目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ[ルカ12:35-48]

ルカによる福音書
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目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ[ルカ12:35-48]

目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ[ルカ12:35-48]

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【ノート】
イエス様は経済的な事柄について思い悩むなと言われた。未来のことがわからないから、人は思い悩む。未来のことは神が知っておられる。ただ、神の国を求めればすべてのものは神から与えられる。私たちはただ神の国を求めて、未来のことは神にゆだねれば良いのだ。神がすべてを満たしてくださる。

そして、未来のことについては、明日の自分の経済状況よりもすばらしい、希望に満ちた展望がある。確実に起こるすばらしい約束が与えられている。それは、イエス・キリストの再臨だ。私たちの過去を見れば、キリストの十字架が見える。現在においては、生きているのはもはや私ではなくキリストである。未来を見れば、キリストの再臨が見える。これがクリスチャンの時間であり、永遠の運命だ。クリスチャンは永遠の時間のすべてに渡ってキリストによる救いを受けている。イエス・キリストはクリスチャンの希望であるキリストの再臨をどのように待ち望むべきかを説かれる。これは神の国を求めるとはどういうことなのかの具体例の一つだ。この教えは群衆にではなく、イエス様に信じて従う弟子たち、つまりクリスチャンに語られた内容だ。もちろん、クリスチャンだからといって私たち全員が生きたままキリストの再臨に立ち会うことになるかはわからない。しかし、そうでなくても、どの道肉体的な死を経験すれば、復活した後に再臨のキリストと出会うことになる。死についても、再臨を待ち望む心構えはほぼそのままあてはめることができる。だから、無関係なクリスチャンは誰もいない。

35節。二つの命令がなされている。腰に帯を締めると書いてある。ユダヤ人は長く垂れた服を着ていたので、そのままでは動くのに妨げになった。そのままでは身動きがとれない。走れない。だから、仕事をしようとする人は、動きやすくするために衣服を帯で腰にくくった。だから、これはいつでも神と人とに仕える奉仕者として俊敏に動けるように備えていなさいということ。自分が奉仕をする機会をめざとく見逃さないようにするということだ。神の御心がなされるために、誰かが何かをする必要があるとする。腰に帯びを締めている人は、その誰かの最有力候補が牧師か自分以外の好都合な誰かとは考えない。誰かは常に私だと考える。自分が真っ先に動くようにする。イエス様が真っ先に動いて弟子たちの足を洗ったように。

ともし火をともしていなさいと書いてある。ともし火は、夜に活動することができるようにするために必要だ。当時のともし火は今の蛍光灯と違う。メンテナンスが必要だ。芯をよく切り揃え、油を補充しておかないと消えてしまう。これは朝も夜も、いつでも主の御言葉に対する信仰の炎を燃やし続けていなさいということ。信仰を燃やし続けるためには灯心を切りそろえる。これは御言葉に基づいて悔い改めて、日々自分自身を主に訓練していただくということ。油を補充するとは、聖霊様による交わりだ。そのようにして、24時間365日信仰者として歩み続ける。途中で燃え尽きてしまわないようにし、教会でだけ敬虔そうな顔をし、人が見ていないところでは神を知らない人のようにふるまう二面性がないようにするのだ。イエス様の再臨に備えて信仰の炎を燃やし続ける者となろう。

36節。当時の婚宴は一週間ほど続いたようで、いつ主人が帰ってくるかわからなかった。ここでいう主人とはイエス様のことだ。イエス様は御自分の再臨のことを婚宴から帰ってくる主人になぞらえた。そして、イエス様は再臨を結婚とからめている。教会はキリストの花嫁の霊性をもって、キリストを愛して、その帰りを今か今かと心待ちにするということだ。キリストは私たちを愛して、私たちの罪のために十字架で死んでくださった。花嫁なる教会はその愛に打たれてキリストのとりことなって、ひたすらキリストを愛して待ち望むのだ。
人生観が人の生き方を変える。人生とは何かというコンセプトに則って人は生きる。ある人は人生はレースだと思う。その人は他人に勝つことに情熱を燃やすだろう。ある人は人生とは舞台だと思う。その人の生き方は演技であって、本物ではない。ある人は人生とは無意味だと思う。その人は無気力に生きる。実際のところ、人生とは、花嫁として愛する主人の帰りを心待ちにして備えるものなのだ。私たちは主人が帰ってきたらすぐに戸を開けられるようにしなければならない。これは、キリストがいつ再臨しても良いように意識してスタンバイしていなさいということ。そして、このように再臨をスタンバイするならば、私たちは世のものに執着して思い悩むことからも解放される。あるとき突然キリストが来られることを待ち望んでいるのだ。それでは、キリストが来られたら、世のものがどれだけ豊かにあろうが、少ししかなかろうが、それは何の関係があるのか?それらは何の意味もない。世の空しいものは全部置いて、世の価値あるものがガラクタに思えるくらいすばらしい場所に私たちは飛び立つことになる。そうであれば、キリストの再臨を熱望するクリスチャンがどうして世のものに執着したり、思い悩んだりできるか?できない!すぐに戸を開けられるように、キリストが来られるのをスタンバイする花嫁となろう。正しい人生観を持って、物事の価値や優先順位を見誤らないようにしよう。

正しい人生観を持って備えている人はどのようにイエス様の再臨を迎えることができるのか?37節。目を覚ましているというのは、再臨を意識して霊的に目覚めているということ。そういう僕に対しては、なんとイエス様御自身がその人のために給仕をしてくださる。想像してみてほしい。世の終わりの小羊の婚宴で、イエス様御自身があなたのテーブルに料理を運び、あなたの杯にぶどう汁をついでくださる。聖餐と愛餐はその予行演習だ。それらの食事にもイエス様の愛が啓示されていて、大いに感動を与える。小羊の婚宴はなおさらのことだ。子供のころ、遠足に行くとなると楽しみで仕方なく、その日が来るのを数えたり、そのことを考えるだけで心躍る思いをしたりしたことがあるだろうか?そういう思いでイエス様の愛をあふれんばかりに受けられるその食卓につくことを心待ちにして、目覚めて備える者となろう。

それにしても、なぜそこまでずっと目覚めてスタンバイしていなければならないのか?イエス様が来られる時だけ目覚めていれば良いのではないか?そうはいかない。38節。イスラエルでは夜を見張りの交替する時刻にあわせて4つの時刻に区分した。第一の時刻は午後6-9時。第二の時刻は午後9時から12時。第三の時刻は午前0時から3時。第四の時刻は午前3時から6時だ。士師の時代にはギデオンがちょうどその交替の時刻に合わせて夜襲をしかけて敵を狼狽させたことがある。ここで真夜中と訳されているのは、第二の時刻の午後9時から12時で、夜明けと訳されているのは、午前0時から3時をさす。夜更かしの人はいるが、普通に健全な生活していてこれらの時刻にずっと起きていられる人はほとんどいないだろう。このことから、イエス様の再臨は意図的に見張っていなければ備えられないということがわかる。そして、イエス様は泥棒のように来る。39-40節。怪盗ルパンじゃあるまいし、わざわざ予告状を出して盗みに入ることを宣言する泥棒はいない。現実の世界で泥棒が盗みに入るときは、人々が寝静まって無防備のときに予告なしに突然来るものだ。そのように、再臨は不意打ちなのだ。イエス様がそうするのは、人間の怠惰な性質をご存知だからだ。もしあらかじめ何年何月に再臨すると予告しておいたら、その直前まで備えずに世のものに執着した自分勝手な生き方をするかもしれない。テスト前に一夜漬けをしてほかの日はずっとあそびほうけている学生のようにだ。それでは人生の大半を世のことに使って無駄にしてしまう。イエス様としてはずっと目覚めて神の国だけを求め続ける生活をしてほしい。だから、あえていつかをわからなくし、いつ主が来られても良いように霊的に目覚めて備えさせようとしたのだ。実際に過去にリバイバルが起きたグループでは、主の再臨を熱望する信仰も熱かった。日本でもホーリネスのリバイバルのとき再臨信仰が熱かった。

主は思いがけないときに来られる。今日主が来られると思っているか?全然思っていないなら今日は有力な候補日だ。イエス様は思いがけないときに来るのだから。逆にある人が何年何月何日に来るとかこの特定の時期に来るというときは、その時期にだけはまず来ないだろう。誰かが予想しているということは、思いがけないときではないからだ。今日が最後かもしれない。これがキリストの福音を伝える最後のチャンスかもしれない。愛を実践する最後のチャンスかもしれない。和解するための最後のチャンスかもしれない。感謝の言葉を言う最後のチャンスかもしれない。教会での最後の礼拝かもしれない。あるいは、まだ信じていない人にとってはキリストを受け入れる最後のチャンスかもしれない。そう思うと、私たちはチャンスを生かし、時間を大事にし、一つ一つの出来事を大事にするようになる。力を尽くして生きるようになる。いつイエス様が来られても良いように生きる私たちになろう。

41-42節。イエス様は弟子たちに語られたが、ペトロは自分たちだけかみんなのためか知りたかった。どちらだろうか?イエス様は直接は答えていない。ただ、忠実で賢い管理人は誰だろうかと逆に疑問を投げかけている。忠実で賢い管理人は誰か?それは私たちでなければならない。つまり、イエス様は弟子たちだけに語ったのではなく、すべての読者に対して、この御言葉に応答して、忠実で賢い管理人となるように招いておられるのだ。イエス様はそのように仕える管理人となるのは誰かと、今も探しておられる。「私がそうなります」と応答する者となろう。ここに書いてある管理人というのは、主人の奴隷ではあるが、ほかの召し使いたちを統率する強力な権限を与えられた存在だ。クリスチャンはまさにそうなのだ。クリスチャンはキリストの僕であると同時に、強力な権限を付与されて、主が大切にしておられる人々や賜物をまかされている。特に教会の内外で指導的な地位にある人々は管理人として主から信頼してまかされているということを心得なければならない。

忠実な賢い管理人の特徴は何か?43-44節。言われた通りにしていることだ。つまり、自分なりの考えで働くのではなく、聖書の御言葉に基づいて、主から言われた通りに忠実に働くということだ。この管理人にとって、主人がいつ帰って来られても関係ない。なぜなら、その人はいつ主人が帰ってきてもいいように、いつも忠実に言われた通りにしているからだ。これはいつキリストの再臨があっても御言葉の通りに仕えているところしか見られることはないくらいに忠実に仕えているということ。折が良いときも悪い時も、いつも神とまかされている人々を愛し、賜物を用いて奉仕をささげ続ける人だ。主人は全財産を管理させるとある。エジプトで奴隷だったヨセフが侍従長のポティファルのもとにいたとき、全財産の管理をまかされたように、主人が管理人に全幅の信頼を置く時、こういうことはある。一貫性のある信仰の歩みをした人は、主なる神様からご褒美として、御国に置いて栄誉ある奉仕をまかせていただけるということだ。御言葉の通りに忠実に仕え続ける賢い管理人になろう。

それでは、不忠実で愚かな管理人の特徴は何か?45-46節。彼は大きく二つの過ちを犯した。第一に、主人の帰りが遅くなると思った。不忠実な人は、目を覚ましていなさいと命じられているのに、キリストの再臨は、まだまだ先だろう。大患難時代になってからだろう。いや、七年間の患難期の後だろう。そういうふうにまだまだ先だと思うのだ。サタンは言う。まだ十分時間があると。そういう嘘に耳を貸してはならない。そうでないと、気づいたときにはもう手遅れになってしまう。今主が来られても良いように今すべきことを今忠実に行う者となろう。

第二に、主人からまかされたもので好き放題しても良いと思った。不忠実な人は、主なる神様のものの管理をまかされているのであって、自分のものではないのに、自分のものであるかのように錯覚して好き放題にしてしまうのだ。私たちの持っているものはすべて預かり物だ。まかされている人々も、与えられている能力も、財産もそうだ。自分勝手に処分して良いものではない。自分が持っているものの所有権は神にあるということを自覚して、丁重に管理する者となろう。
47-48節。与えられている知識と特権には責任が伴うということ。多くの知識を持つ者には、罪はより一層重いものとなる。多くの機会が与えられている者の不従順は、一層とがめられるべきものとなる。私たちは今日、キリストの再臨を備える心構えについての知識を得た。そして、私たちには各々多くのものを管理するようにまかされている。知識と特権が与えられている。その責任を自覚しよう。主は私たちがその知識と特権に応じて、生きることを求められる。主の求めに応じて、花嫁として愛する主人の帰りを心待ちにして備えよう。

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