なぜ生きておられる方を死者の中から捜すのか[ルカ24:1-12]

ルカによる福音書
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それでは、どこを捜せばよいのでしょうか?
どうすれば、イエス様と出会えるのでしょうか?

なぜ生きておられる方を死者の中から捜すのか[ルカ24:1-12]


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【ノート】
1節。イエス様は十字架にかけられて死なれた。遺体はユダヤ人の議員のアリマタヤのヨセフが引き取ったが、すぐに安息日が始まろうとしていたので、簡単な処置だけして墓に葬るしかなかった。安息日には掟に従って休まなければならない。それで、イエス様を愛する婦人たちも、泣く泣く、安息日の間は休んだ。そして、安息日の翌日の明け方早く、空が明るくなると同時に、香料をもって墓に向かった。太陽が上ると共に、一日が始まると共に、イエス様のために時間をささげたい。イエス様にお仕えしたい。せめてその方に自分のできることをしたいと願ったのだ。香料の香りは祈りを象徴する。香りというのは人間の精神に安らぎを与える効果がある。アロマセラピーは自律神経やホルモンのバランスを整えて、緊張をほぐし、心身共にリラックスさせる効果がある。最高のパフォーマンスを出せるようにする。私はアロマセラピーでそういう効果を体験したことはあまりないが、祈りで始めた日が充実するというのは毎日体験している。一日の始まりからイエス様にささげよう。朝を祈りと賛美とディボーションの時間で始めよう。そして、一日の終わりまでイエス様にささげよう。イエス様が私を愛して、私のために身をささげられたからそうしよう。それは私たち自身の力になる。婦人たちが朝早く香料を持っていったらキリストの復活を知ることになったように、復活の勝利の力を体験することができる。

2-3節。婦人たちは考えなしの行動をとっていた。ユダヤ人の墓の入口には大きな丸石を転がして蓋をする。その石は、成人男性数人がかりでなければ動かすことができないほどの重さだ。婦人たちはどうやって石を動かせばよいか、結論が出ないまま、とにかく墓の入口まで行ってしまった。ところが、婦人たちが行ってみると、なんともう墓の石がわきに転がしてあった。いったい誰がそうしてくれたのか。マタイによる福音書を読むと、一人の天使たちが石を転がしてくれたことがわかる。そして、墓の中に入っても、イエス様の遺体がなかった。これはどういうことか。人間的に考えれば、計画性がないことをすれば失敗しそうなもの、行き詰まりそうなものだ。それで、綿密に計画を練って、準備を整えて、よしこれで絶対にうまくいくという状況になってから行動に移ろうと考える人もいる。石橋を叩いて渡ろうとする。しかし、それではいつまで経っても何もできないということになりかねない。人間には未来のことはわからないし、想定外のことは起こるものだ。完璧な準備なんて人間業ではできないことなのだ。そして、意外にも、十分な準備なし、計画なし、考えなしの婦人たちの行動が、うまくいってしまう。婦人たちは、考えはなかったが、イエス様を愛して、イエス様に仕えたいという一心で墓に向かったら天使が石を転がしてくれた。そのように、私たちがイエス様を愛して、イエス様に仕えるべく行動を起こすならば、主が扉を開いてくださる。婦人たちは最短の時間で墓に行き、最小の労力で墓の中を見ることができた。成人男性の手を借りたら何人もの労力が必要だったが、主の天使は人間よりも力がある。たった一人で、石を簡単に転がしてしまう。1月4日に能登にボランティアに行こうと決めて、1月7日に出発して、8日に戻ってくるなんて、そんなことできるのか?十分な準備なし、計画なし、考えなしなのに、できるのか?できた!イエス様を愛して、イエス様のために仕えたいという思い、それに加えて、主の御声による指示があればできる。慎重になりすぎてはいないか?主があなたに思いを入れて、するように仕向けようとしていることがあれば躊躇せずに行動を起こそう。主が扉を開いてくださる。石を転がしてくださる。なぜならば、主は命のない遺体ではなく、生きておられるからだ。イエス様が復活して生きておられるので、私たちの奉仕がむなしく地に落ちることはない。アーメン。

4-8節。突然現れた輝く衣を着た二人というのは天使のことだ。どうして天使が現れて語る必要があったのか?婦人たちが到着していたときには、もうイエス様は復活していた。だから、イエス様の復活の瞬間を目撃した人は誰もいない。実際に何が起こったのか、説明する要因が必要だ。その役割が天使たちにまかせられたのだ。天使たちは人間のあずかり知らない真理、奥義、預言などを人間に伝える上で用いられることがある。しかし、天使たちが伝えるのは、あくまでもこの婦人たちに対してだけだ。すべての人に語るということはしない。後は、婦人たちがほかの人たちに語るのだ。イエス様の十字架の死と復活の福音を語ることがこの婦人たちにゆだねられた。この婦人たちは牧師か、神学校を卒業した人たちか?そうではない。では、婦人たちはどんな資格によって福音を語るのか?福音を聞いたという資格だ。福音を聞いた者にはそれを語る特権と責任が与えられる。福音は、聞いた人がまだ聞いたことのない人に語るのだ。あなたは福音を聞いたことがあるか?そうであれば、まだ聞いていないあなたの家族、友人、知人に伝えることは、あなたにゆだねられている。天使はそれをしない。天使も本当はもっと語りたい。でも、それは駄目だ。天使にはイエス様の証人となることが許されていない。天使はきっかけを与えることしかできない。後は、福音を聞いて信じた人が、救いの喜びの中から語るようにゆだねられている。
婦人たちも、イエス様から十字架の死と復活について、あらかじめ御言葉を聞いていた。にもかかわらず、婦人たちは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と天使たちから突っ込まれている。婦人たちの様子を見ると、もしや復活したのではという思いが頭をかすめた形跡すらない。天使たちに言われてやっと「そういえば」とイエス様の御言葉を思い出したらしい。イエス様が病人を癒すとき、癒される当人たちの信仰によって癒しが起こった。不信仰のナザレではほとんど癒しが起きなかった。しかし、この復活という奇跡については、予告されていたのに、どうやら人間の側の信仰がゼロにもかかわらず、起きたようだ。なぜ、婦人たちはあらかじめイエス様の十字架の死と復活について聞いていたのに、イエス様の復活に対する期待感がゼロだったのか? それは、イエス様の御言葉を悟っていなかったからだ。イエス様の御言葉を意図的に疑っていたわけではないだろう。「イエス様の御言葉を信じますか?」と聞かれたら婦人たちは異口同音に「信じます。アーメン」と言ったに違いない。しかし、実際にはイエス様の御言葉を悟ってはいなかったので、生きておられる方を死者の中に捜してしまった。今日でも、「聖書の御言葉を信じますか?」と尋ねれば、多くのクリスチャンは「信じます。アーメン」と答えることができるだろう。しかし、それと聖書の御言葉を全部悟っているかはまた別の話だ。御言葉を信じていると思いつつも、いまだにイエス様を死者の中に捜そうとしてしまうことがある。イエス様が生きておられることを悟ろう。そのためにはイエス様が生きておられるという事実を思いめぐらすことだ。生きておられるなら、イエス様と会いたいものだ。会おうと思えばいつでも会うことができる。探せば、見つけることができる。では、墓の中でなければイエス様をどこに捜せば見つかるのか?

第一に、イエス様は、私たちと共におられる方として見出すことができる。死んだ偉人は私たちに感銘を与えたり模範にさせたりすることができても、その人が直接私たちの人生に影響を与えることはない。イエス様は完全な模範であるだけでなく、私たちと共にいて多大な影響を絶えず与えてくださっている。天に昇られる前に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。イエス様の霊と私たちの霊は一体とされている。そのくらいイエス様はあなたと共におられる。たとえ何も語らなくても、親しい友人が一緒にいてくれることは大きな心の支えになる。
イエス様はいつもあなたと共にいてあなたの支えになってくださる。しかし、イエス様はおしゃべりな方だ。イエス様はあなたに御声を語り、真理を教えてくださる。聖書を通して、思いを通して、幻を通して、夢を通して、イエス様は語ってくださる。イエス様は私たちに何かを命じるだけでなく、それを行う力をも恵みで与えてくださる。イエス様は私たちと共に働いて病人を癒し、悪霊を追い出される。使徒言行録はそのことを体験したものだ。イエス様が共におられるという事実を思いめぐらそう。共におられるイエス様から目を離さないようにしよう。

第二に、イエス様は、父なる神の右の座で執り成す方として見出すことができる。霊では私たちと一体であり、肉体では御座で執り成しておられるのがイエス様だ。執り成すというのは、イエス様が十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたように、私たちの側に立って弁解し、かばってくださっているということ。イエス様は裁かず、かばってくださる方、私たちの罪、病気、傷、弱さの全部を背負ってくださるお方。イエス様からはいつも受け入れられていて、愛されている。だから、私たちはイエス様との交わりにはいつも平安がある。イエス様が今も私のために執り成してくださっているという事実を思いめぐらそう。執り成してくださっているイエス様から目を離さないようにしよう。

9-10節。婦人たちは急いで帰り、男性の弟子たちに福音を伝えた。そして、10節でその婦人の弟子たちの内訳が紹介されている。復活を最初に知ったのは、使徒たちではなく、婦人の弟子たちだった。当時は、男性中心の社会だった。女性はすべての点で男性に従属していた。もし人間が復活の目撃者という栄誉に誰を最初に与からせるか決める立場だったら、男性が選ばれただろう。しかし、神は女性にその栄誉を与えた。もちろん、聖書に置いても、男性の頭としての役割が強調されており、女性は助ける者だ。しかし、だからといって男性が一方的に優遇されるということはない。神は人を分け隔てなさらない。イエス様を心から愛する者には、誰であれ、神様は貴く用いてくださる。

11-12節。使徒たちには戯言のように思われた。イエス様の復活の話を聞いても現実感が全くわかなかったのだ。イエス様の奇跡を数多く目撃した使徒たちすらこうだった。だから、復活を信じるというのは普通のことではないことがわかる。復活は、使徒たちすら戯言のように思ってしまうほどの特別な奇跡だったのだ。では、どうすれば信じられるのか?聖霊様によって信じられる。ヨハネ16:13。この聖霊様が福音の内容を信じさせてくださる。クリスチャンになった人はみんな普通では信じられないことを信じるようになったという点で、全員例外なく聖霊様の力にあずかっている。聖霊様に満たされると、確信に満ち溢れて、御言葉が全部当たり前に真実だということがわかるようになる。それで、大胆に証しできるようにもなる。聖霊充満を求めよう。

信仰を持つ上でもう一つ大事なのは、確認しようとする姿勢だ。ペトロもすぐに信じたわけではない。やはり戯言のように思っただろう。しかし、墓はそんなに遠くないのだから、婦人たちが話した通りなのかどうか、確認しようと思えばすぐにできる。ペトロはそれをした。その結果、婦人たちの言った通り、遺体がなくなっていることを確認して驚いた。少し信じる方に傾いた。頭ごなしの否定は、怠け者のすることだ。確認しようと思えばできるのだから確認しよう。メッセージで語られること、ディボーションを語られることをやってみたら本当に祝福されるか確認しよう。

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