神と共に働く

福音&主題メッセージ
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神と共に働く人にこそ、神は力強く臨在を表してくださいます。

神と共に働く


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【ノート】
神は私たちと共にいてくださる。神と共にある時間にこそ安らぎがある。平安がある。神は遠く離れてはおられない。イエス様の十字架によって私たちは神との関係を回復した。聖霊様は永遠に私たちと共にいてくださる。私たちを離れず置き去りにはしない。神は私たちと共にいてくださる。神に近づく方法として、前回、神との時間を持つということや罪に徹底的に抵抗するということを学んだ。

それに加えて、もう一つ重要なことがある。神がお与えになるミッションを果たすということだ。マタイ28:19-20。イエス様は特にどのような人と共にいてくださるか?どのような人に対して、臨在して力づけてくださるか?大宣教命令を実行する人だ。イエス様に従って行くべき場所に行く人。すべての民を弟子にする人。バプテスマを授ける人。命じておいたことを守るように教える人。そういう人々と共にイエス様はいてくださり、御自身の権能を現してくださる。助けてくださる。導いてくださる。宣教に必要な力を与えてくださる。しるしや不思議な業を行ってくださる。

大宣教命令はイエス様が天に昇られる直前に語られたが、弟子たちを派遣するというのは、もともと最終的なゴールだったことがマルコ3:14-15でわかる。ここでイエス様が十二弟子を選んだ三つの目的がわかる。まずそばに置くため。次に権能を持たせるため。最後に派遣して宣教させるためだ。私たちも同じことだ。まずイエス様のそばに行く。そこで救われ、安らぎを得、癒され、自由になる。そして、権能を持って遣わされる。遣わされるときすら、イエス様は共におられて、その宣教の中で共に働いてくださる。

ヨハネ20:21-22。私たちは父なる神様がイエス様を世にお遣わしになったように、世に遣わされているイエス様の大使だ。私たちには果たすべき使命がある。伝道や奉仕を通して人々をイエス様に勝ち取っていくのだ。それでは、仮に私たちがイエス様を信じはしたけども、イエス様からのミッションを全然果たそうとしていなかったら、イエス様が臨在して私たちを力づける意味があるか?全くない。ミッションを果たさないならば、私たちは最低限天国に入れるだけの信仰を維持して生きればよいので、聖霊様は慰めや励ましをしてくださることはあっても、特別に力づけても仕方ない。ミッションを果たさない人を特別に力づけるのは、家一軒の電力供給のために火力発電所を建てるようなものだ。川崎の東扇島火力発電所は70万世帯分の電力を発電している。それをたった家一軒のために建てる。無駄すぎる!神の力は火力発電所どころではないから、何もしない人を力づけるのはどれだけ無駄なことかわかる。神は無駄なことはなさらない。

福音書や使徒言行録では、なぜ聖霊様が力強く働かれたのか?使徒たちが福音を宣べ伝えていたからだ。宣教をするときにこそ、聖霊様は働かれる。使徒言行録の中でも、その半分以上は、使徒パウロの活動に焦点をあてている。パウロがほかの誰よりも活発に活動したからだ。使徒パウロは自分のことをいろいろな言い方しているが、ある箇所でこう言っている。Ⅱコリント6:1。「神の協力者」は新改訳第3版では「神と共に働く者」となっている。私たちもこれになろう。「神と共に働く者」となろう。
神と共に働く者に対してはどのような励ましや約束がなされているか?聖書を通して確認しよう。大きく3つの点をあげる。

第一に、神と共に働くと充実する。神と共に働くなら、信仰による新しい挑戦はつきない。信仰の先人たちを考えてみよう。主から呼ばれたらアブラハムは見たことのない約束の地に向けて旅立った。ヨシュアは新しい地を占領しようとしたし、ヤベツは領土の拡大を求めて聞き入れられた。パウロはいつも誰も宣教したことのない場所での宣教を望んだ。神と共に働く者は主にあって新しい地を勝ち取るのだ。主が望むなら何でもするし、何でもできるという心構えを持つので、自分のいる場所で誰かが必要なとき、何かをする必要があるとき、率先して手を挙げることができる。フィリピ4:13。
礼拝で楽器の演奏が必要なら、やったことがなくてもやってみる。人々が救われることを主が望んでおられるので、それまで人と話すことが得意ではなかったとしても伝道してみる。福音を伝えてみる。聖書の学びを導いたことが一度もなかったとしても、主が望んでおられるので、教えてみる。とにかくやってみる。預言や異言に触れることが今までなかったとしても、偏見を捨てて、聖書の御言葉通りに実践してみる。口を開いて語ってみる。やったことがないからやらないとかできないではなく、主が望んでおられるのだからやるしできるだ。その他、仕事についてもプライベートのいろいろな生活についても、私たちは神と共に働く者として、新しい地を切り開いていく証しを立てることができる。
多くの人にとって、子供のころは、体感する時の流れが遅く感じるが、大人になるにつれてだんだん時の流れをはやく感じる。それは、子供にとってはすべてが新しい経験だが、大人になるにつれて、新鮮なことが少なくなり、多くのことがルーチンワークとなってしまうからだ。特に神を知らない人の人生というのは、新鮮さが欠けている。コレヘトの言葉1:9-10。神を知らない人生には新しいものは何もないと断言している。その人生についてソロモンはなんと評価しているかというと、「なんというむなしさ、なんというむなしさ、すべては空しい」だ。人生はどんどん空しくなる。しかし、主にあって、すべては新鮮であり、信仰による新しい挑戦の連続だ。だから、充実する。だから、楽しい。だから、歳をとっても若い。
そして、私たちが神と共に働くときにものすごく充実するもう一つの理由は、何一つ無駄にならないことだ。Ⅰコリント15:58。決して無駄にならないと書いてある。目に見えた成果がないときはある。そういうときですら、私たちは永遠の報いを積み上げている。やがて、すべては報われる。

第二に、失敗してもよい。大切なのは最初の一歩を踏み出して始めることであり、実を結ぶまで継続することだ。そのために、山ほど失敗してもよい。私たちは、それがスポーツであれ楽器の演奏であれ勉強であれ仕事であれコミュニケーションであれ、何かを鍛え上げるためには、よくできるようにするためには、何事も訓練が必要であり、繰り返し挑むことが必要だ。最初から最後までずっとうまくいくというわけにはいかない。失敗はつきものだ。一流のバスケットボール選手だってフリーソローをはずすし、一流のサッカー選手だってPKをはずすことはある。私たちが、神様のために何か新しいことを始めるときも、最初からうまくいかなくていい、失敗したっていい、失敗を繰り返して試行錯誤する中で、私たちは訓練され、熟練されたものとなっていくのだ。家族や友人に伝道するとき、できれば全員がすぐにイエス様を信じてほしい。でも、一見、全然うまくいかないことはある。相手が全く聞いてくれないことだってある。誰だってそういうことはある。イエス様ですらそういうことはあった。じゃあそれは最悪なことなのか?そうとは限らない。
まずストレートに福音を伝えたのなら、伝えたことに意義がある。預言者としての責任はひとまず伝えることであって、伝えたことを受け入れるかどうかは相手の責任だ。でも、できるだけたくさんの人に救われてほしい。そうだとして、相手が聞いてくれなかったことも、次回に活かせるだろう。相手の考えがわかった。次回また違った角度から語ることができる。相手が頑ななら次に話すときに向けて切実に祈ることができる。大事なのは一歩を踏み出したことだ。主に従順して一歩を踏み出したことを主は喜んでくださる。だから、主にあって真の意味での失敗は何もない。
では、真の意味での失敗とは何か?失敗を恐れて何もしないことだ。マタイ25:24-27。この僕はなぜ何もしなかったのか?主人のことが恐ろしくなったからだ。
でも、もし商売をすれば絶対に儲けられるという自信があれば商売をしたのではないか?そうしなかったのは、自信がなかったからだろう。失敗するかもしれないと思ったからだろう。失敗を恐れたのだ。失敗して主人から罰せられるのではないかと根拠なしに恐れたのだ。実際には、イエス様は私たちが一生懸命やって失敗したことに責任を問うような方ではない。イエス様は私たちと共に軛を負ってくださる方だ。失敗を恐れて何もしないことは最大の大失敗だ。私たちは、自分がミッションを果たすことについて、失敗を恐れないようにしよう。ただいたずらに手をこまねいてだけいるのはやめよう。私たちが何をすればよいのかはすでに御言葉で語られている。御言葉に主の御心を見出すことができる。ただ、その通りに行えばよいのだ。ディボーションをし、その通りにすれば良いのだ。
クリスチャンとしての信仰は、失敗しないことにではなく、絶対に折れない不屈の精神に現れる。箴言24:16。詩編37:24。ミカ7:8。失敗を恐れずに一歩を踏み出し、不屈の精神をもってやり抜く者となろう。

第三に、神と共に働く者には特別な祝福がある。具体的にどんな祝福があるかは、いろいろなことが言えるが、イエス様がヨハネによる福音書の17章で祈られた大祭司の祈りと呼ばれる箇所から採ろう。ヨハネ17:10-20。これはイエス様が十二弟子たちのために祈られた内容だ。イエス様はこんなに長い祈りを十二弟子のためにささげた。なぜか、十二弟子だけ特別だったのか?それは十二弟子がイエス様と共に働く者たちだったからだ。特別な働きには特別な祝福が伴う。では、この祈りはただ十二弟子のためだけであって、ほかの人々については意味のないことなのか?決してそうではない。その証拠に20節で「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします」と言っておられる。私たちがイエス様から遣わされてミッションを果たそうとする者であれば、ここに書いてある祝福は私たちのものでもあるのだ。いろいろな祝福が書かれているが3つだけ取り上げる。
まず衝撃を受けるのは、10節の「私は彼らによって栄光を受けました」と主が言われていることだ。これはペンテコステの前の十二弟子についてだ。福音書に出てくる十二弟子は、イエス様から叱られることばかりするイメージがある。信仰は薄い、人格的にも未熟、動機は不純、しかし、イエス様は彼らを通して栄光を受けられた。彼らが未熟なりにイエス様についていったことは、十分イエス様の栄光になったのだ。私のこの小さな働きでイエス様が栄光を受けられるだろうかと疑問に思う必要はない。信仰が薄く、人格的に未熟、心が定まらないところがあったとしても、華々しい活躍よりも至らない点が目立つものだとしても、イエス様に従ってしたことであれば、イエス様は栄光を受けられる。私の奉仕でイエス様は栄光を受けられる。

11節の「私たちのように、彼らも一つとなるため」。弟子たちはといえばいつも「誰が一番偉いか」と議論して一つとなれなかった。私たちのようにというのは、三位一体の御父、御子、御霊のように一つになるということだ。三位一体は三つでありながら一体なくらい、愛の交わりによって完全に一つとなっている。イエス様はてんでバラバラだった弟子たちがそうなるように祝福した。そして、事実そうなった。初代教会には完全といっていい愛の交わりが実践されて一つとなっていた。私たちも一つとなれる。もっと愛しあえる。支え合える。互いのために祈り合える。

12節の「御名によって彼らを守りました」。イエス様ご一向の宣教は、イエス様がすごいので、何の妨げもなく、順風満帆に進行していったように思える。十二弟子も、十字架の直前以外は、大きな揺さぶりを受けることがなかったように思える。しかし、それは実はイエス様がずっと保護し続けてくださっていたからだ。実際には戦いは常にあったが、ずっとイエス様が守ってくださっていたのだ。神と共に熱心に働く者ほど、激しい霊的戦いにさらされることになる。しかし、それと同時にイエス様の御守りも特別なものとなる。私たちは悪魔に負ける必要がない。イエス様への信仰を貫く限り、絶対に勝てる。今までイエス様は守ってくださった。神と共に働くとき、イエス様はますますしっかり守ってくださる。

神と共に働く者に、特にイエス様は御自身を現し、力づけ、祝福してくださる。神と共に働くことは私たちの人生を充実したものにする。そして、主にあって無駄なものはなく、失敗はない。主の恵みに感謝して、主が与えるミッションを喜んで果たしていく私たちになろう。

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