放蕩息子の帰還[ルカ15:11-32]

ルカによる福音書
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あなたはもう家に帰りましたか?(^O^)

放蕩息子の帰還[ルカ15:11-32]

放蕩息子の帰還[ルカ15:11-32]

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【ノート】
11節。父は子である私たちを愛してやまない父なる神様。二人の息子のうち、上の息子は直接的にはファリサイ派の人々。しかし、もしかしたら私たちのことかもしれない。もし私たちが「自分は神によく従っているのだから、そうではない人々よりも優遇されて然るべきだ」と思っていたらこの上の息子にあたるだろう。下の息子は直接的には徴税人や罪人たち。しかし、やはりもしかしたら私やみなさんのことかもしれない。もし私たちが一度は神に背き、神から離れたが、イエス様を通して、神の下に戻ろうとしているならこの下の息子にあたるだろう。どちらの息子も問題を抱えている。父の下に帰るときに、問題の解決が得られる。あなたはもう父のもとに帰っただろうか?

12節。イスラエルでは、遺産相続をする場合、歳をとった人が死ぬ前に財産を分配するということはあった。分割する割合は律法で決まっていて、長男がほかの息子たちの二倍の分け前を受ける。死んだら自動的に息子たちが相続することになる。死ぬ前に財産分与をするかどうかは当人が決めることだ。ところが、下の息子は父親に面と向かって財産の分け前を要求している。「あなたが死ぬのを待ちきれない。あなたに関心がないから今すぐ財産をよこせ」と言っているようなものだ。下の息子には父に対する愛も尊敬も全くない。ただそこには家を出て好き勝手したいという罪深い欲求があるだけだ。さて、私たちが父なる神を信じ、父なる神に祈りをささげるのは何のためか?何のためか?もし自分の欲望を満たすためだけで、父なる神様御自身に対して無関心であれば、私たちはこの放蕩息子と何も変わらない者ということになる。父なる神様を愛しているか?私たちは父なる神様御自身と神様が与えてくださると約束しているもののどちらをより愛するか?父なる神様を何よりも愛する者となろう。
父は、議論をせず、息子の言う通りに気前よく財産を二人に分けてやった。一生涯苦労して獲得した財産を何の苦労もしていない息子に惜しまず分けてやった。ここから父なる神様の寛大な愛、恵み深い愛、犠牲を伴う愛を見ることができる。
しかし、父は財産をわけたら下の息子が駄目になってしまうことがわからなかったのだろうか?父は、財産をあげると下の息子がとんでもないことになることをよくわかっていた。息子のことは何でもわかる。その上で、財産を与えたのは、息子が言葉で言い聞かせても耳を傾けないということ、痛い目を見なければわからないということを知っていたからだ。私たちが、明らかに神の御心でないことを求めても、答えてくださることがある。ストップをかけないことがある。それはゴーサインではない。聞く耳を持たないので、壊滅的な打撃を体験することを通して学ばせようとしておられるのだ。壊滅的な打撃を体験したい?それよりももっと良いことは何か?御言葉に対して聞く耳をもつことだ。放蕩息子は良い話だが、かつて放蕩息子だったとして、私たちはこれから放蕩息子のようになることを絶対に避けなければならない。日々のディボーションを通して、父なる神の御言葉に聞く耳を持つ者となろう。

13節。ここから大きく4つのことがわかる。まず、何日もたたないうちに、と書いてある。このことから下の息子の放蕩は計画性のあるものだったことがよくわかる。財産を受け取ったら家を出て放蕩すると決めていたのだ。計画的な犯行は衝動的な犯行よりも罪が重い。日本の刑法でも同じ内容の犯罪でも計画犯の場合はずっと重い刑が科せられる。次に、全部を金に換えてと書いてある。父から相続された財産とはお金でなければ何だったか?土地だ。先祖代々受け継いできた土地というのは、日本でも大事なものだろう。そこが本籍地であって、都心に住んでいる人々も定期的にその場所に帰る。
イスラエルではなおさらのことだ。土地は先祖からのものというだけでなく、神から賜物だ。神がアブラハムとの約束に基づいて与えてくださった嗣業の地だ。みだりに売ってはならないものだ。それを空しい罪の楽しみのために売ってしまったのだ。私たちにも、絶対に売ってはならないものがある。悪魔に全世界を与えると誘惑されても、手放してはならないものがある。それはイエス・キリストへの信仰だ。その信仰によって、私たちは来るべき世界で永遠の報いを豊かに受け継ぐことができるのだ。イエス様への信仰を手放すことは、永遠の財産を捨ててしまうことだ。固い決意をもって主から離れないようにしよう。「一生涯、私は絶対に神様から離れない」と宣言しよう。
3番目に遠い国に旅立ちと書いてある。家族や親族のいない、それどころか、自分の国ですらない、主なる神様への信仰を持つ人が誰もいない場所に行ったということだ。遠い国だから誰とも音信不通だ。それは神から離れて、自分の放蕩を咎める人が一人もいない場所で大胆に罪を犯したかったのだろう。クリスチャンでいえば、教会から離れ、クリスチャンとの連絡を絶ち、祈ることも聖書を読むこともしない状態だ。特に日本では、教会から離れることと、たちまち周りは未信者ばかりになってしまう。職場で、学校で、何かプライベートの関係でクリスチャンとよく遭遇するというのはなかなかない。教会を大事にしよう。足しげく通い、教会にいる一人一人ともっと信仰に基づいた関係を深めていこう。
最後に財産を無駄遣いしてしまったと書いてある。財産に罪はない。父から受け取ったものは、みんな非常に良いものだった。このことから、どんなに良いものを与えられたとしても、それを受け取る側に受け取るだけの器がなければ無駄になってしまうことがわかる。特別な賜物がほしいか?お金がほしいか?配偶者がほしいか?教会や社会での地位がほしいか?それを求めることは悪いことではない。しかし、それらは私たちの器が整ってこそのものであり、そうでなければ台無しになってしまうということを心得なければならない。私たち自身が神からの良いものにふさわしい成熟した者となることをもっと求めよう。

14-16節。放蕩息子の転落だ。誰のせいでこんなことになったのか?全部自分のせいだ。人を滅ぼすのは神ではなく自分自身だ。人は神から離れたところで自滅している。14節、財産を使い果たしたときに飢饉が起こった。放蕩息子は、財産を使い果たして困るところまではある程度予想していたかもしれないが、まさか飢饉まで起こるとは想定外だっただろう。神から離れると、追い打ちをかけるように、悪い状況は重なるもの。ここまで悪いことが起こるのか、と驚く。それは別に天罰ではない。クリスチャンとして、神と共に歩んでいるとき、私たちはイエス様の御名によって、悪いものから守られている。私たちが気づかないところで、あらゆる呪い、病気、事故から守られている。感謝しよう。神から完全に離れてしまったら、その守りが取り除かれ、あらゆる呪いに対して無防備になる。その転落はとどまるところを知らないのだ。

15節、豚の世話をした。豚は、旧約の律法で汚れた動物とされている。ユダヤ人は絶対に豚を食べなかったし豚飼いになることもなかった。豚の世話をするとは、放蕩息子がどんな状態であることを暗示しているのか。イザヤ66:17。絶たれると書いてある。神から絶たれていることが暗示されている。Ⅱペトロ2:20-22。イエス・キリストの恵みを知りながらも、故意に神に背いた結果、罪の泥沼にあって抜け出せないことが暗示されている。神から離れる代価は大きい。イエス・キリストの恵みの内にとどまろう。

16節、食べ物をくれる人は誰もいなかった。世は、利己的だ。お金や能力を持っている人には人がむらがる。放蕩息子も財産を持っているときは、それを目当てに人が群がってきただろう。しかし、食べるに困るほど落ちぶれるともう価値がないので、誰も助けてくれない。今までちやほやしてきた人も見向きもしない。それが世のほとんどの人の有様だ。なぜマナ教会では無料食堂をするのか?世とは違うことを示すためだ。世は冷たい。しかし、教会は、何も持っていない者を歓迎し、必要な助けを惜しまず与える。誰もがその存在だけで価値を認められる。それが教会だ。それが父なる神様のあなたに対する御心だ。放蕩息子は落ちるところまで落ちて、困り果てているときに、初めて今までどれほど恵まれていたかに気づく。

17-19節。悔い改めだ。17節で、我に返ってと書いてある。これがターニングポイントだ。たとえどれだけ遠く離れてしまったとしても、我に返ることができれば、父のもとに戻れる。我に返るとは、原語のギリシャ語でもまさに自分自身のもとに返るという意味の言葉が使われている。悔い改めは、自分自身に返ることだ。人は神から離れているとき、本来の自分自身からも離れている。人は神に立ち帰るとき、初めて本来の自分に戻ることができる。サタンは神から離れた罪深い自分が本来の自分だ嘘をつくが、だまされてはならない。私たちは、イエス様にあってこそ本来の輝きを取り戻す。
19節で、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と書いてある。これはすべての人にあてはまることだ。誰も自分の行いによっては、神の子と呼ばれる資格はない。大なり小なり、放蕩息子と同じことをしたことがある。それでは、絶対に神の子となれないのか?そうではない。私たちはただ、神の愛ゆえに、イエス様に対する信仰によって神の子となれる。神の愛がいかに豊かなものか見てみよう。

20-24節。20節でまだ遠く離れていたのにと書いてある。遠く離れていたのにどうやって見つけられたのか?毎日毎日、家を出た息子が戻って来るのを、今か今かと待っていたからだ。父なる神様は、私たちが悔い改めるよりもずっと前から、私たちが御自分のもとに戻ってくるのを今か今かと待ち続ける。走り寄ってと書いてある。イスラエルの大人の男性は走らない。イスラエルでは人は長いローブを着る。それを着たら走りにくい。しかし、そもそも大人が走るのは権威を損ねるみっともないことだから走ることはない。ところが、父は走った。神の愛は常に権威よりも優先されるのだ。そして、父は首を抱き、接吻した。豚の世話をしていたし、清潔にする余裕はなかっただろう。ものすごく悪臭を漂わせていただろう。父は構わずに首を抱き、接吻した。神の愛は常に潔癖さよりも優先されるのだ。聖なる神に比べたら、罪人はどれだけ汚れた存在かわからない。しかし、神は大きな愛で抱擁してくださるのだ放蕩息子は準備していたセリフを言おうとしたが、父は言う隙をあたえなかった。父は服と指輪と履物を与えた。良い服はキリストの義の衣だろう。あなたはもう着たか?キリストの義の衣を着れば、罪赦され、清められた者とみなされる。指輪は権威の回復だ。家督を相続した者であることを示す。履物は奴隷ではなく、子供であるしるしだ。奴隷には履物は与えられないが、家族の一員には与えられる。父はすべてを回復させた。神の愛はすべてを回復させる愛だ。その回復のことを別の言葉で贖いという。しかし、祝宴に水を差す存在がいた。兄だ。

25-30節。放蕩息子は一人ではなかった。兄も放蕩息子だ。28節で、「兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめた」と書いてある。兄も父に逆らって家を出て、戻ってこなくなったのだ。これは父親の権威に対する挑戦だ。
放蕩息子兄の主張をみると、兄が父親に仕えていたのは、父親への愛や尊敬からではなく、義務感からだった。子山羊一匹すらくれなかったと書いてある。そのお目当ては放蕩息子弟と同じく、財産だった。放蕩息子兄はいつも「私はこんなによく仕えているのにどうして父はもっとよくしてくれないのか」と父に対して不平不満を持っていた。それを弟が帰ってきたことを父が喜んだことで爆発させたのだ。また、放蕩息子兄は、弟のことを、私の弟と呼ばず、あなたのあの息子と呼んでいる。弟なのに、自分には無関係な人物であるかのように、冷たく扱っている。さらに、娼婦というのは放蕩息子兄が言い出すまでは触れられていない。弟に対して嫌疑をかけ、ことさらに悪く見ようとする心が表れている。これがファリサイ派の人々の心であり、もしかしたら私たちの心かもしれない。

31-32節。この話は結末を伝えていない。つまり、放蕩息子兄が父に応じて家に帰ったかどうかが書かれていない。それはなぜか?その結末を決めるのは私たちだからだ。さあ、あなたはどうするか?あなたは罪人が神に立ち帰ったことを妬んだり怒ったりしたかもしれない。しかし、自分の信仰による弟が霊的に死んでいたのにイエス様に出会って復活したのだ。完全に破壊されていたのに、見つかったのだ。そのことを喜び楽しむことが当然だ。罪人の救いを喜ぶことが父なる神様の御心だ。あなたはどうか?私たちはどうか?この問いかけに答えよう。
イエス様が罪人を迎え入れることは福音だ。しかし、ファリサイ派の人々はそれを悪いこととしてとらえてしまった。伝道者が大勢の人々を救いに導くと、それを批判する人々がいる。ジョージ・ホイットフィールドにしても、D・L・ムーディーにしても、ビリー・グラハムにしても、大勢の人々の救いに用いられた人々は、批判されてきた。誰からか?教会からだ。クリスチャンからだ。それは嫉妬だ。自分が伝道して救われたからではないから、他の教会の人ではないから。そこには、放蕩息子兄のように他人とみなす意識が働いている。実際にはすべての教会は神の教会だ。罪人が救われることは、他人ではなく、私の兄弟が死んでいたのに生き返ることだ。そのことを喜ぼう。神を賛美しよう。また、マナ教会のみならずほかの教会を通しても人々が救われることを祈り求めよう。父なる神様の御心を心として、それが誰であれ、どの教会のことであれ、罪人が神に立ち帰ることを喜ぶ者となろう。

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