過越の食事をしたいと切に願っていた[ルカ22:1-23]

ルカによる福音書
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切なる願いを持って聖餐にあずかっていますか?
聖餐の奥義をイエス様が語ってくださっている箇所です。

過越の食事をしたいと切に願っていた[ルカ22:1-23]


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【ノート】
1節。過越祭と除酵祭は密接に関係があるが、厳密にいえば両者は別物。イスラエルが出エジプトするとき、ニサンの月の14日(太陽暦でいえば3月中旬から4月中旬)にイスラエルの民は小羊をほふり、その血を家の入口の鴨居に塗った。十の災いの最後の初子の災いのとき、死の使いがエジプト中の初子を打ったが、小羊の血が塗られた家は過ぎ越した。過越祭はそれを記念する。まさに、イエス様こそが過越の小羊として十字架で血を流して死なれた。私たちはイエス様を信じることによって、小羊の血を受けて、永遠の死、つまり地獄の刑罰を過ぎ越すことができる。除酵祭は過越祭の翌日の15日から21日まで1週間に渡って続いた。除酵祭は、イスラエルの民が急いで出発したので、最後の夕食にはパン種の入っていないパンを焼いたことに由来する。除酵祭でいうところのパン種とは、罪のことを指す。イエス様はまさにパン種の入っていないパン、罪が全くない完全に清いお方だ。イエス様を信じる者は、イエス様と同じように完全に清い者となっていくように召されている。

過越祭の準備は入念に行われた。道路は修繕され、橋は補強され、墓は巡礼者が間違って触れて汚れてしまわないように白くぬられた。1か月も前から過越祭の意味について会堂で教えられた。市内の家は、巡礼者たちのために小羊の皮という報酬以外何もなしで過越の食事のための場所を提供しなければならなかった。世界中の巡礼者たちがエルサレムに集まったので、祭りの間のエルサレムの人口は270万人にも膨れ上がることが記録されている。過越祭の二日前には、パン種を捜す儀式が各家庭で行われた。家の主人はろうそくを手に、家中をくまなくさがしまわり、パン種のかけらが見つかるとそれを外に投げ捨てた。私たちも罪のパン種が一つも入らずに聖餐にあずかることができるようにしよう。御言葉の灯によって思考の中、記憶の中、心の中の隅々まで捜しまわって罪が見つかるたびに主の御前にその罪を告白して捨て去ろう。Ⅰコリント5:6-8。

2節。祭りの期間は、人口がパック状態なだけあり、ほんの小さな騒動が火種となり、反乱が起きかねない。ローマ軍は特に神経をとがらせて、エルサレムに派遣する部隊の数を増やした。それで、ユダヤ人の指導者たちも、民衆の暴動を恐れ、どうすれば暴動を引き起こさずにイエスを殺害できるかということに頭を悩ませていた。信仰のない人は罪を犯すことよりも、人間を恐れる。私たちはそうであってはならない。ルカ12:4-5。神を恐れ、罪を犯すことを恐れる者となろう。
暴動を警戒しつつイエス様を殺害したいユダヤ人指導者たち、そこに絶対の機会が訪れた。3-5節。3節では「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と書いてある。サタンは、自分の器となって悪を行う人間を探し求めている。そして、サタンはその人物をよりによってイエス様の十二人の弟子の一人に見出した。ユダのこの後の行動はすべて、サタンに促されて行ったものだ。ユダはイエス様の弟子なのだから、本来聖霊様を宿す器のはずだった。どうしてサタンに入られてしまったのだろうか?サタンとて、誰の中にでも入ることができるわけではない。ユダには隙があり、サタンに対して扉を開いてしまったのだ。ヨハネによる福音書によると、ユダは弟子たち一向の会計係をまかされていながらお金をごまかして着服していた。金銭的な罪の問題があった。私たちには、サタンに扉を開いてしまっているところはないか?もしあれば、閉じよう。お金、性的罪、オカルトや異教、神様から来たのではない個人的な野心などがあれば、悪霊どもはそれを扉にして、私たちの内に入り、操ることができてしまう。私たちの行動はどのような霊に動かされたものか?神から出たのではない霊によって動かされてしまっているところはないか?あれば、悔い改めよう。断ち切って、扉を閉ざそう。

7-13節。弟子たちは、どこで過越の食事をするか、あらかじめ場所を教えられていなかった。それで9節で「どこに用意いたしましょうか」と聞いている。なぜか?ユダヤ人当局がイエス様を逮捕するとしたら、群衆が周りにいない過越の食事の場が最適だった。そして、もしイエス様があらかじめ弟子たちにどこで食事をするか伝えていたら、ユダを通して密告され、過越の食事に乱入されていたはずだ。イエス様はそれを見越してあえて伝えていなかったのだ。イエス様にとって、弟子たちとの過越の食事は神聖なものであって、絶対に守り抜かなければならなかった。イエス様はそこで弟子たちの足を洗い、最初の聖餐を執り行ってそれを繰り返し行うように説き、聖霊様についてたくさんのことを語るなど、やるべきことがたくさんあった。過越の食事の場は、イエス様と弟子たちの交わりがぎゅっと凝縮された最も思い出深い食事になるはずだった。それで、イエス様はどこで過越の食事をするのか隠しておられたのだ。敵の妨害に遭い、台無しにならないためには、時に隠し事が必要だ。神様は、御自分の計画を私たちに直前まで教えてくださらないことがある。聞いても答えてくださらないことが多々ある。それは私たちを敵の妨害から守るためだ。
私たちの方でも敵に知られずに密かに重要なことを話す方法が一つある。それは異言の祈りだ。普通の祈りはサタンにも聞こえる。サタンは場合によっては妨害できてしまう。しかし、異言は秘密の言葉であり、悪霊どもには理解できず、ただ神様にだけ祈りを届けることができる。
しかし、イエス様は四六時中弟子たちと一緒にいたはずなのに、どうやって弟子たちに知られずにあらかじめ家の主人と打ち合わせをすることができたのだろうか?イエス様はひそかにそうしたかもしれないが、もしそうなら、少なくともサタンには知られてしまっていただろう。私はむしろ、エルサレム入城の時に子ろばを手に入れたのと同じ方法で、イエス様が預言者としての奇跡の力でそれを成したと信じる。この家の主人は、イエス様のための席を準備しなければならないという啓示が神様から与えられたのだ。その啓示に従い準備を整えた。目印は水がめを運ぶ男に指定された。普通、水がめを運ぶのは当時女性の仕事だった。男性がそれをすると目に留まりやすい。そして、準備ができているのは二階の広間だった。屋根裏部屋のような二階は、よくラビが愛弟子と親しく話をする場所として使用されていた。神様のために何かをせよという強い促しが与えられたときは、頭でいろいろと考える前に従順しよう。示された通りにやってみよう。もしかしたら勘違いかもしれない。それでも、強い促しであれば、やってみよう。そうすれば報いを受ける。この家の主人も報いを受けた。この過越の食事に用いられた家はマルコの両親の家だったと言われている。この家は後にペンテコステの聖霊降臨の時の祈り会としても用いられ、初代教会の指導者たちの交わりに貴く用いられた。そういう環境でマルコが育ったことによって、マルコは福音書著者として用いられる道が開かれた。神のために家を解放する者は祝福を受ける。

14-18節。イエス様は苦しみを受ける前、つまり、十字架にかかって死なれる前に、どうしても弟子たちと共に過越の食事をしたいと切望しておられた。死が目前に確実に迫ったとき、あなただったら最期にやり残したことを一つだけできることがあるとすれば何をしたいと思うか?イエス様にとって、それは弟子たちとの過越の食事だった。このことから第一に、イエス様が弟子たちとの愛の交わりをいかに大事にしておられたかがわかる。クリスチャン同士の食事の交わりもこれに通じるものがある。

第二に、このときの過越の食事にあたる聖餐には、深い意義があるということがわかる。聖餐は毎回、心を尽くして臨まなければならない。聖餐を切望しているか?
イエス様は「苦しみを受ける前に」と言っておられるように、御自分の死を予見しておられる。しかし、それで終わりではなく、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言われた。神の国の過越とは何か?死者が復活し、イエス様の血潮によってクリスチャンたちが、第二の死である地獄を過ぎ越すことを意味する。そのときには、盛大なメシアの大宴会が行われ、すべてのクリスチャンがその宴会に出席することになる。聖餐はその予行演習だ。
しかし、イエス様は神の国の過越の実現までは、祝宴にあずかることはない。パーティーを楽しむということはない。ぶどう酒を飲むことすらなさらない。イエス様は完全勝利の日まで武装を解くことなく、執り成し続け、戦い続けてくださる。聖餐は、イエス様と共に十字架を背負って戦いの渦中に入っていく決意表明でもある。

19-20節。なぜか食事の前後に杯が取り上げられている。これはどういうことか?過越の食事の手順を考えると見えてくる。福音書ではその大部分が省略されているが、過越の食事では実際には4回も葡萄酒を飲む手順がある。
1.家族や友人たち一同が集まって食卓に着く。
2.食べ物への祝福が祈られた後で、水で薄められた葡萄酒を一杯飲む。
3.エジプトでの苦しみを記念して苦菜を食べる。
4.父親か食卓の長が長男の質問に答えて、出エジプト12:6以下をもって過越の物語を語る。
5.全員が詩編113編と114編を歌い、手を洗ってから二回目の葡萄酒を飲む。
6.過越の食事がとられる。子羊とパン種の入っていないパンであるマッツァを食べる。
7.食事が終わると三回目の杯が食事の感謝の後に回される。
8.最期に詩編115-118編が歌われて、四回目の杯が回される。

イエス様が語られた内容から聖餐の意味をさらに黙想しよう。
第一に、聖餐はイエス様の大いなる愛を再認識するものだ。イエス様は私たちのために御体を与えられ、私たちのために血潮を流された。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちのためだ。イエス様はすべてを与えて死ぬほど私たちを愛しておられる。

第二に、聖餐にはイエス様が霊的に臨在する。イエス様はパンについて「これは、わたしの体である」といわれた。これを私の体だと思いなさいと言われたのでも、私の体を象徴すると言われたのでもなく、ただ私の体であると言われた。でも、そういうイエス様の肉体は肉体として弟子たちの目の前にあり、パンはどう見てもパンのままだった。ということは、これは霊的なことだとわかる。イエス様が「私の体である」と言われた瞬間に、御体が霊的にそのパンに臨在するようになる。だからこそ、聖餐には霊的な力があり、一致、癒し、清め、信仰の強化といった効果が得られる。

第三に、聖餐はイエス様を記念する。人間の心は忘れやすい。だから、聖餐を通してイエス様の十字架を何度でも思い起こさなければならない。

第四に、聖餐はイエス様との新しい契約の締結である。契約は神と人との関係だ。古い契約は、掟を守ることを要求した。しかし、人間はその掟を守れなかった。罪の支払う報酬は死だ。新しい契約は、イエス様が私たちの身代わりにすべての罪の罰を受けて死なれることによって、神との関係を回復するもの。一方的な恵みによる救いの契約。それは婚約の形をもとっている。聖餐を通して花嫁となった教会は熱烈な愛でキリストが来られるのを待つ。

21-23節。イエス様は資格のない者が聖餐に混じっていると見抜かれる。イエス様を裏切るつもりのまま聖餐にあずかってはならない。神はユダの裏切りすらも救いの計画の中にあった。しかし、だからといって裏切り行為の責任を逃れることはできない。

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