わたしの願いではなく、御心のままに[ルカ22:35-46]

ルカによる福音書
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御心を知り、確信に至り、覚悟を決めるために必要な祈りです。
それはあきらめの境地ではなく、絶対的な信頼と従順です。

わたしの願いではなく、御心のままに[ルカ22:35-46]


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【ノート】
35節。これから宣教旅行にでかけるとなったら、私たちは何が必要だと思うだろうか?肉的に考えるなら、宿泊費と食費分のお金が必要だとか、着替えの服が必要だとか、伝道するためのトラクトが必要だとか思うかもしれない。しかし、イエス様に弟子たちに「財布も袋も食糧も着替えも持っていくな」と言われた。何も持っていなかったらただひたすら神様に頼ることができるからだ。ただ弟子たちに権威を与えて遣わした。にもかかわらず、何も不足したものがなかった。すべての必要が満たされた。行く先々で超自然的な方法でお金が与えられ、寝床が与えられ、食べ物が与えられたのだ。誰が与えておられたのか?神様だ。イエス様は「働く者が報酬を受けるのは当然だ」と言われた。報酬は神様が与えてくださる。イエス様から権威を与えられて遣わされたら、必要なものが何もかも与えられるということ。イエス様が「行け」と御言葉を持って遣わされるなら、従順して行けば絶対にすべての必要が満たされるのだ。神様がその働きを保障してくださる。問題はただひとつ、イエス様から遣わされたのかどうかということ。もし弟子たちがイエス様に遣わされずに、自分たちだけで話し合って勝手に宣教旅行をし出したらすべてが満たされただろうか?何一つ満たされず、だれ一人救われなかったに違いない。
私たちがすることは全部、イエス様から遣わされていることだろうか、それとも、自分たちが勝手にやっていることだろうか?鍵は、祈りの中で聞いたか、御言葉に基づいているか、実を結んでいるかどうかにある。あるときには時宜に適っていて祝福される働きでも、主が「はい、ここまで」と言われるならやめなければならないこともある。無料食堂はどうか?癒しのミニストリーはどうか?教会はどうか?
絶対にイエス様から遣わされているに違いない場所がある。家庭、学校、職場だ。職場に行くとき、イエス様から遣わされているという確信のもとで働こう。仕事は絶対に祝福される。家に帰るとき、イエス様から遣わされているという確信のもとで帰ろう。絶対に家族が祝福されて、誰もがうらやむ愛に満ちた家庭になる。

36-38節。イエス様はこの前の場面で、弟子たちに大きな試練がやってくることを警告された。これはその延長線上にある。これまでは、イエス様の庇護のもと、弟子たちは何も持ってなくても、ただイエス様から遣わされているだけで、守られ、祝福され、何もかもがうまくいった。しかし、イエス様がいよいよ十字架にかかられる時というのは、闇が力をふるうときだ。37節でイエス様が言われた「その人は犯罪人の一人に数えられた」というのは、イザヤ53:12の御言葉の引用だ。この時にはイエス様の庇護が受けられなくなる。そういうときは、今までと同じやり方だとうまくいかない。イエス様がこう警告するからには警戒しなければならない。何事もその時々に与えられる御言葉に従うことが必要だ。異常な事態には知恵を働かせて、財布、袋、剣など、物を持っていることも必要だ。38節で、弟子たちが二振りの剣を見せるとイエス様はそれでよいと言われた。これは何も、イエス様が血肉の争いを良しとしておられるわけではない。実際、ペトロが大祭司の手下の耳を切り落としたとき、イエス様はペトロを止めて「剣をとる者は剣を滅びる」とまで言われた。剣は積極的な攻撃のためではなく、あくまでも護身用に、抑止力として持っていることを許可したということ。

それでは、今の私たちは、どういう状態にあるのだろうか?イエス様から遣わされればすべてが満たされる状態か、それともお金や物資や武器がどうしても必要な状態か。基本的には、イエス様から遣わされればすべてが満たされる状態だ。イエス様はあくまでも36節で「今は」と言われた。これは十字架の時のごく限定的な出来事だった。そして、イエス様が復活された後、イエス様は大宣教命令を与えて弟子たちを遣わす。使徒言行録では弟子たちが聖霊様で満たされて福音を伝えて多くの実を結んでいる。今はその使徒言行録の延長線上にある。イエス様に遣わされている私たちはすべての必要が満たされる。

39-40節。イエス様はいつものように、いつもの場所で祈られた。それで、いつものように誘惑を退けて、最高の働きができていた。イエス様には祈りの習慣がしっかりと身についていた。弟子たちはその祈るイエス様の姿をよく目にしていたのに、イエス様から祈ることを学んでいなかった。弟子たちは祈りについては学んだ。主の祈りは弟子たちの質問にイエス様が答える形で与えられた。でも、それは祈りについての教えだ。実際にひざまずいて祈るということを学んでいなかった。私たちはどうか?私たちも弟子たちと同じように、御言葉を通して今、イエス様の祈りを見せられている。そして、祈ることは誘惑に陥らないために必要だ。イエス様から祈ることを学ぼう。いつものように、いつもの場所で祈って、いつものように誘惑に勝利する者になろう。当然、ただ闇雲に祈るというのではなく、祈る内容が重要だ。

すばらしいことに、41-44節では、イエス様の祈りの具体的な内容が出てくる。41節によると、イエス様はひざまずいて祈られた。渾身の祈りをささげる上でふさわしい、最もへりくだった姿勢だ。42節の祈りはいったい何か?杯というのは、イエス様の受難を指す。旧約聖書では、杯のことを神の怒りと結びつけている。イザヤ51:17。エレミヤ25:15。特にエレミヤ25章で怒りの杯を飲む国々とはどこなのか見るとあらゆる国々であることがわかる。すべての人が飲むのだ。杯は、全人類が受けるべき罪の罰を象徴している。神の子とはいえ、たった一人の人間がそんな恐ろしい罰に耐えられるだろうか?イエス様は前には二つの道が用意されていた。十字架の苦しみを逃れる道と十字架の苦しみを受ける道だ。イエス様はこの時点でまだ十字架を避けることができた。そして、イエス様御自身は避けることを望んでいた。しかし、それと同時に、父なる神様の御心がそうでないなら、たとえ十字架にかかることであったとしてもその通りにしてほしいと望んでいた。ここにはイエス様の父なる神様に対する絶対的な信頼と絶対的な従順がある。たとえ、私にとって最悪のことでも、それが父なる神様の御心であれば良いことに違いないから従おうとするということ。父なる神様の御心は常に最高だから。

イエス様はこの祈りをささげる時点ではまだ、どちらの道が御心か確信がなかった。迷っていたのだ。また、覚悟を決める必要があった。それで、ここで御心、確信、覚悟を求めて切に祈られたのだ。どうすればよいか迷っていることはないか?なかなか覚悟を決められないことはないか?御心、確信、覚悟を求めよう。そして、イエス様のように、父なる神様の御心なら、十字架のように最悪に思える出来事でも、喜んで受け入れよう。なぜそれが良いことなのか理解できなくても、受け入れよう。

イエス様の祈りは天使が力づけなければならないくらい激しかった。その祈りは汗が血のように地面に落ちるほど激しかった。これはおそらく血汗症(けっかんしょう)だろう。死の危機などの極度なストレスによって皮膚から血液が出てくる疾患だ。イエス様はそのくらい大きなストレスを感じておられた。まるでもうすでに十字架にかかっているようだ。
これほど激しい祈りは誰のためなのか?イエス様はこの祈りで十字架にかかることが御心であるという確信を得た。ということはこの祈りは十字架の贖いの恵みにあずかるすべての人のための祈りだといえる。そこには私やあなたがいる。イエス様はあなたを愛してあなたの救いのために血を流すほど祈られた。

45節。立ち上がりというのは、原語のギリシャ語では「アニステミ」であり、復活という意味でも使われる言葉。イエス様は祈り始める前には死んだも同然の苦しい状態だったが、御心を確信して立ち上がった時には復活した。イエス様は祈りの中でもう霊的に十字架の死と復活を通過していた。だからこそ、この後実際に耐え忍ぶことができた。そうでなければどうしてあれほどの苦しみを耐え忍べるか。私たちも、祈る前はどうであれ、祈りを終えて立ち上がる時は、復活した者として立ち上がろう。あらゆる困難にすでに勝利した者として立ち上がろう。
弟子たちの状態はどうだったかというと、イエス様に倣って祈らなかったので、「悲しみの果てに」眠り込んでいた。人間的な決意では決して乗り越えられない悲しみがある。それは、祈りなしでは乗り越えられない。

46節。イエス様は「なぜ眠っているのか?」と言われた。それは眠かったから、夜中だから、寝て当然の時間だから、といろいろ理由付けはできるけれども、それは眠ってしまう理由にはならない。なぜなら、誘惑に陥らないようにすることは、睡眠よりも重要だからだ。誘惑に陥ることは、睡眠不足よりももっと大きな害を与える。誘惑が襲い掛かろうとしているときには、寝不足になろうが、疲れようが祈らねばならない。誘惑はどうしても来る。イエス様は誘惑が来ないように祈れと言われたのではなく、誘惑に陥らないように祈れと言われた。イエス様だって誘惑を経験したのだから、クリスチャンも例外なく誘惑にあう。誘惑にあうこと自体は当たり前で、罪でもない。そして、誘惑は祈りによって対処できる。祈りによって与えられる確信が、誘惑を退ける。

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