わたしの民はとこしえに恥を受けることがない[ヨエル書2:18-27]

ヨエル書
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日本にもマルコーシュが激しく降るように求めていきましょう。

わたしの民はとこしえに恥を受けることがない[ヨエル書2:18-27]

わたしの民はとこしえに恥を受けることがない[ヨエル書2:18-27]

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【ノート】
18節が転換点だ。18節。「そのとき」と書いてある。2:17までのヨエル書は、災いに次ぐ災いだ。いま経験している未曾有の災いと迫ってきているもっと大きな主からの災いについて。その災いを避け、痛手から回復するためには、心から主に立ち帰らなければならない。ずっと主は災いを降そうとしていた。災い自体が目的ではなく、その災いによって、イスラエルの人々を主に立ち帰らせるためだ。
18節に転調する。イスラエルの人々は、少なくともヨエルの預言を聞いた南ユダの人々は、心から主に立ち帰った。断食して主に祈った。主はその祈りに答えて、災いを降そうとするモードから愛を示すモードに変わった。18節からは主が様々な方法で愛を示してくださる。祝福に次ぐ祝福だ。主は、災いを終わらせるだけでなく、失われたものの回復、聖霊降臨、神の民の敵に対する審判をなさる。

18節は新改訳第三版では「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」となっている。主はご自分の地をねたむほど愛しておられるので、ご自分以外のものの手に陥ることに我慢ならない。ご自分の地であるイスラエルがいなごや異邦人に蹂躙されるままにしてはおかれない。イスラエルは神が御目を注いでおられる特別な地であり、特にエルサレムは主が神殿を置くべく特別にお選びになった都市だ。イエス・キリストが来られたのはイスラエルであり、イエス・キリストが再臨されるのも、エルサレム近郊のオリーブ山だ。エルサレムは千年王国の中心地となるだろう。神の民がやがて住むことになる天国の都市は「新しいエルサレム」と呼ばれる。

しかし、いまや神の国、主が御自分の地としておられるのはイスラエルにとどまらない。イエス・キリストの到来によって神の国はあらゆる場所に臨むようになった。クリスチャンがいて、御国を来たらせていただき、御心が天になるごとく地にもなさせていただいた場所は、クリスチャンを通して神が支配しておられる場所はみんな神の国であり、主の地だ。主はその地に対しても愛を示してくださる。主は私たちを憐れんでくださり、私たちが置かれている場所を回復してくださる。

19節。農業の回復。ヨエルの時代にいなごに荒らされた農業が復興する。それと、ここでは「お前たちが国々の中で恥を受けることをわたしは二度と許さない」と主は語っておられる。だから、このことが究極的に実現するのは、千年王国のときだ。大患難時代に焦土にされてしまった土地が奇跡的に癒されて、大収穫を得ることができるようになる。土地というのは、人間の罪によって呪われる前までは、今よりもずっと豊かに農産物を産出することができる。2000年ごろに中南米のグアテマラの地方の村のアルマロンガで起きたリバイバルからそれがわかる。その地域は犯罪が多く、麻薬、酒、暴力、殺人などの多発地帯だった。土地は貧弱だったので、農業が不振で貧しくてひどい場所だった。ところが、イエス・キリストの福音が届き、リバイバルが起こり、人々が救われ、麻薬や酒から解放され、犯罪がなくなると、土地が癒された。土地から採れる作物がすべて巨大サイズのものになったのだ。ニンジン一本が一人では持ち上げられないくらいのサイズになった。同様のことが数年後のフィジー島でも起きた。神は土地を癒してくださる。

20節。これはまず主がいなごを一掃してくださることを指している。乾いた荒廃の地というのはヨルダンの荒れ野のことで、東の海は死海、西の海は地中海だ。ヒエロニムスがこう言っている。「私はユダヤの地がいなごの大群におおわれるのを見たことがある。その群れは、風が起こるやいなや死海と地中海に落ちていった。そして、どちらの海も岸に打ち付けられたいなごの死骸が山のように積もった。」いなごの大群は不可解な動きをすることがある。食べるものがいっぱいある場所があるのに、わざわざ海の方に飛んで自殺することがある。いなごの群れの一匹一匹に至るまで主の支配下にあって主は簡単に一掃できるのだ。さらに、これはいなごの群れであると同時に、預言的な意味もある。いなごは北から来ない。北から来るのは軍隊だ。

だから、ここでは北の国の軍隊に対する勝利が約束されている。このことはまずアッシリアの軍隊について実現している。北イスラエル王国は心から主に立ち帰らなかったのでアッシリアに滅ぼされてしまった。しかし、南ユダ王国は悔い改めたので主の取り扱いが違う。主の日の災いを免れることができる。北から攻めてきてエルサレムを取り囲んでいたアッシリアの軍隊18万5千人は、たった一人の御使いによって一夜にして全滅した。そういうことが、世の終わりにも起こる。エゼキエル書の38-39章にはゴグの地からの軍隊が北から攻めてくることが預言されている。その軍隊は主の御業によって滅びるが、イスラエルはその軍隊を埋葬するのに7か月をかかると書いてある。同様のことが、反キリストの軍隊に対しても起こる。反キリストの軍隊は世界最大規模の兵力、最高の装備、最高の指揮系統を誇る。対して、イスラエルは貧弱だ。しかし、再臨されるイエス・キリストがイスラエルに勝利をもたらされる。イエス・キリストは反キリストをどうやって倒すのか?ダイナミックな奇跡を行うのか?Ⅱテサ2:8。その吐く息によって倒す。イエス・キリストにとっては世界を恐怖に陥れた反キリストを倒すのは、ケーキのロウソクを消すくらい造作もないことなのだ。

21-22節は恐れからの回復。被造物が恐れに陥っていた。土は旱魃と火災で傷つき、野の獣は食べる草がなくうめいていた。主がそれらの恐れと苦しみを取り除いて喜びを与えてくださる。ヨエルのとき、火災によって荒れ地になってしまった地は緑をとりもどし、樹皮まで食べられてしまったいちじくとぶどうの木は再生し、再び実を結ぶようになる。いちじくとぶどうはイスラエルを象徴するので、国の回復を意味する。
再臨されるイエス・キリストによって悪魔に奪われてしまった地上での支配権は完全に取り戻され、神の王国が地上に再建される。キリストはどのように国を立て直されるのか?キリストはまずイスラエルの農業を発展させ、人間の開発によって汚れた環境を浄化してくださる。それを一千年間に渡って地球規模で行ってくださる。千年王国にはイスラエルから始まって全世界で環境の回復が起こる。人間の罪による呪いから解放され、環境問題がなくなり、全世界がエデンの園のように豊かな場所となる。こうして被造物全体が恐れから解放される。人間以外の被造物すら、恐れから解放されるのだ。感受性を豊かに持つ人間についてはなおさら、恐れからの解放と大きな喜びが与えられる。

23-24節。旱魃が続いていたイスラエルに雨が降り始めたのだ。秋の雨と春の雨と書いてある。モーレとマルコーシュという言葉が使われていて、それぞれ初めの雨と後の雨と訳すこともできる。イスラエルには二度の雨季があり、初めの雨である秋の雨が10月から11月ごろに降る雨。初めの雨は土壌を整えて種を蒔くのに不可欠なもの。続いて12月から定期的に雨が降る期間が続き、3月から4月に後の雨である激しい春の雨が降る。作物の収穫の直前に降る雨で作物がよく実る上で欠かせない。若木や若草の生長にも必要だ。5月から9月は乾季が続く。イスラエルの繁栄は雨にかかっていた。エジプトはナイル川があるので、雨が降らなくても、ナイル川の水を頼りに生きていくことができる。しかし、イスラエルにはナイル川のような大きな川がない。雨が降らないイスラエルは飢え死にしてしまう。そして、雨は主なる神からの祝福として与えられる。だから、イスラエルは主なる神に依存して生きていかなければならない。主は私たちが主だけに依存する歩みをすることを望んでおられる。
この雨というのは、聖霊様を象徴する。聖霊様の雨を降らせることが主がこの地に御国を拡張するための手段だ。雨がもたらすのは、穀物と新しい酒と油。つまり聖霊様によって大勢の人が命のパンにあずかり、聖霊様にある喜びを味わい、聖霊様からの油注ぎを受けるということだ。初めの雨と後の雨は教会史全体での聖霊様の働き方を預言するものでもある。初めの雨はペンテコステの日に降り始めた。人々は聖霊のバプテスマを受け、異言や預言を語り、癒しや死人の生き返りなど、様々な奇跡に用いられた。

雨は長く見積もれば5世紀頃まで降った。アウグスティヌスの時代にも、癒しや経済的な奇跡が多数報告されている。しかし、中世の暗黒時代の1千年間には、聖書が読まれなくなり、知識は失われ、人々は迷信の中に閉ざされてしまい、聖霊様の力を体験する人が滅多に出なくなった。つまり、雨が時々しか降らない時代が続いた。宗教改革を経ても、聖霊様の力が現わされるのは、リバイバルのときに一時的にだけだった。異言を伴う聖霊のバプテスマはそれでもポツポツと報告事例があるが、あまり注目されなかった。19世紀末にアメリカで、このヨエル書の2:23を根拠に、主が後の雨を降らせてくださるように熱心に祈り求める人々がメソジストやバプテストの人々を中心に各教派から起こされた。そして、1906年にウィリアム・シーモアという黒人の牧師を通してアズサストリートリバイバルが起こった。アズサストリートでは24時間365日続く集会が聖霊様の導きの中で行われ、そこに行った人々の大多数が聖霊のバプテスマを受けて、異言したり預言したりするようになった。聖霊様の力に飢え渇いていた世界中の宣教師たちはアズサストリートに行って力を受けて宣教地に帰ったので、聖霊様の力は全世界に飛び火した。これが本格的な後の雨の降り始めだ。いま、私たちが生きるこの時代というのは、歴史上もっとも聖霊様が活発に働いておられる時代なのだ。日本も乗り遅れてはならない。どうすれば後の雨は降るのだろうか?それは全面的に主に依存している。ゼカリヤ10:1。主に聖霊様の雨を求める者となろう。ウィリアム・シーモアは二年半毎日5時間祈っていた。すると、聖霊様が「もっと祈りなさい」と命じられた。それで、1年半以上毎日7時間祈った。それでアズサストリートリバイバルを迎えたのだ。7時間祈れるかはわからない。でも、今よりもっと祈ることはできるだろう。聖霊様のリバイバルの雨を求める祈りに献身する者となろう。アーメン。

25節。経済的な損失からの回復が約束されている。いなごは幾年にも渡って経済的な損失を与えた。同じようにコロナによって幾年にも渡って経済的な損失を被っている人が大勢いる。しかし、もし心から主に立ち帰るのであれば、主は奇跡的にすべての損失から回復することができるようにしてくださる。経済的な損失を受けていなくても、時間は貴重だ。失われた年月と思われるような日々を送っている人々がいるだろう。生産性のあることができなかった。新しい人間関係を築くこともできなかった。思い描いていた学校生活、会社生活を送れなかった。幾年にも渡ってコロナに食い尽くされている。そういう人であったとしても、心から主に立ち帰るのであれば、主は失ったと思われた年月に代えて、主イエス・キリストが共におられる新しい生活を与えてくださる。その一年一年は古い生き方をしていたころの全期間を合わせたよりも尊いものとなる。

主による回復、敵に対する勝利、リバイバルはゴールではない。ゴールはどこか?26-27節。主の驚くべき御業をほめたたえること、これがゴールだ。神の民は、「わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない」という主の御言葉をまざまざと知ることになる。それもそのはずだ。この御言葉が完全に実現するときには、イエス・キリストが再臨され、反キリストを倒し、千年王国の王座についている。神が王として統治しているのに、ほかの神のことを考える余地はない!「ああ、まさに私が信じていた通り、あなたが王の王、主の主だ」と崇めることになる。
そして、もうその状態から後退することが決してない。イスラエルも、教会も、主に立ち帰って神の栄光を現わす輝かしいときを体験することがあっても、やがては栄光は過ぎ去り、信仰は後退し、世的になってしまうということを歴史上で何度も繰り返した。リバイバルはいつか終わってしまうのだ。しかし、26-27節で「わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない」と二度も書いてある。栄光は過ぎ去らない。私たちは毎日が奇跡の連続であり、聖霊様にある喜びと力を体験し続け、終わらないリバイバルの中で生きることになる。主が与えてくださる贖いは永遠の贖いなのだ。主に立ち帰ることには大きな祝福が伴う。私たちは心から立ち帰り、これらの祝福をすべて、豊かに体験する者となろう。アーメン。

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