皇帝のものは皇帝に、神のものは神に[ルカ20:20-26]

ルカによる福音書
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私たちは、この世で善良な市民として生活しつつ、完全に神様に属する事柄については一切妥協しないように生きるのです。

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に[ルカ20:20-26]

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【ノート】
イエス様とイエス様に敵対する様々な勢力との問答が続く。21節。祭司長たちと律法学者たちによって、正しい人を装う回し者が派遣された。つまり、スパイだ。イエス様をほめて、その教えを乞うふりをして油断させて、失言をさせて逮捕してしまおうという作戦だ。イエス様の敵たちは、真正面からイエス様を倒せないので、汚い手を使った。私たちの敵は今も正しい者を装う回し者によって私たちを倒そうと狙っている。私たちは警戒しなければならない。Ⅱペトロ2:1。異端だ。異端は正しい者に見える。いわゆる良い人のように見える。そう見せかける戦略に非常に長けている。あからさまな悪人に誰が騙されるか?「私は詐欺師です」という人を誰が信頼するか?異端は私たちの心の隙間に入ってくる。私たちの相談に乗ってくれる。私たちに同情する。私たちをほめてくれる。私たちを受け入れてくれる。私たちをいろいろな面で助けてくれる。そして、私たちがすっかりとその人を信頼しきったところで、異端の教えを吹き込み始めるのだ。イエス様が罪からの救い主であることを否定する。聖書ではない別の書物を出してくる。ふだんだったら「退け、サタン」と言うことができても、もうその人のことを信頼してしまっているので耳を傾けてしまう。それは最初から最後まで全部作戦だ。私たちは、サタンが、正しい者を装う回し者を使って私たちを陥れようとしていることを警戒しよう。それを見破るには、第一に、聖霊様の力が必要だ。聖霊様の賜物の一つには、霊を見分ける力がある。イエス様もこの力で見破っただろう。聖霊様になじんでいる人は、異端に遭遇すると何となく違和感を覚える。説明しがたい違和感を覚える。それはただ自分の母教会での習慣ややり方とちょっと違うとかそういうレベルではなく、霊が違う。聖霊による一致ができない。そういう違和感を覚えたら、聖霊様が警告を与えているのだから、その警告に耳を傾けて、その人たちを避けよう。第二に、御言葉の実力が必要だ。聖書に親しんでいることが必要だ。聖書に親しんでいれば、異端の教えが語られた瞬間拒絶することができる。

さて、正しい者を装う回し者の戦略を見てみよう。22節。これはいったいどういうことなのか?ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあったから、ローマの皇帝に対して税金を納めていた。税金は重税ではなかったので、大して負担にはなっていなかった。問題は、熱狂的なユダヤ人たちがこう思っていたことだ。「神以外に王はいない。だから、神以外のどんなものに税金を払うことも間違っている!」ましてや、異邦人の王に税金を払うなんて問題外ということだ。イエス様の弟子の一人に熱心党のシモンという人が出てくるが、熱心党はまさにそういう思想だった。彼らはその思想を貫くためならクーデターも起こすし、自分の命も投げ出すほどの覚悟があった。そして、イエス様の支持者の中にはそういう人々も結構いたのだ。特にガリラヤの人々に過激派が多かったからだ。だから、この質問はどう答えてもイエス様を陥れることになっている。もし、「税金を払ってはならない」とイエス様が答えれば、「ローマに対する反逆だ!」として総督に引き渡すことができる。これが第一の狙いであって、彼らはイエス様がそう答えることを期待していた。しかし、仮にイエス様が「税金を払いなさい」と答えたとしても、「神だけを王としないのか!敬虔なユダヤ人あるまじき考えだ!」としてイエス様の支持率を落とすことができる。どっちに転んでもイエス様にダメージを与えられるということだ。

なんだかとにかく人を槍玉にあげるために何と答えようが悪質な記事を書こうとするマスメディアのようだ。メディアというと聖書に出てくる超大国の一つだ。ダニエル書にはメディアのことをネブカドネツァル王の見た夢に登場する巨大な像のうちの銀の胸と腕にあたる国、ダニエルの幻の中の第二の獣で、三本の肋骨を加えた熊、さらには二本の角のある雄羊で高慢にふるまった獣。
いずれも、神の国ではない。決して良いものではない。私たちは、メディアというのは基本的に敵に属するものであって、そこから流れてくる情報というのは印象操作を狙っている。人々の心を誘導することを意図していることも多々あると知らなければならない。テレビで、ネットニュースで流れている情報、もちろん真実もある。ためになることもある。しかし、イエス様を陥れようとしたこの回し者のようなことも多い。私たちは何よりも、真実で正しい神と神の御言葉を信頼しよう。それをもとにその他の情報を判断する者となろう。

こんなどう答えても不利になりそうな質問に対しても、イエス様には最高の答えがあった。23-26節。回し者たちはぐうの音も出なかった。あまりに完璧な論破に何も言えなくなってしまった。イエス様の驚くべき答えについて考えてみよう。イエス様は、回し者が持っているデナリオン銀貨を見せるように言われた。古代世界では、支配者のしるしは貨幣の発行にあった。今でも通貨発行権が権力のしるしだといえよう。日本の通貨発行権は、政府にある。政府の造幣局がお金を刷った後に日本銀行に交付される。古代世界ではなおさらそうだった。ユダヤ人の独立戦争で王位を得たマカベア家は、独立を成し遂げるやいなや、独自の貨幣を発行した。さらに、貨幣を発行する権利を得れば、同時に課税の権利も得られた。それは古代世界で広く認められていた。ある人が貨幣に自分の肖像と銘をきざむ権利得れば、それは事実上、課税の権利を得たということだ。イエス様が言っていることはこうだ。「あなたが持っているデナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘があるではないか。あなたが皇帝の貨幣を受け入れて、それを用いているなら、当然、課税の権利を受け入れなければならない。しかし、完全に神に属する領域もある。」

第一に、この世の国において善良な市民であれ。私たちの本籍は天にある。私たちは世に属しておらず、神の国に属する者だ。それであれば、世の国に対して徹頭徹尾対立姿勢をとるべきなのか?そうではない。神の御心は遣わされている世の国において誰よりも善良な市民として生きることで、光を放ちなさいということだ。神を畏れることと善良な市民として生活することは完全に両立する。この世で善良な市民として生きることは、信仰の妥協ではなく、神の御心に適ったことだ。自分の国を愛することは良いことだ。神が私たちをそれぞれの国で生まれるようになさったのだから。では、善良な市民とはどういう市民なのか?犯罪をすることなく、義務を果たし、国家の発展に貢献することだろう。日本には国民の三大義務というものがある。教育の義務、勤労の義務、納税の義務だ。教育については、箴言22:6。勤労については、Ⅱテサロニケ3:10。納税については、ローマ13:7。これらのことを当然行う者となろう。

第二に、この世の国の運営について関心を持て。イエス様は皇帝の権威を認められた。この世の国家の権威を認められた。それであれば、私たちも無視したり無関心であったりしてはならない。
御国を来らせたまえ、御心が天になるごとく、地にもなさせたまえとクリスチャンは祈る。神の国が侵入して世を変えていくことを祈る。その世を変えるということの中には当然、政治を変えるということも含まれる。私たちが、「政治は信仰と無関係」として全部未信者にまかせてしまうなら、国がどんどんおかしくなっても一切口出しできない。クリスチャンが政治に無関心になるなら、ますます創価学会や幸福の科学を母体とした政党に乗っ取られ、日本が御心から大きく遠ざかってしまうだろう。では、私たちはどう関わっていくべきか?まずは、政治家の救いを祈ることだ。聖書には、政治家のために祈るように書いてある。そればかりでなく、政治家がクリスチャンになることを望んでおられることが書いてある。Ⅰテモテ2:1-4。この祈りが聞かれてコンスタンティヌスがクリスチャンになったに違いない。中世ヨーロッパの宣教は修道士たちが王たちのところに行って宣教した。王が回心すると、国全体が集団回心する。それで、全員にバプテスマを授けるべく一斉に川に入るということが行われた。まず強い人を縛るなら、その家のもの略奪できると主が言われた通りだ。次に、選挙で投票することだ。もし、クリスチャンが政治の世界で神の御心を実現していこうとしているなら、積極的に投票すべきだろう。最後に、可能なら自分が政界進出をすることだ。イギリスの奴隷制度廃止のために奮闘したウイリアム・ウィルバーフォースのように、神の御心が世の国に実現するように戦うのだ。プロテスタントは抗議する者という意味だ。世の悪に対して、声を上げないなら、私たちはアイデンティティを失うことになる。

第三に、完全に神に属することに一切妥協するな。神のものは神に返さなければならない。私たちの信仰、栄光、使命は完全に神に属するものだ。時に、完全に神に属することについて、世が妥協を迫ってくることがある。そういう場合には、私たちはあくまでも神に従わなければならない。もし国が、クリスチャンを迫害し、背教を迫るなら、当然それに耳を傾けてはならない。もし国が、イエス様だけでなく、天皇も礼拝するように強要してくるなら、あくまでも抵抗しなければならない。もし国が、イエス様を宣べ伝えることを禁止するなら、それでも宣べ伝えなければならない。この点について、使徒たちは一切妥協しなかった。イエス様が大宣教命令をなさった。イエス様がすべての民を私の弟子にしなさいと言われたからには、国に禁止されたからといって引き下がってはならない。使徒4:18-19。使徒5:28-29。幸いなことに、日本では、信仰を禁止されていない、偶像崇拝を強要されてもいない、宣教を否定されてもいない。禁止されていてもするべきことが神に属することだ。禁止されていないのであれば、私たちはますます大胆に神に属することを行っていく者になろう。どこまで信仰を貫こう。すべての栄光を神にお返ししよう。神の国の福音を宣べ伝えることに献げていこう。アーメン。

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