祈りは顔と服を変えてしまいます。
神の栄光を仰ぐ一つの体験が、私たちの人生で大きな財産となります。
イエス様の顔と服が栄光に輝く[ルカ9:28-45]
【ノート】
28節。「この話をしてから」と書いてある。イエス様は弟子たちから御自分が「神からのメシア」であるという信仰告白を得た。その後、イエス様は御自分がどんなメシアであり、メシアに従う弟子には何が必要かという話をした。弟子たちはその意味がよくわからなかったが、つまずきをもたらしそうな内容には違いなかった。それでも、イエス様について行きたいという覚悟に変わりはなかった。八日間の間、弟子たちはイエス様に従い続けた。イエス様について行く弟子たちの一部は、時にイエス様の栄光を目撃する特権にあずかることがある。それは私たちがイエス様の王国に入ったときに見ることができるが、イエス様に生涯をささげて献身する人々の一部に対しては、イエス様はあらかじめその栄光を見せることを通して、イエス様に従っていく覚悟を強めてくださるのだ。イエス様の変貌を目撃する栄誉にあずかったのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だった。イエス様は三人を連れて祈るために、山に登られた。イスラエルの北東に位置するヘルモン山(ざん)だと考えられている。イエス様が山に登って祈るというのは、初めてではない。言ってみればいつものことだった。しかし、このときには、弟子たちの目に見える形でイエス様に変化が起こった。
29節。私が信じるのは、イエス様が祈るときには弟子たちの目に見えないだけで、いつも不思議なことが起こっていたということだ。また、クリスチャンが集中して祈るときもいつも、目には見えなくても霊の世界では驚くべき変化がなされているということだ。私たちが祈るとき、私たちは神の臨在と栄光に包まれ、その祈りは第三の天まで光線のように上っていき、父なる神の玉座の御前にまで一瞬で届けられる。その祈りに答えて父なる神は働いてくださり、聖霊様や天使を通して人や環境や状況に干渉してくださる。もし祈りを視覚化すれば、そういうすごいことが起こっていることがわかるだろう。そのことがわかれば、祈らないことがなんともったいないことだとわかる。
ここでは、イエス様の御顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた。主の御顔は私たちを照らし、私たちに恵みと平安を与えるものだ。それは祭司の祝福の祈りに書いてある。民数記6:24-26。イエス様の御顔が輝くことで、イエス様こそが御顔の光によって私たちに恵みと平安を与えてくださる方だということを明らかにしている。また、真っ白な服はイエス様の栄光を現している。
祈りは私たちの顔と服も変えるだろう。祈る前は暗い顔、疲れた顔、苦しそうな顔かもしれない。祈った後はすべての悪いものから解放されたようにきれいさっぱりとした顔になる。祈る前は汚れたアイデンティティを持ってしまっているかもしれない。自分は敗北者だ、罪人だ、汚れたものだと。しかし、祈った後はイエス様の栄光と義の衣によって包まれて、私は圧倒的勝利者だ、神の子だ、聖なる者だと認識するようになる。だから、私たちもイエス様に倣って祈る者となろう。
30-31節。モーセはイスラエルに律法をもたらした人物。律法を代表する人。エリヤは預言者の中で最大の人物。預言者を代表する人。いわば、律法と預言者がイエス様と会話をしているようなもの。そして、栄光に輝いていた三人の話題は、エルサレムで遂げようとしているイエス様の最期についてだ。つまり、十字架の死だ。律法と預言者といえば、旧約聖書全体を表している。旧約聖書全体が指し示しているメシアの栄光は何かといえば、十字架の死だということ。人間にとって、最悪の苦しみを象徴するものが、神の栄光の頂点なのだ。イエス様にあって苦しみは栄光となる。
また、モーセとエリヤといえば、二人とも死について不思議な点がある人物だ。モーセは死んだが、その遺体は消えて、誰も見つけることができなかった。エリヤについては、死ぬことなく炎の戦車によって天に生きたまま引き上げられた。このことはイエス様が復活して、その遺体が墓から消えてなくなるということ、さらには、天に上げられるということを暗示している。モーセとエリヤは十字架の死、復活、昇天をも暗示していたのだ。
このすばらしい出来事があったとき、弟子たちはどうしていたのか?32節。弟子たちは目をこすっていた。眠かった。危うく眠りこけてすべてを見逃してしまうところだった。あまりにも対照的だ。一方では、神の栄光に輝いている三人がいて、他方ではうとうとしている三人がいる。このことから、生まれながらの人間の霊的な鈍感さというものがわかる。イエス様は三人の弟子たちに祈りを学ばせるために、祈りの場に連れていくということをしていたが、この三人にはまだ祈りがしっかりと身に着いていなかった。まだまだ霊的に眠りかけている状態だった。しかも弟子たちのこの状態はゲッセマネの園に至るまで続く!霊的に眠っていたら、霊の世界でどれだけすばらしいことが起こってもほとんど気づくことができない。神が大リバイバルを起こしても、自分だけそれに気づかずに、一生懸命神の火を消そうとする側に回るかもしれない。霊的に目覚めるべく、祈りを身に着ける者となろう。祈りが生活に染みついている者、祈りの力を知っている者、すぐに神の臨在の中に入っていけるものとなろう。これを身に着けることに近道はない。イエス様と共にいた弟子たちですら、祈りがしっかりと身に着いていなかったのだから、身に着けるにはそれなりの時間とエネルギーをかけることが必要だ。どれだけ祈りについての理論を学んでも実際に口を開いて祈らないなら、何にもならない。祈りの重要性を認識して、時間と場所を決めて、毎日毎日祈ろう。
33節。ペトロは、二人が去っていくのを惜しんだ。栄光の中にずっととどまりたいと願った。それで、モーセとエリヤとイエス様がそこにずっといてくださるように、仮小屋を建てようという思い付きを口にした。一つの霊的な体験が人生を大きく変えるということがある。眠りかけていたペトロだったが、それでもこのときの体験は一生忘れられないものとなり、Ⅱペトロの1:16-19でこのときのことを書いている。大きく用いられた主の僕は、大なり小なり聖霊様を激しく受ける体験やイエス様の強力な臨在に触れる体験をしている。ジョン・ウェスレーはホーリークラブのメンバーで午前3時ごろまで祈っていたら、神の栄光がその祈り会に望んで全員が地面に倒れた。チャールズ・フィニーはイエス様が自分の部屋に入ってくるのを経験した。D・L・ムーディーはある街を歩いているときに突然聖霊の力を受けた。共通しているのは、彼らはそれらの体験をした後、何十万人という人々の救いに用いられるようになったということだ。神の栄光は私たちを刷新する。何時間でもそこにとどまることは良いことである。しかし、いつまでもそうするというわけにはいかない。この世にいる限りは、いつかは山を下りて、生活のことをしたり、人々に仕えたりしなければならない。永遠の栄光は天国に入ってから存分に楽しもう。
ペトロのもう一つの間違いは、三人ともを引き留めようとしたことだ。イエス様をモーセとエリヤと同列のように考えていたところがある。34-36節。父なる神様が雲の中から語られた内容では、モーセのこともエリヤのことも触れていない。ただ御自分の子であるイエス様に聞き従うようにということだけだった。律法と預言者はイエス様の陰のようなもの。それらの栄光は去っていかなければならない。消え去らなければならない。いつまでも残るのはただイエス様だけだ。私たちはあくまでもイエス様と共にあることを望もう。私たちは先に召されたクリスチャンとは天国で再会することを期待できる。でも、聖書には、先に召されたクリスチャンと会うことについての祝福はほとんど語られていない。それは言ってみればモーセやエリヤのようなもの。すばらしいことだけどもメインではない。あくまでもフォーカスされるのはイエス様と顔と顔を合わせて出会うということだ。
37-41節。なぜイエス様はこんなにも怒っておられるのか?イエス様がいなかったのは、ほんの一日だけいなかった。一日いないだけなら、群衆たちは当然山の下でイエス様が来るのを待つ。群衆たちはイエス様に依存しているからだ。それはある意味当然だ。問題は山に登らなかった9人の弟子たちだ。彼らが山の下に残ったのは、群衆たちをまかせるためでもあった。弟子たちにはすでに悪霊を追い出す権能が与えられていた。
だから、イエス様がいない一日くらいは対処できてしかるべきだった。ところが、弟子たちはイエス様の信頼を裏切って、わずか一日も群衆たちに対して十分な奉仕ができなかった。子供にとりついた悪霊を追い出すことができなかった。イエス様はいつまでも弟子たちと共にいることはできない。群衆たちが待てども待てどもイエス様が山から降りて来ず、群衆たちのことを弟子たちにすっかりまかせるときが来る。イエス様は天に昇られるのだ。しかし、この体たらくでは、イエス様は安心して天に昇れない。イエス様が嘆かれるのも当然のことだ。
悪霊にとりつかれた子供はイエス様が放っておくことのできない「一人」息子だった。叫び出したり、あわを吹いて倒れたりするということは、この悪霊は癲癇の霊だろう。しかも、弟子たちが今まで追い出してきた悪霊よりも強力な悪霊だったので、弟子たちは追い出すことができなかった。なぜ、弟子たちは追い出せなかったのか?イエス様は41節で「なんと信仰のない」と言っている。弟子たちの信仰が不十分だったからだ。信仰がなければ、神の御業を体験することができない。また、別の福音書では、イエス様は「この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せない」と言っておられる。つまり、祈りと断食によって信仰を強めれなければ、追い出すことができないということだ。9人の弟子たちの問題も祈り不足だった。もし私たちがなかなか克服できない悪の力に遭遇しているのであれば、それを突破する道はやはりイエス様のように熱心に祈りと断食に励んで信仰を強めるということなのだ。
イエス様は山で栄光に輝くほどずっと祈っておられた。充電は満タンの状態だった。42-43節。9人の弟子たちが苦労しても全然追い出せなかったのが嘘のように、イエス様は他の悪霊と同じように権威を持って叱りつけて、追い出して、子供を完全に癒した。人々はイエス様の御業に驚き、神の偉大さを賛美した。しかし、イエス様が真に神の偉大さを表すのは、悪霊を追い出すということにおいてではない。44-45節。イエス様は二度目の受難の予告をされた。イエス様の受難こそが神の偉大さを表す。十字架こそが神の偉大さを表す。悪霊に対して力強い勝利を成し遂げることよりも、まるで完全敗北したかのように十字架で死ぬことが神の偉大さを表すというのは、本当に不思議なことだ。弟子たちは二度目のイエス様の受難、実は福音であるその受難を聞いてもやはり理解できなかった。すっかり覆いがかけられているかのように、マスクをつけているかのように、十字架の栄光は隠されていたのだ。弟子たちはイエス様が死んでしまうなんて口にしたくもないし、考えたくもない。怖くてイエス様に尋ねることすらできなかった。ところが聖霊様を受けて理解してからは、弟子たちは十字架の福音を大声で大胆に宣べ伝えるようになるのだ。神の偉大さは不思議で計り知れない。
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