たちは御父の愛する子であるイエス様を敬い、悔い改め、へりくだり、従う者となろう。

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