自分の量る秤で量り返される[ルカ6:37-42]

ルカによる福音書
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適切な対応をすれば、神の憐れみと祝福を期待できます。

自分の量る秤で量り返される[ルカ6:37-42]

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【ノート】
37-38節。これらは共通して人に対してすることが自分にも返ってくるという内容。自分がした通りに返ってくるのだから、私たちは誰も恨むことができない。すべては自分次第なのだ。
まずは人を裁くな。裁くというのは他人の行為や言葉についての善し悪しを判断して対処を決めること。裁くということは相手を罪から守り、共同体を健全に保つために必要となることがある。Ⅰコリント5:12-13。イエス様も兄弟が罪を犯したときにどのような手順で指摘して悔い改めに導くべきかをマタイ18章で定めておられる。ここで否定されているのは、そういった保護や悔い改めといった目的から逸脱した裁きだ。単に相手を攻撃する目的で人の弱点を探して、非難するということをしてはならない。人に対してはどんな評価もできる。非難しようと思えばいくらでも非難することができるし、称賛しようと思えばいくらでも称賛できる。どんな最悪な人間にも良い点を見出すことができるし、最善な人間、つまりイエス・キリストを中傷する人々もいる。どちらかといえば悪くいうことは簡単だが、良い点を見つけることには訓練が必要だ。私たちは人の最善を見出そうとすることを努めよう。そうすれば、神も私たちを憐れみ深く取り扱ってくださる。

次は人を罪人と決めるな。すべての人は罪を犯したというのが聖書が語る真理だ。では罪人と決めるなというのはどういうことか?イエス様は32-34節で御自分の弟子と罪人を区別しておられる。ここでいう罪人というのは、イエス・キリストを信じて罪が赦されていない人、救われていない人ととることができる。まだイエス・キリストを信じていない人に対して、二通りの見方ができる。「この人は頑なな人だからずっとこのまま信じないだろう」という見方と「いつか信じるに違いない。そのことを信じて福音を伝え、祈ろう」とする見方だ。何度もチャンスが与えられていながら、イエス・キリストを信じようとせずに亡くなる方がいることは確かだ。それと同時に、頑なに思われていたのに「この人も信仰に導かれるとは、主は何とすばらしいお方だ」と驚きをもたらす回心者もいる。私もそんな人の一人。だから少なくとも私たちは「どうせこの人は救われない」と決めつけてはならない。そうでなく執り成して祈ろう。また、多少神学的な土台が違っていたとしても、異端でなければ、「あの人はこの教理を認めないから救われていないとか、この教えを受け入れなかったから地獄に落ちた」というふうに断定してはならない。そうすれば、神も私たちを憐れみ深く取り扱ってくださる。

三番目は赦しなさいだ。その最大の動機付けは、私たちも赦されなければならない、神の憐れみを必要とする罪をたくさん犯してきたということだ。へりくだって、自分がイエス・キリストにあって赦された罪の数々を思い巡らし、その恵みの大きさを理解するなら、他人に対しても寛容となり、赦すことができる。他の人を赦すことは、十字架の贖いの恵みの大きさを知れば知るほど簡単になるということ。もし人に対する恨みつらみをずっと持ち続けるなら、カルバリの十字架を否定することになってしまう。その人の救いを揺るがしかねない。

最後が与えなさいだ。相手にマイナスなことをしないようにするということだけでなく、プラスで何かを与えるということこそ、神の国の生き方!そうすれば、与えられる!人から受け取ることばかりを期待しても、無理なだけでなく不健全だ。イスラエルの地形がそれを教えている。ヘルモン山、ガリラヤ湖、ヨルダン川は生き物が豊か。しかし、死海は生き物が全く住むことができない。水を受けてばかりで、どこにも流れていかないので、水がよどんでしまっているのだ。受けるばかりで与えない生き方は私たちの生命力を奪ってしまう。まずは、自分から与えるものになる必要がある。与えることは、私たちを生き生きとさせる。主が与えた命を目的に適って正しく使っているからだ。受けるよりも与える方が幸いなのはそのためだ。その上、与えられる。与えるといつも人から同じだけ与えられるとは限らない。しかし、神からの報いは与えた以上に大きい。「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくしてふところに入れてもらえる」と書いてある。
ユダヤ人は足もとまで垂れるだぶだぶした衣をまとって腰には帯をしていた。着物の上部をひっぱるとそこにポケットができた。主はここであなたのポケットがいっぱいになるほど与えられる。持てるだけ与えられると言っておられる。実際に、与えれば与えられるという信仰を持って大胆にお金をささげて、何百倍という額で返ってきたという証しは少なくない。

しかし、与えるのはお金や持ち物だけに限らない。ここでは何を与えるかは指定されていない。自分の労力、自分の時間、自分のエネルギーを用い、自分を捨てて、神と人とに奉仕することだ。さらには、笑顔を向けること、励ましの言葉をかけること、執り成しの祈りをすること、それらはすべて与えることだ。主は豊かに報いてくださる。この世で報いを受ける場合もあるが、そうでないなら、御国で報いを受けることができるのは確実だ。そのことを信じて与える者となろう。

39-40節は二つのたとえ。どちらも同じことを意図している。まず盲人が盲人の道案内をするたとえ。39節。人は人について行きたい。誰かに導いてもらいたいと思う。なぜなら、盲人だからだ。未来がわからない。どこに進めばいいのか、道がわからない。神の真理がわからない。何を命のように大切にすればいいのか、わからない。とりあえず、指導者について行けば、暗闇の中を手探りをして進む不安をやわらげることができる。道について、真理について、命について、考えなくていい。問題は、実は指導者もまた盲人だということ。指導者もまた、他の人々と同じ不安を感じながら生きている!指導者はただ手探りをしながらでも進むという勇気をもっているだけだ。しかし、盲人には違いない。2人とも穴に落ち込んでしまう。この穴というのは、地獄のことだ。私たちは目が見える人に道案内を頼まなければならない。唯一目が見えるお方とは、イエス・キリストのことだ。イエス・キリストは未来のことをすべてご存知!生きる道を知り、神の真理を知り、永遠の命を知っている。御自身が道、真理、命だ。だから、私たちが指導者と仰いで導いてもらうべきお方はただ、イエス・キリストだけだ。私たちはイエス・キリストについて行こう。

続いて師と弟子のたとえ。40節。弟子は師にまさるものではない。師のようになることはできる。このことから、誰を師と仰ぐかが死活の問題であり、私たちの最高到達地点を決めるということがわかる。不完全な師について行ったら不完全な者にしかなれない。クリスチャンにとっての師は、ただイエス・キリストだけだ。みんなイエス・キリストの弟子なのだ。マタイ23:8,10。このことから、クリスチャンには大きな希望があるということがわかる。私たちは皆、十分に訓練を受ければ、イエス・キリストのように完全な者となることができる!敵を愛することもできる、赦すこともできる、豊かに与えることもできる。ここで命じられていることがすべて可能だ。一握りの人だけが可能なのではない。だれでも可能だ。あなたもキリストのようになることができる!

41-42節。このたとえをイエス様が言われたとき、笑いが起こったに違いない。イエス様は私たちに向かって「目に丸太がある!」と言われた。目に丸太があるというのは、とんでもないこと!目がつぶれてしまう!これはどういうことか。おがくずも丸太も私たちが取り除かなければならない罪、咎、過ちといった問題を指している。自分の目に丸太、兄弟の目にはおがくずということで、私たちは謙遜にさせられる。主はここで、「自分の問題の方が兄弟の問題よりもはるかに大きいと認識しなさい」と言われているのだ。人のことをとやかく言う前にまず自分の問題を解決しなければならない。まず私が悔い改めなければならない。そして、何を悔い改めなければならないのかは、実は自分自身が一番よく知っているはずなのだ。主は「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と問いかけておられる。丸太があったら気づかないわけがない。視界が完全に覆われるくらい大きいし、丸太が目にあったら痛いでしょう!だから、本当は私たちは丸太に気づいているのだ。しかし、認めたくない。悔い改めたくない。そういう頑なな心が丸太をそのままにさせている。

主は43節で「偽善者よ」と言っておられる。偽善者というのは原語のギリシャ語では、「ヒュポクリテース」という言葉が使われているが、これは「俳優」という意味のある言葉。偽善者というのは、本当は自分にも山ほどの罪の問題があるのを知りながら、それを隠して、何も問題がないかのように演技をして他の人のことばかり指摘しようとする俳優のことだ。偽善者は演技で大勢の人をだましてきた。しかし、主は決してだますことはできない。私たちは主の御前で演技をするのをやめよう。自分の抱えている問題の一つ一つを認めよう。私こそは悪霊にとりつかれているかもしれない、私こそは癒されていない問題があるかもしれない、私こそは不信仰で頑なな者だ、私こそは罪深い習慣を続けている。そのように認めてへりくだるとき、主からの取り扱いを受け、訓練を受けることができる。そして、見せかけではない、本当に完全な者となる道が開かれる。他人のおがくずを取り除けるのはそれからだ。

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