私たちの愛

福音&主題メッセージ
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この愛は、この世には存在しません。
この愛は、父なる神様から流れ、イエス様を通して現れ、聖霊様を通して体験します。

私たちの愛


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【ノート】
永遠に残るものは信仰と希望と愛。今回はその中で最も大いなるものは愛であるといわれる愛について。信仰と希望によって愛の実が結ばれる。愛は愛でもギリシャ語では大きく4種類ある。恋愛、友愛、親子愛にあたる愛がギリシャ語にある。しかし、ここでいう愛は神の完全な愛であるアガペーの愛だ。この世にない愛だ。なぜ愛が最大なのか?それは、愛の中に、信仰と希望も入っているからだ。
愛とは何か、最もよく定義されているのはⅠコリント13:4-7。ここに15もの愛についての定義が書いてある。すべてを信じ、すべてを望むと書いてある。つまり、これらが信仰と希望だ。愛は偉大だ。さて、私たちは愛を知っているだろうか?私たちは愛の人だろうか?私たちは愛を実践しているだろうか?15の定義が私たちにあてはまるだろうか?愛という言葉の代わりに自分の名前を入れてみよう。しっくりくるなら、どこまでも愛の人だ。しっくりこないなら、悔い改めが必要だ。そして、多かれ少なかれ、私たちは悔い改めが必要だろう。
アガペーの愛はこの世にない愛なのだから、普通に暮らしていても一生知ることがないし、人間のうちから自然にわいてくることはない。イエス様はイエス様を信じない人にこう言った。ヨハネ5:42。愛の使徒はこう書いている。Ⅰヨハネ4:7-8。アガペーの愛は神様との交わりを通して体験することによって、初めて体験できる。愛は父なる神様から流れてきて、イエス様を通して現れ、聖霊様を通して体験する。神の愛を体験してほしい。わかってほしい。これがわからないと、話にならない。

愛は父なる神様から流れる。Ⅱコリント13:13。頌栄では、御父は愛で知られている。イエス様も聖霊様もあなたを愛しておられるが、父なる神様こそがあなたへの無限の愛の源だ。ヨハネ3:16。聖書で神と言っても、イエス様を指すこともあれば、聖霊様を指すこともあれば、三位一体全部を指すこともある。しかし、ここでは、神はその独り子をお与えになったほどにとあるので、父なる神様であることがわかる。父なる神様は独り子であるイエス様を与えてくださるほどあなたを愛しておられる。あなたが罪によって滅びずに、永遠の命を得るためだ。そこまであなたを愛しておられる。あなたにとって最も大事なもの、最も愛するものは何か?それをあなたは、喜んで誰かのために与えることができるか?父なる神様はそれをあなたのためにした。多くの親にとって、たった一人のかけがえのない子供こそが、その親の愛を独占する。父なる神様にとって、最も大事で愛する対象は独り子だ。父なる神様はその独り子をあなたのために与えてくださった。Ⅰヨハネ3:1。父なる神様は、あなたのことをご自分の子供と呼んでくださっている。そして、それはごっこ遊びではなく、事実である。あなたは事実、神の子とされている。聖書は人間が神の子になることを養子になるという言葉で表現している。養子は実子と全く同じ権利を持ち、まったく同じ取り扱いが期待されている。当時のローマでは、特に養子の権利が大きかったので、乱用せず、慎重に行われるように、養子縁組をするときの手続きが煩雑になっている。あなたは父なる神様がイエス様を愛するのと同じように愛されている。父なる神様はイエス様がバプテスマを受けたとき、「これは私の愛する子」と言われた。父なる神様はあなたにも、「私の愛する子」と呼び掛けてくださる。仮にあなたが父親、あるいは両親からよくしてもらえなかったとしても、父なる神様はそうではない。人間の親については、イエス様は「悪い者だ」と断言している。父なる神様は最高の親だ。よいものをくださる。イエス様をくださり、聖霊様をくださる。日用の糧をくださり、罪を許してくださる。嘆くものを憐れみ、力を与え、慰めを与えてくださる。私たちをわが子として訓練してくださる。
父なる神様は永遠の父だ。肉の親は私たちが年をとれば老いていき、この世から去っていく。しかし、父なる神様は永遠に私たちの面倒を見てくださる方だ。イザヤ書46:4。この方は決してあなたを忘れない。イザヤ49:15。あなたは決して孤独になることができない。孤独を感じることがあってもそれは事実ではない。世界の誰もあなたを知らなくても、あなたは神様には覚えられている。多くの人は自分のことを考える。自分が何を食べるか、何を着るか、どんな仕事をするか。そして、時々、愛する人々のことを考えて祈ったり、連絡を取ったりする。愛の人は多くの人をその心に抱いて頻繁にとりなして祈る。それでも、絶えずあなたのことを考えてくれる人はいないこともあるだろう。しかし、父なる神様はあなたがいつでもどこにいても、寝ても覚めても、あなたのことを覚えておられる。髪の毛一本残らず数えてくださる。それくらい注目してくださり、それくらい徹底的に守ってくださるのだ。

愛はイエス様を通して現れる。人間同士の恋愛であっても、愛が相手に全然伝わらないことがある。1/3も伝わらないこともある。だから、言葉を通して伝えたり、手紙を書いたり、プレゼントをしたりする。父なる神様がどんなに人間を愛していても、罪人にはその愛が全く伝わらない。聖なる神と罪人の間にはあまりにも大きな隔たりがあるからだ。しかし、父なる神様は何としてもその愛を伝えたい。そこで、イエス様が遣わされた。イエス様は、父なる神様がどれだけ私たちを愛しておられるのかをこの世に来て体現してくださったお方だ。イエス様もまた、あなたを愛しておられる。その愛は父なる神様の愛を表す愛だ。ヨハネ15:9。ヨハネ15:13。ローマ5:8。イエス様の十字架こそが神様の愛のしるしだ。イエス様の十字架を通して、父なる神様の愛が明らかになった。その痛み、恥、死が私を永遠の滅びから救うためだったならば、私は愛されているということだ。それはどこまでもだれかではなく私のためだ。ガラテヤ2:20。十字架は私への愛のためだ。十字架だけでなく、イエス様の人間としての生涯のすべては私のためだ。私への愛が動機だ。イエス様は私のために生まれ、私のために苦労して働き、私のために荒れ野で40日間断食し、私のために御言葉を語り、私のためにゲッセマネの園で祈り、私のために逮捕されて裁判にかけられ、私のために鞭うたれ、私のために茨の冠をかぶり、私のためにゴルゴダへの道をのぼり、私のために十字架に釘づけられ、私のために死なれ、私のために復活され、私のために天に上り、私のために今も執り成しておられ、私のためにやがて再臨してくださる。イエス様の生涯すべては私への愛に満ちている。それは父なる神様の愛でもある。

愛は聖霊様を通して体験する。父なる神様があなたを愛し、イエス様がその愛を見せてくださっていても、それだけでは人間は神の愛がほとんどわからない。それは知識的な情報に過ぎない。ただ、聖霊様の働きによってのみ、神の愛を体験することができる。聖霊様は真理の御霊だ。聖霊様はイエス様を信じる者の内に住まい、真理をことごとく悟らせてくださる。ヨハネ16:13。聖霊様は私たちが当然地獄で永遠の苦しみに遭わなければならなかったところを、ただイエス・キリストの贖いの恵みによって救われたということを私たちに悟らせてくださる。自分の罪深さと神様の恵み深さを知る。聖霊様が教えてくださる真理の内で最も重要なのは、神様だ。エフェソ1:17-18。知恵と啓示との霊である聖霊様が神を深く知ることができるようにする。神を深く知ったらどうなるのか?神の愛を体験することになる。ローマ5:5。あなたにとってこの御言葉は意味があるか?あなたは神を深く知っているか?父なる神様がいかに私たちを愛しているか知っているか?イエス様と人格的に出会ったか?
もし曖昧ならば、そのままにしてはならない。絶対にそのままにしてはならない。求めよう。必ず、神を深く知り、その愛を体験できたことができたとわかるまで、求めよう。悟りは真剣に求める者に与えられる。よくわからないという人は、真剣に求めたことがないのだ。神様の愛がわかるように、1時間でも祈ったことはあるか?イエス様はたった一時間も祈れないのかと弟子たちに言われた。祈ったことがないなら1時間祈るべきだ。祈るべきだ。1時間といわず、休みの日だってあるのだから、神様のことがよくわかるまで何時間でも祈るべきだ。主はマタイ7:7でこう言われる。求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。この約束は真実だ。私は、イエス様を信じてから頻繁に集会に参加するようになり、日曜日は朝礼拝では飽き足らず、夕拝にも出席し、平日は木曜祈祷会や早天祈禱会にも時々参加するようになった。祈る内容は自分の野心とか欲望のことではなく、神の国と神の義に関することばかりだった。しかし、それでも、当時の私は正直に話すなら神を知っているとは到底言えなかった。神様に対する認識は知識の段階にとどまっていて、個人的に人格的にその方を知っているとは到底言えなかった。神から愛されているとか、自分に罪があるとか、聖霊がいるといわれても、知識的、理論的には聖書にそう書いてあるからそう信じるけれども、実際的にはよくわからなかった。自分が地獄に行かなければならないほどの罪を犯したのか?聖霊が共におられるというのはどういうことなのか?神が愛しているというけども、実感がない。そのように、日々でありながら、神を求める心を持ち続けた。求めなさい、そうすれば与えられると書いてあるのだから、求め続けるなら、いつかわかると信じていた。そんな折、ある祈祷会で自分が罪人であり永遠の地獄に向かっていたところ、イエス様の十字架によって救われたということを聖霊様からの悟りが与えられた。それからは、聖書の内容がすべて生きたものとなった。世界が新しく見えるようになった。福音を伝えることがどうしても必要だとわかり、何とかして伝えたいと願うようになった。それから、今に至る。私と同じ体験である必要はない。いつのまにか、神を深く信じるようになったという人もいれば、もっと衝撃を受ける出来事を経験する人もいるだろう。いずれにせよ、神から愛されているということをとことんわからなければならない。それまで、聖霊様と御言葉を通して求め続ける心を失ってはならない。

神の愛を知った人は愛することができるようになる。主もまた、私たちに愛することを命じておられる。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛する。この二つが聖書全体の命令の要約だ。愛を実践しよう。神から愛されたように愛する者になろう。愛しますと口でいうだけではなく実践する。Ⅰヨハネ3:18。具体的に愛の実践の指針を簡単に伝える。

第一に、愛を動機としよう。Ⅰコリント16:14。何事も、だ。どんな行動も愛が込められていなければならない。愛がないなら、逆にどんなにすばらしいこと、異言、預言、全財産を施すこと、山を動かす完全な信仰、殉教の死もがすべて無に等しいものとなる。神の御前に立つときに、「あなたは愛をもって行わなかった」として報いがゼロとなる。何事も愛をもって行う者となろう。
第二に、愛をもって忍耐しよう。愛は忍耐強いから始まった。だから、人の罪過ちを喜んで赦そう。私自身が神の忍耐によって救われたこと、神から無数の罪を赦していただいたことを知っているはずだ。

第三に、この上ない愛をもって献げよう。イエス様は弟子たちの足を洗うとき、何で誰もしないのか、何で自分がしなければならないのかと不平を言いながら、面倒くさそうに、嫌々やっただろうか?そうではない、この上ない愛をもってそれをした。マルタの精神に陥ってはならない。献金をささげるにしても、奉仕をするにしても、人に仕えるにしても、何かをプレゼントするにしても、この上ない愛に動かされて喜んでしよう。

第四に、愛をもって未信者に福音を宣べ伝えよう。愛の化身であるイエス様がメシアとしてなさったことは、神の国の福音を宣べ伝えることと福音を宣べ伝えるための弟子を立てることだった。それが最大の愛の行動だからだ。信じれば永遠の地獄から救われ、永遠の命が得られる福音を伝える以上に未信者のためになることはない。未信者はその価値がわからず、真珠をふみにじりかみついてくることもある。しかし、相手の反応に関係なく、未信者に対しては伝道以上の愛の行動はない。

第五に、愛をもって祈ろう。祈りは私の願いをかなえるためにばかりするのではない。それは、祈りのほんの一部だ。神への愛と人への愛に基づいて祈る。祈る自体が神様との愛の交わりだ。神様に感謝と賛美をささげる。そして、ほかの人のために執り成して祈る。私自身のことについては、罪が赦され、永遠の命を得ているのだから、あとは普通に生きていければそれ以上望むそんなにないはずだ。どうして神の愛を知っていながら自分のことばかり祈ることができようか。それは自己中心の罪だ。祈りながら罪を犯してはならない。愛をもって祈る者となろう。

まず、神の愛を知ろう。そして、愛を実践する者となろう。

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