ほめたたえよ、神である主を[ルカ1:57-80]

ルカによる福音書
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今は恵みの時代です。

ほめたたえよ、神である主を[ルカ1:57-80]

ほめたたえよ、神である主を[ルカ1:57-80]

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【ノート】
57-58節。当時の人々は都会に住む現代人よりもずっとつながりが深い。子供が生まれるとなると、近所の人々はみんな集まり、楽器を持った人々も呼ばれて、みんなで出産を喜び祝った。エリサベトについては、年をとっていたのに子供を産んだことで、大きな喜びがあった。さらに、その子が男の子だということを喜んだ。子供は男の子がいいか、女の子がいいかというのは、人によって違うだろう。しかし、当時は男の子が望まれていた。男の子が生まれると楽器が一斉に吹き鳴らされて喜び祝われたが、女の子が生まれるとみんな悲しみ、楽器を持って帰ってしまう。「男の子の誕生は全世界の喜び、女の子の誕生は全世界の悲しみ」と言われているくらいだ。そういう意味で、エリサベトには二重の喜びがあった。主が与えてくださる喜びは二重だ。私は御国における喜びを待望しているが、この世でも聖霊様を通して御国の喜びを体験している。私は天の霊的な祝福をいただいて喜んでいるが、神の国と神の義を最優先にすると衣食住を満たしていただく喜びもついてくる。

59-63節。人の名前には名前には意味がある。名前を付けるときというのは、その子どもにちなんだエピソードで名前がつけられることもある。たとえば、ヤコブとエサウがそうだ。エサウは赤かったので赤いという意味の名前、ヤコブはエサウのかかとをつかんでいたのでかかとつかみという意味の名前。そうでなければ、父親や親類の名前がそのままつけられた。それで人々は両親の意向を差し置いてザカリアと名付けようとしたのだ。近所の人が自分の子供でもないのに名付けようとする!どう思うか?おもしろいし、それだけ親密な良いコミュニティだったのだろう。しかし、悪気はなかったにせよ、ちょっとした圧力を与えただろう。人々は「今までこういうやり方をしていたから、今回もこれでいい」と思った。慣例からゼカリアという名前以外にありえないと思った。私たちはこれまでのやり方ということで機械的に、決まり事として物事を決めてしまうことがあるかもしれない。エリサベトとヨハネは止めた。それは、本人たちが子供につけようと思っていたとっておきの名前があったからではない。主の御心は別にあったからだ。天使を通して「その子をヨハネと名付けなさい」と命じられていた。主がその子の名をヨハネとすることにこだわっておられた。バプテスマのヨハネは新約時代の始まりを告げる声だ。彼の名前は「主は恵み」。主は新約時代、つまりこの時代を恵みの時代と位置付けておられる。誰もがイエス・キリストを通して、資格なしに神のご好意を受けることができる。私たちはこの時代にほかの名前をつけないようにしよう。人生には順調なときも逆境のときもあるが、私たちの人生全体は常に恵みの時代なのだ。どんなときにも神のご好意を受けている、そのことを覚えよう。
64節。ザカリアは主の御言葉への不信仰によって口が利けなくなったが、主の御言葉に従順して「ヨハネ」と名付けることで口が開き、神への賛美がほとばしった。私たちの口は御言葉に従順するため、神を賛美するために使うものなのだ。ザカリアはハレルヤと言いたくてもこの10か月間言えなかった。感謝と賛美を口で行玄できない!これはつらいこと。それで、たまりにたまった賛美がダムの放水のようにどっとザカリアから出てきた。私たちは自分の口を何のために使っているか?泣き言を言ったり、不平不満を言ったりするのはもったいない。そんなことのために口があるのではない。ハレルヤと神を賛美するためにこそ、この口を用いる者となろう。アーメン。

65-66節。こうして人々は強い印象を受けた。ヨハネは誕生のときから、主の恵みの到来のしるしとなった。
67節。ザカリアは聖霊様で満たされて預言の賛美をささげた。聖霊充満になると神が強い促しをその人に与えて賛美や預言が口から出てくるのだ。68-79節はザカリアの預言。この預言は冒頭のほめたたえよ、をとって、ラテン語でベネディクトゥスと呼ばれている。68-75節までがキリストについての預言で、76-79節までがバプテスマのヨハネについての預言。この預言全体が救いを歌っている。その救いは、全面的に主が与えてくださったものだ。
68-70節。解放と書いてある。人間はとらわれているのだ。人間は罪にとらわれ、世にとらわれ、悪魔にとらわれている。主は私たちがとらわれている状態から解放して、自由にしてくださる。その手段はダビデの家から起こされた救いの角によってだ。角というのは力や権威を指している。ダビデの家から出たキリストは私たちを救う力をお持ちの方、権威をお持ちのお方だ。救いの力を持つキリストは突然すいせいのごとく現れたのではなく、昔から預言者たちが主からの預言の御言葉で語っていた。旧約聖書を見れば、映画の予告編のように、キリストによる救いが予告されている。このように、救いの預言も救いをもたらすキリストも主が与えてくださった。
71節。この敵というのは政治的な敵のことではない。まず、悪魔のことだ。さらには、「すべてわれらを憎む者」とある通り、悪魔の配下、堕落した世などを指している。ヘブライ語でサタンには敵という意味がある。サタンは私たちを憎み、敵対し、神に近づくのを妨げようとする。イエス・キリストはそんな敵の妨害から私たちを救い、神との交わりを持つことができるようにしてくださったのだ。イエス様による救いは神との交わりの回復をもたらすものだ。

72-75節。主は憐れみ深いお方であり、サタンが御自分の民を虐げるのを見過ごしにはなさらない。主は御自分の民との聖なる契約を覚えてくださる。聖なる契約というのは主がアブラハムと割礼によって結ばれた古い契約だ。古い契約はキリストを送るきっかけとなった。しかし、私たちにとって主との契約といえば、聖餐式で主の御体と血潮にあずかることによる新しい契約だ。この新しい契約は救いの手段だ。御体にある永遠の命と血潮にある罪の赦しと清めが、敵の手からの救いと主との親密な交わりをもたらす。それで、もはや敵を恐れなくてすむ。主に仕えることができる。しかも一時的にではなく、一生涯、主に仕え、主の御前で信仰をもって正しく歩むことができる。悪魔の妨害によって、神との交わりを持つのが難しく感じることがあるだろうか?忙しさ、体調不良、趣味活動、思い煩い、そういうものに心がとらわれて、なかなか祈りにとりかかれない。なかなか神に喜ばれることができないと感じることはあるだろうか?ひと言でもいいので、イエス様の御名を呼んで、血潮の恵みにあずかるようにしよう。そうすれば妨害を退けることができる。

76-77節。主に先立っていくというのは、マラキ3:23の預言者エリヤの再来としての働き。その道を整えというのは、イザヤ40:3で預言されている荒れ野で叫ぶ声だ。それで、ヨハネはイエス様がキリストとして活動する前に、その道を整える働きとして荒れ野で悔い改めを説いた。バプテスマのヨハネが説いた悔い改めは、厳しいメッセージではあったが、罪に定めることが目的ではない。罪に定めようとするのは敵である悪魔の目的。悔い改めを促すのは、罪の赦しによる救いが目的だ。悔い改めは、悔い改めれば、罪が赦され、救われるという知識が前提としてある。悔い改めというのはみじめな思いをするものではない。確かに悔い改めは、心が痛むものだが、懲罰的に心を痛めることが目的ではなく、赦されて心が解放されるためだ。水のバプテスマは悔い改めたことによって、罪が洗い清められたしるしとして受けるものだ。悔い改めは嫌なものではなく、解放のためだと覚えよう。
78-79節。人々は暗闇と死の陰に座していた。つまり、悪魔に支配され、真理が全く見えず、罪による死が刻一刻と迫る状況にあった。神はそのような状況にあった私たちを憐れんでくださり、あけぼのの光としてイエス・キリストの福音を私たちに与えてくださったのだ。福音の光によって私たちは平和の道に導かれる。ここでいう平和というのは、神との関係の回復によって与えられるもの。パウロ書簡では恵みと平和の挨拶が毎回出てくる。ヨハネの名前の意味は主の恵みだ。主の恵みがあるので、悔い改めれば、罪が赦され、平和が得られるのだ。その流れを見ることができる。

80節。バプテスマのヨハネは両親のいたユダヤの山里ではなく、人々の前に現れて罪の赦しを得させる悔い改めを説くようになる前まで、荒れ野にいた。
両親のザカリアとエリサベトは高齢だったので、ヨハネが大人になる前に亡くなったのだろう。そこで、幼かったバプテスマのヨハネは、エッセネ派の人々に引き取られて育てられたと考えられる。エッセネ派というのは世の中から隔絶された場所で独自の共同体をつくり、自給自足の生活をしていた敬虔な人々だ。彼らは孤児を引き取って育てることもあった。そこで、バプテスマのヨハネは御言葉の学びと敬虔な生活することによって、主の預言者として用いられる上で備えられていったのだ。ヨハネは両親の顔を覚えていなかったかもしれないが、立派に育った。主が父親として育ててくださったのだ。詩編68:6。もしかしたらあなたは両親から十分に育ててもらうことがなかったかもしれない。あるいは、自分が初代のクリスチャンなので、両親があなたに信仰教育をすることがなかったかもしれない。しかし、それを残念に思う必要はない。あなたには主が父親として共におられ、母なる共同体である教会もあり、ほかのクリスチャンたちからの助けを受けることもできる。今までもそうだったし、これからもそうだろう。ハレルヤ。あなたもヨハネのように立派な信仰者になり、与えられている召命を全うすることができる。

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