よろしい、清くなれ[ルカ5:12-16]

ルカによる福音書
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主の御心次第です。

よろしい、清くなれ[ルカ5:12-16]

よろしい、清くなれ[ルカ5:12-16]

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【ノート】
12節。全身重い皮膚病にかかった人と書いてある。重い皮膚病は悪性の皮膚病あるいはハンセン病だ。体の一部分のみであれば目立たないが、この人は全身が重い皮膚病なら誰が見ても一目でわかる。当時の重い皮膚病は生まれつきや遺伝ではなく後天的なもので、長い潜伏期間を経て発症する。この人はもともとほかの人と変わらない平穏な日常生活を送っていたのに、それを失ってしまったのだ。この人は3つの崩壊を経験した。

まず、外見が崩壊してしまった。顔をふくめた全身の皮膚がただれてしまうし、場合によって変形したり、体の一部が欠けてしまったりする。別人のようになってしまう。外見的なコンプレックスを感じる人はいるだろうか?その人はこの重い皮膚病の人と同じだ。

第二に社会生活が崩壊してしまった。重い皮膚病にかかった人は律法では汚れているとみなされているので、人間社会から追放される。他の人に近づいてはならない。それまで親しかった家族や友人との関係をすべて失い、街の外で隔離された場所で生活を送らなければならない。ソーシャルディスタンスにうんざりしていて、孤独に耐えきれないと思っている人はいるだろうか?その人はこの重い皮膚病の人と同じだ。

第三に健全なアイデンティティが崩壊してしまった。重い皮膚病を患っている人は他の人にわかるように「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。「汚れた者」というのがこの人のアイデンティティだ。人から忌み嫌われ、自分でも自分のことを忌み嫌う。誰も自分を受け入れてくれず、自分すらも自分のことを拒絶する。否定的なアイデンティティを持ち、よく自己嫌悪に陥るという人はいるだろうか?その人はこの重い皮膚病の人と同じだ。

外見にコンプレックスがある、孤独だ、自己嫌悪に陥っている、そういう人はどうすればいいのか?そういう人にも希望がある。唯一の希望はイエス・キリストだ。この重い皮膚病にかかった人は、イエス・キリストの話を遠くから聞いた。「この方であれば、私を清くしてくださるかもしれない!」本来なら、街の人がいる場所に行ったら怒られてしまうので躊躇するが、イエス様に会うためなら話は別だ。怒られてもかまわない。イエス様に会うことは不要不急の外出ではない!イエス様に会うことはいつでも必要であり緊急なのだ。

では、どうすればイエス様に助けていただくことができるのか?その点もこの人の態度から学ぶことができる。イエス様を見て「ひれ伏し」と書いてある。非常に謙遜な態度だ。私たちはイエス様に何かを願うときは謙遜な態度をとらなければならない。そして、この人はイエス様にすばらしい願い方をしている。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。主には癒すことができる。そのことをこの人は確信していた。後は主に癒したいという意思があるかどうか、主の意思次第だ。主は、私たちが願うことを聞かなければならないということはない。主が聞いてくださる願いは、御心に適った願いだけだ。私の願いをごり押ししようとするのではなく、主の御心が何であるかを考えないといけない。ローマ12:2。イエス様も、ゲッセマネの園で、「私の願いことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた。私の願いよりも御心に適うことが行われる方がずっと良いのだ。私にとってもその方が幸せだ。そして、心配しなくても、私たちの主に対する切なる願いというのはたいてい御心に適うものだ。13節。イエス様は「よろしい」と言われた。清くすることは御心だった。主は憐れみ深い方であり、私たちを救い、癒し、清めてくださることは御心なのだ。

主はこのとき、手を差し伸べてその人に触れた。主は癒すとき、人に触れる必要があるか?必ずしもない。主は御言葉一つで癒すことがおできになる。しかし、主はここではあえてこの人に触れてくださった。家族や友人に至るまでこの人を避けて、触れてくれなかった。触れたら汚れるから。しかし、イエス様はあえて御手を伸ばして触れることで、この人の全存在を受け入れるということを表している。人から嫌われていて、孤独を感じ、自分でも自分を軽蔑していたとしても、イエス様の御手は伸ばされている。イエス様に触れていただくなら、イエス様の愛が注がれて、心も体も癒される!誰に嫌われたとしても、イエス様の愛を受けているなら、生きていくことができる。この愛を受けた私たちは同じように、嫌われている人、孤独な人、社会からはじかれている人を愛して受け入れよう。

癒され方は、「たちまち重い皮膚病は去った」だ。5:1-11節の漁のときは一晩中何もとれなかったのが、舟が沈むほどの大漁。重い皮膚病については全身重い皮膚病だったのがたちまち去った。良いものはゼロから満ちあふれるほど与えられ、悪いものは満ちている状態からゼロになる。主が働かれるとき、私たちの人生には劇的な変化が現れる。

この癒しによって、イエス様の異次元な清さについて知ることもできる。普通、汚れたものの汚れはほかのものに簡単に移るのに、聖なるものの聖さはほかのものに移すことができない。ハガイ2:11-13。このことは祭司であれば誰でも知っていることだった。汚れたものの汚れに比べたら聖なるものの清さは弱い。しかし、イエス様の清さは異次元だ。イエス様は汚すことのできない完全な清さをお持ちだ。それでイエス様が汚れたものに触れると汚れを受けることなく、逆に汚れたものを清めることができる。クリスチャンも世の光として、汚れた世に対して清い影響力を発揮するように召されている。並みの清さでは世に触れると逆に世に染まってしまう。世の光としての召しに答えるためには、イエス様と触れ合うことが必要だ。イエス様との親密な交わりによって私たちはイエス様のように清いものになり、世の汚れに打ち勝つ清さを身に着けることができるようになる。

14節。イエス様はここでアフターフォローをしておられる。まず、イエス様は奇跡を行う者として認知されるのを避けるために、「誰にも話してはいけない」と言われた。奇跡の話ばかりが先行すると、人々がイエス様を正しく知る妨げになってしまう。宣教に支障が出る。でも、奇跡を体験したのに、それを語ることが許されないというのはなかなか酷だ。口を閉ざしているのが難しい。そこで、イエス様は厳しくお命じになったのだ。私たちにはこんなことを命じられていないことを感謝しよう。私たちは福音を知っている。だから、神の奇跡を体験したら、いくらでも言いふらしていい!「この奇跡がイエス様が罪からの救い主である証拠だ」と。

次に、祭司に体を見せるように言われた。レビ記14章に書いてある重い皮膚病が癒されたときの規定に従うようにということだ。これは、ちゃんと癒されたことを証明して社会復帰するためだ。イエス様は私たちが社会で受け入れられることまで考えてくださっている。

この祭司に体を見せるというのは、今でいえば癒しを体験した後で、医者に診断してもらって癒しの奇跡が確かに起こったということを証明してもらうということだ。癒しの奇跡が起こったということを話しても、疑い深い人々は「ただのプラセボ効果だ」とか、「もともとそんなにひどくなかったのだ」とか、「実は治ったと思い込んでいるだけで、治っていないのではないか」とか、いろいろなことを言って奇跡はなかったことにしようとする。奇跡を体験した当人すら、サタンにそそのかされて「もしかしたら気のせいだったのかもしれない」と思って、神をあがめることも感謝することもしなくなってしまうことがある。そういうふうに不信仰に陥ると、最悪の場合、症状が戻ってくる。しかし、医者は証明できる。素人はでたらめな説明を並べようとするが、専門家である医者は「医学的にはありえない!これは神の奇跡だ!」とお墨付きを与えてくれる。すばらしい奇跡が起きた、医者から診断書を出してもらおう。もしレントゲン写真などで変化がわかる癒しの場合は、レントゲン写真のコピーをとらせてもらおう。頼めばコピーをとらせてくれる病院もある。

重い皮膚病というのは、当時としては不治の病だった。ハンセン病であれば今は完治可能だが、今でもなかなか治らない皮膚病があるくらいだ。にもかかわらず、レビ記14章に癒されたときの規定があらかじめ定められているということは、神による癒しの余地が常にあるということを暗示している。現代医学に基づいて医者から「一生治らない」と言われたとしても、それは医学上の診断であって、すべてではない。その診断にはイエス・キリストが考慮されていない。主にあってすべての病気には癒される余地が常にある。だから、あきらめてしまわず、癒しを祈ってみることをおすすめする。

15-16節。イエス様の御心とは裏腹に、イエス様から話を聞き、癒しを求める人々はどんどん増えた。群衆は集まって来る。あちこちから出てくる。しかし、イエス様がとったのは、その逆で「退く」ことだった。脚光を浴び、影響力が増し、人々が集まってくればくるほど、必要となることは「退く」ことだ。イエス様は人里離れたところで一人になって、父なる神様に祈りをささげた。しかもこれは一回だけのことではない。新改訳第三では「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」と書いてある。イエス様はメシアとして活動する期間中、常に、習慣的に一人になって祈る、父なる神様との交わりを持つということをしていたのだ。それがイエス様の力の源だ。権威ある教えも、癒しの力も、完全な清さも、祈りから出る。群衆が集まってくるし、弟子たちも一緒にいるので、一人になるのは至難の業だ。しかし、イエス様は「人がいっぱいいるので一人で祈るのは無理です」とは言わなかった。「忙しすぎて祈るのは無理です」とも言わなかった。あえて、早起きして、人里離れたところに言って祈った。祈りの生活を維持するためには、工夫が必要であり、努力が必要だ。はっきりと祈りのプライオリティを最大にして、ほかのものを全部置いて、人のいない場所に退かなければならない。主に仕えれば忙しくなる。もし忙しくて祈れないというのなら、いつかは事故を起こしてしまう。忙しくなればなるほど、もっと祈らなければならない。忙しいと責任は大きくなり、要求される能力も大きくなるのだから、自分の力で全部行うなら、破綻してしまう。イエス様のように祈りの習慣を持つことによって聖霊様の無限の油注ぎをいただき、忙しさに見合った働きができる。祈ろう。忙しいときこそ祈ろう。祈りのプライオリティを上げよう。祈りによって実り豊かなクリスチャンライフを送る者となろう。アーメン。

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