義とされること、神の国に入ること[ルカ18:9-17]

ルカによる福音書
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恵みを受ける人、受けられない人の特徴は何でしょうか?

義とされること、神の国に入ること[ルカ18:9-17]


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【ノート】
私たちは、恵みによって救われる。つまり、恵みによって、義とされて神に受け入れられ、恵みによって神の国に入れる。恵みによって永遠の命が得られる。行いや能力によってではない。そのことを今回の二つのエピソードを通して深く知ることができる。この後の金持ちの議員の話も恵みによる救いに関する話だが、長いので次回に回す。恵みは、神からの一方的な愛のご好意のことだ。では、神が一方的に私たちを愛してくださるのであれば、すべての人が同じように恵みを受けられるのか?そうではない。私たちの態度いかんによっては、せっかくの神の恵みを自ら拒否してしまうこともありうる。そんなことがあってはならない。神の恵みは、私たちが一番無駄にしてはならない!恵みについて、使徒パウロが最もよく語っているが、パウロはⅡコリント6:1でなんと語っているか?「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」ごはんを残したら、私たちはもったいないと思う。お金をどうしようもないことに散財したら、私たちはもったいないと思う。「なんでこんなに無駄にしてしまったんだ」と後悔する。それよりも何よりももっと無駄にしてはならないのが、恵みだ。
今回の二つの話を通して、人が神の恵みを受ける妨げは何か?神の恵みを無駄にせず、神の恵みをそのまま受けるにはどのような態度をとれば良いのか学ぼう。

まず、一つ目の話は、ファリサイ派の人と徴税人のたとえだ。ここでは救いを「義とされる」こととして語っている。9-14節。10節では、二人の人が祈るために神殿に上ったと書いてある。イスラエルでは敬虔な人は、一日三度、定められた時間に祈りのときを守っていた。朝の9時、正午、午後3時だ。神殿でささげる祈りは特に効果があると考えられていたので、祈りの時間になる大勢の人が祈るために神殿の庭につめかけた。これは使徒たちも守っていた習慣だ。使徒3:1。イエス様はこのような祈りにでかけた二人の人のことを語っている。この二人は、その後の祈りの内容や神からの取り扱いは全く異なるが、まずは私たちは一日に何度も定期的に祈る時間を持つということを見習わなければならないだろう。そもそも祈らなければ何も始まらない。前回やもめと不正な裁判官の話で、昼も夜も叫び求めること、あわせて食事のたびに教会の祝福のために祈ることの必要性を説いた。まずは、それを実践しなければならない。これでもかと祈るのだ。神に近づくのだ。すでに実践しつつあるだろう。祈りのボルテージが上がっているだろう。それであればさらに上げていこう。リバイバルを起こせるボルテージまで上げていこう。まず祈り始める。祈りの態度、神に近づく態度はその後の話だ。

では、私たちが祈る者となったら、何に注意しなければならないのか?たとえには対照的な登場人物が二人出てくる。一人はファリサイ派の人だ。私たちは決して、このファリサイ派の人のような落とし穴にはまらないようにしなければならない。このファリサイ派の人は神に祈ったのではない。自分自身に祈った。神に焦点を当てるのではなく、自分自信の敬虔さ、すばらしいに焦点をあてている。神を賛美するのではなく、自分を賛美している。ファリサイ派の人が神に対して自慢している内容は、3つだ。いずれもそれ自体良いことだ。もし高慢になって自分を賛美する材料に使わなければ良いことだ。
第一に、目立つ悪を何も行わなかった。ファリサイ派の人は奪い取る者、不正な者、姦通する者、徴税人のような者ではなかった。つまり、暴力に頼る者ではなく、清廉潔白であり、不倫や婚前交渉といったあからさまな性的な罪も犯さず、徴税人のように貪欲でも売国奴でもなかったということ。これらの罪がどれほど民の中にあふれていたとしても、決して流されることなく、理性と神の御言葉によって生活しているということ。これらすべてについて当然私たちにもあてはまらなければならない。過去に過ちがあったとしても聖なる者として歩もう。

第二に、週に二度断食した。律法で絶対に守らなければならないものとして規定した断食は、第七の月の十日の贖罪の日だけだ。今の暦では年によって日にちが変わるが、9月末から10月半ばにあたる。しかし、もっと功徳を積みたいと思う人は、月曜日と木曜日にも断食した。月曜日には、彼らの伝承によると、モーセが神の指によって書かれた二枚の石の板を受け取った日であり、そのことを記念して断食した。木曜日には、モーセがイスラエルの民が金の子牛のまわりを踊っているのを見て二枚の石の板を投げて砕いたことを記念して断食した。この断食の日にはファリサイ派の人々は午後3時まで何も食べなかった。午後3時まで、彼らは神殿の片隅や部屋や庭の中でとどまることを習慣とした。それは、いつでも生け贄をささげるのをすべて助けることができ、また、公の祈りにすべて参加できるようにするためだった。その時間、彼らは一部分を個人の祈りに、一部分を聖書の探究に使った。聖書の探究では、律法と預言者とを読み、それについて瞑想するのだった。これは何ともすばらしい習慣だ。初期のメソジストは週に二度の断食を実践し、浮いた食費で貧しい人々を援助していた。

第三に、全収入の十分の一をささげた。律法では穀物の十分の一をささげ、それをもってレビ人が祭司の部族としての務めを果たせるように定められていた。あえて「全収入」というのは、律法ではささげる義務のないハッカ、イノンド、クミンといった薬味までささげるほどの徹底ぶりだからだ。しかも、厳しいファリサイ派の人々は、神殿に十分の一をささげることに加えて、さらに貧しい人の施しのために十分の一をささげた。しかもそれを継続し、徹底した。神に属するものを全部お返しして、少しも自分たちのものにしないようにするためだ。
これらのことをすること自体には何ら悪はなく、むしろ私たちは見習わなければならないと思うだろう。問題は、これらのことをして神に近づこうとすることによって、自分が誰よりも正しい者だと確信して、高慢になってしまうことだ。祈りの出だしが、自分が他の人たちのようでないことに対する感謝だ。これは神の御前ですら、自分がナンバーワンだと自負しているということだ。イエス様がたとえに出されたファリサイ派の人は、決して空想でも誇張でもない。記録が残っている。ヨカイの子、ラビ・シメオンという人はこう言った。「世界に義人がたった二人しかいないとすれば、その二人とは私と私の息子のことだ。もし一人しかいないとすれば、その一人とは私のことだ!」

これはある意味当然の結果だ。ファリサイ派の人々は自分の義によって神に近づくのだから、自分の正しさを確信できるまで律法の実践を追求しようとする。ある程度厳格に律法を守れるようになると、手の施しようのないほど高慢な者となってしまう。神は高慢な者をどう扱うか?ヤコブ4:6。神は謙遜な者に恵みを与える。恵みは上から下に下にと流れる。高ぶる者には受け取れず、へりくだる者の上に注がれる。二人目の登場人物の徴税人がそうだった。彼は目をあげることもできなかった。胸を打つ様は砕かれた心を現している。そして、「罪人の私を憐れんでください」と罪人であることを認めて告白した。この人が神の恵みによって義とされた。人は行いによって義とされず、罪と地獄から救われない。神から恵みによって与えられる義を受け取らなければならない。神の義とは、「義でない者を義に造り変える神の御業」だ。義は行いではなく、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じる者に恵みで与えられる。私たちは恵みにより、信仰によって、ただイエス様の十字架で流された血潮によって神に近づくことができるのだ。

人々の目には、明らかにファリサイ派の人が神に受け入れられ、徴税人は地獄行きであって絶対に神に受け入れられると思ったことだろう。しかし、実際には義とされたのは徴税人であり、正しいとうぬぼれて人を見下していたファリサイ派の人は義とされなかった。神の裁定と人々の見方は違っていた。それは、多くの人が高慢という罪をささいなものとして見積もってしまっているからだ。実際には、高慢は最悪の罪だ。高慢な者は祈ることができない。恵みを求めることもできない。高慢な者は恵みを拒絶する。恵みなど、誰よりも正しく生きている自分のプライドが許さない。神もまた、高慢な者にだけは恵みを注ぐことができない。高慢の者に恵みを与えたらさらに高ぶってしまうからだ。盗み、姦淫、貪欲といった罪は邪悪であり目立つが、高慢に比べればまだましだ。どんな罪を犯す人でも、その罪を認めて悔い改めることはできる。しかし、高慢な人は悔い改めることができない。神の恵みを台無しにする最たるもの、それが高慢だ。もしかしたら私たちも高慢を大したことのない罪だと思って甘く見ているところがあるかもしれない。そうすると、いつかはファリサイ派の人と同じ落とし穴にはまることになりかねない。高慢を警戒し、決して自分の正しさによって神に近づくことはできないと心得よう。他人を優れた者と考える者となろう。フィリピ2:3-4。

もし罪人がへりくだって神に祈ったら、他の人たちと自分を比べて悦にひたるのではなく、聖なる神の御前に進み出る。聖なる神の御前に出れば自分がいかに罪深い者であるかが示される。どこかの悪人ではなく、自分も神の恵みなしには義とされないことを知る。そして、神の恵みは、イエス・キリストを通して現されている。だから、へりくだった人ほどすぐにイエス・キリストを信じる。また、イエス・キリストを信じると、神がいかに人間一人一人を愛しておられるかを知る。それまで自分がそれまで見下していた人々が、実は神の愛の対象だということを知る。へりくだって、人々を敬い、大切にするようになったはずだ。私たちはへりくだって神に近づいているか?へりくだって、神の御前に進み出よう。

二つ目の話は乳飲み子の祝福だ。15-17節。人々が乳飲み子までも連れてきたので、弟子たちは妨害してしまった。乳飲み子なんて連れてこられたら、イエス様も困るでしょう、嫌でしょうと勝手に思ったのだ。しかし、イエス様は子供が大好きだった。クリスチャンが良かれと思って恵みを妨害してしまうことがある。ある種の人々を教会に歓迎しないのだ。私たちは恵みの通り良き管として用いられることができるように。

イエス様がここで「神の国はこのような者たちのもの」と言われた対象は、乳飲み子だ。原語でも「生まれたばかりの赤ん坊」を意味する言葉が使われている。乳飲み子は、善行を積んだことも修行をしたことも宗教的な儀式に自らの意思で参加したこともない。当然、週に二度断食したり、十分の一をささげたりしない。このことから、神の国に入る上で良い行いは何一つ必要なく、ただ全面的に神の恵みによって入るのだとわかる。私たちはただ神の愛を受けていればよい。しかし、何もしないことが優れていて神に喜ばれるということではもちろんない。イエス様が乳飲み子をさして「神の国はこのような者たちのもの」と言われたのは、乳飲み子には乳飲み子特有の優れた点があるが、大人になるにつれてそれらの優れた点を失ってしまうからだ。

それでは、乳飲み子の優れた点は何か?第一に、親に全面的に依存する。親の助けを求めて恥も外聞もなく大声で泣く。それこそ、必要を感じたら一切親に遠慮することなく昼も夜も泣き叫ぶ。泣くが乳飲み子ができる唯一のことであり、泣いて求めたら親が自分に必要なものを与えてくれると信じているのだ。私たちの祈りはこの乳飲み子が泣くようなものであるべきだ。
大人になるにつれて親から自立するのは良いが、同時にプライドが芽生えてしまい、永遠につながっていなければならない神様に助けを求めることもできなくなる。私たちも自分の力や分別に依り頼むことなく、プライド捨てて父なる神に信頼して叫び求めよう。
人間は罪深いが、普通の親であれば、子供を愛しているので、大変であっても子供を助けて養う。ましてや、父なる神様は私たちのことを無限の愛で愛しておられるので、叫び求める私たちの声を聞いてくださる。

第二に、無垢だ。悪魔の嘘やこの世の汚れに染まっていない。御言葉が示されれば、御言葉を純粋に単純に信じて自分のものにできる。しかし、大人になるにつれて持つようになる嘘の情報、罪による汚れ、自分はよく知っているという高慢さ、薄っぺらい人生経験、先入観、固定観念などによってどんどん御言葉が実りにくくなる。石や茨やあざみが心の中にあふれてしまうのだ。いつまでも私私私の考えにとらわれるのか?もうたくさんではないか?それらが御言葉の妨げになっているのなら、全く価値のないものではないか?創造主を信じたのにいつまで非科学的な進化論を信じるのか?キリストを信じたのにいつまで天国と地獄を疑うのか?キリストの再臨を待っているのにいつまで世の空しいものにとらわれるのか?それらは神から来たものではない。ただ聖書の御言葉は100%神から来た神の御言葉だ。嘘偽りの知識を捨てて、世から自分を清めて、素直に御言葉だけを絶対的に信じる無垢な者となろう。そうすれば、イエス様が子供たちを触れて祝福したように、私たちも大いに祝福を受ける。Ⅰペトロ2:1-2。

神の恵みを無駄にしてはならない。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者に恵みをお与えになる。ただ主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって、義とされ、神に近づき、祝福をうけ、成長するになろう。

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