十二人を選んで使徒と名付ける[ルカ6:12-19]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

イエス様は徹夜で祈りました☆彡
イエス様はなぜこの十二人を選んだのでしょうか(゜-゜)

十二人を選んで使徒と名付ける[ルカ6:12-19]

十二人を選んで使徒と名付ける[ルカ6:12-19]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【十二使徒の名前の意味と特徴】
1.シモン[葦(あし)]:あだ名はペトロ[岩という意味]。一番発言する。三度イエスを否定。元漁師。
2.アンデレ[男らしい]:ペトロの兄弟。人をイエスに紹介することが多い。元漁師。
3.ヤコブ[かかとつかみ]:ヨハネの兄弟。あだ名はヨハネと共にボアネルゲス(雷の子ら)。最初に殉教。元漁師。
4.ヨハネ[主は恵み深い]:イエスの愛された弟子。唯一の自然死。福音書と手紙と黙示録を書いた。元漁師。
5.フィリポ[好戦的]:ナタナエルを伝道。アンデレ、ペトロと同じベトサイダ出身。
6.バルトロマイ[タルマイの子]:ナタナエル[神が与えた]と同一人物。真実なイスラエル人。
7.マタイ[主の賜物]:元徴税人。レビと同一人物。
8.トマス[双子]:疑い深い人。
9.アルファイの子ヤコブ[かかとつかみ]:無言。
10.熱心党のシモン[葦(あし)]:過激派。
11.ヤコブの子ユダ[主をほめたたえる]:タダイ[賛美あるいは告白]と同一人物。
12.イスカリオテのユダ[主をほめたたえる]:銀貨30枚でイエスを裏切った。会計係。

【ノート】
12節。イエス様は山で徹夜で祈られた。どうしても解決が必要な祈り課題があるときは、一人になれる場所で集中して何時間も祈るということが効果的。イエス様は何を祈っておられたのか?それは朝になってすぐにイエス様がされたことを確認すればわかる。

13節。十二人の使徒を選ぶために祈っておられたのだ。つまり、イエス様は世界をひっくり返す十二人を選ぶにあたって、集中して祈られたのだ。ジャンケンやあみだくじでランダムに決めたのではなく、年功序列で決めたのではなく、多数決で民主的に決めたのでもない。神の国は民主主義ではなく王政だ。イエス様は祈りによって主の御心にのっとって決めた。重要なことを決めるには祈るのがよい。主が最も良い選択肢を教えてくださる。
使徒が十二人なのは、イスラエルの十二部族に由来する。主なる神は十二部族をエジプトから導き出して、荒れ野で律法を授け、訓練を施し、約束の地を征服させ、神に支配された国、イスラエルという国家を誕生させた。

イエス・キリストは主なる神だ。主イエス・キリストは、十二人の使徒を選び、世から導きだして、新しい掟を与え、宣教の訓練を施し、全世界に出ていってすべての民を弟子にしようとされた。使徒を通して誕生させるのは、教会だ。イエス様と十二使徒は教会の土台。実際に教会が誕生するのはペンテコステの日に聖霊様が注がれたときだが、キリストは土台作りに本格的に着手された。エフェソ2:19-22。この教会はまだ建設中であり完成していない。教会の完成のとき、教会は天に引き上げられる。この教会の中に私たちもいる。キリストは教会の土台を誰にするかということを選ぼうとしておられたのだ。それでイエス様は徹夜で祈られた。

使徒たちがイエス様の徹夜の祈りによって選ばれたように、すべてのクリスチャンはイエス様から注意深く選ばれている。だから、私たちのうち誰も失敗者、負け犬、役に立たない者、教会に必要ない者はいない。主が私たちを選ばれた。私たちは一人一人、教会を建て上げるために一定の役割を果たすことができる。主の選びに応えて、教会を建て上げていく者となろう。

使徒という言葉はルカによる福音書に一番多く登場する。使徒は、使信を伝えるために遣わされる者という意味のギリシア語が使われている。使徒は後に福音の大使であり、キリストによって立てられた最高権威者だ。イエス様はずっと一緒にいるわけにはいかない。イエス様が肉体をもって地上で働く期間は3年半だけであり、それ以降は使徒たちに御自分の福音を代弁させ、御自分に与えられている権威を代行させたのだ。使徒は弟子たちの中から選ばれた。弟子とは、学ぶ者という意味のギリシア語が使われている。イエス様からよく学ぶ者がイエス様から遣わされることになる。

それではイエス様が徹夜で祈って選んだ人々を見てみよう。14-16節。イエス様が選んだ十二人からわかることを3つお伝えする。第一に、普通の人たちが選ばれている。全員ガリラヤの人で、最初の4人ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネまでが漁師だ。まず特別、身分の高い人々はいない。宗教指導者はいないし、貴族も権力者もいない。特別な功績をあげたのでもない無名な人々だ。また、高学歴な人々もいない。文字の読み書きができたのは徴税人のマタイと会計を担当していたイスカリオテのユダくらいのものだろう。今でいう小学校卒業程度の学歴もないのだ。さらには、道徳的に優れている人々すらいなかった。彼らの間の主要な話題は「誰がこの中で一番偉いか?」ということばかりだった。なぜあえてイエス様はこの人々を選んだのか?なぜ有名な学者や権力者を選ばなかったのか?

それは、世の国と神の国では尊ばれるものが真逆だからだ。神の国の価値観は20節からの説教で語られているが、世の国の価値観と真逆だ。世の国でもてはやされる人々というのは基本的に神の国で用いられる上で不利になる。いろいろなものを持っていれば持っているほど邪魔になる。イエス様についていくためにはそれらを捨てなければならなくなる。お金持ちは全財産を貧しい人々に施してからイエス様に従わなければならない。世的な知識は全部捨てなければならない。そうしないとニコデモのように「どうしてそんなことがありえましょうか?」と言わなければならなくなる。たくさんのものを持っていればいるほど、信仰のために何もかも捨てることが難しくなる。例外的に、使徒パウロは世の国で非常に優れていたにもかかわらず、すべてを捨てることができた。だから、世界宣教の使徒として用いられることができた。

その点、普通の人々は、持たざる者たちであるがゆえに、身軽だ。イエス様にどこまでもついていくことができる。使徒たちはみんなイエス様が山で徹夜祈祷しているとき、同じようにイエス様について行って山で世を明かすことができた。そして、持たざる者たちは主の栄光を現わす上で有利だ。Ⅰコリント1:26-31。世の国からもてはやされている人々がイエス様のもとで大活躍してもそれは当たり前だ。「あの人はもともと有能だった、すばらしかった」。そして、その人自身がすべての栄光を受け取ってしまう。しかし、もし持たざる者がイエス様のもとで力を受けて、大活躍したらどうなるか?「ハレルヤ!主があの人に力を与え、用いてくださった」として主の栄光が現わされる。「私は普通の人、特別、お金も学歴も能力もない」という方。卑下することはない。あなたは神の国で有利だ。

第二に、対立する立場の人たちが選ばれている。15節を見ると、ローマ帝国に仕えて同胞のユダヤ人から税金を奪う売国奴とののしられる元徴税人のマタイの名前がある。そして、ローマ人と同胞の中の裏切者を全員殺害するという誓いを立てた過激な極右集団の熱心党のシモンの名前がある。つまり、一緒にいればすぐにシモンがマタイを殺害するという殺人事件が起きそうな一触即発の状況になるはずの2人がイエス様の使徒の中で名前を連ねている。2人が一緒にいられるのは全面的にイエス様による。イエス様は平和の君であって、敵意という隔ての壁を取り壊すお方だ。エフェソ2:14-16。相容れない者たちがイエス様にあって一つになれる。それはイエス様による一致がほかのどんな党派による結びつきや対立よりもずっと強力だからだ。十字架以上に強い結びつきをもたらすものは何もない。

第三に、イエス様を裏切る人が選ばれている。16節を見るとイスラカリオテのユダがいる。イエス様を銀貨30枚で裏切った人だ。この人もイエス様が徹夜祈祷をささげた上で選んだ。イスカリオテのユダの存在は私たちに対する強い警告となる。主御自身が選んで任命した人の中にも裏切り者が出た。ユダが選ばれたのはもちろん失敗ではなく、いろいろと理由があるがその一つには私たちに対する教訓があるだろう。主の選びと招きは、全自動ですべてがうまくいくことを保証するものではなく、私たちの誠実な応答がそこに欠かせない。私たちはユダのようにならないと決意しよう。何があろうと主を裏切ることのなく、一生涯主に忠誠を尽くすようにしよう。

17節。イエス様は山から下りて、平らなところにお立ちなった。そのため、20節からの説教のことを平地の説教という。マタイによる福音書5章から7章までの山上の説教とは非常に似ているが、語った場所だけでなく、内容も長さも微妙に違うので、別の説教だということができる。平地の説教の特徴は、神の公平さを語っている点だ。平地の説教の内容がわかっていれば「この世は不平等だ!」と訴える必要はない。神は霊的な賜物や将来の取り扱いによってバランスをとってくださる。自分が不幸だと思っている人は、イエス・キリストを信じよう。イエス・キリストは不幸な分、霊的な祝福を豊かに与えてくださる。

平地の説教を聞く民衆の内訳はユダヤ全土とエルサレム、さらにはティルスやシドンの海岸地方と書いてある。このことから、イエス様の名声は初期のころよりもずっと広まっていることがわかる。イエス様はこのときガリラヤにいたので、民衆の中にはガリラヤの人々も当然いただろう。イエス様の名声はもはや地元のガリラヤだけではおさまらなくなった。ユダヤといえばユダヤ人の信仰上最も重要な地域だ。エルサレムは主の神殿を置くために選ばれた聖なる都だ。ガリラヤの田舎とは違う。イエス様はユダヤとガリラヤで名声を得ていたので、サマリアを除けばイスラエル全土で人気があったということ。ティルスとシドンは外国だ。イエス様の人気は外国に住むユダヤ人や異邦人の耳にも入っていた。通信機器の全くない時代、ただ口頭の口コミだけイエス様の人気は広まった。イエス様すばらしい。今やあらゆる方法であらゆる場所に通信することができる時代に私たちは生きているので、今はもっとイエス様のすばらしさを伝えることが簡単だ。私たちがイエス様の広告塔!もっともっとイエス様の名声が広まるように宣べ伝えていこう!

18-19節。人々が集まった目的はイエス様の教えを聞き、病気を癒していただき、悪霊を追い出していただくことだ。ここで癒しと悪霊からの解放を経験するためのヒントを見ることができる。イエス様の教えは癒しと解放のために有益だ。イエス様の権威ある教えは私たちの信仰を強め、悪霊を弱めることになる。聖書を読むだけで、あるいは誰かが朗読してあげるだけで病気が治る人がいる。精神病が癒されたり、不治の病が癒されたりするという事例がある。イエス様の御言葉には大きな力がある。次に、癒しを受けようとする人には熱心さが必要だ。19節では「何とかして」と書いてある。これはゼテオーというギリシャ語が使われていて、欲求する、努力する、探し求めるという意味がある。癒しを願うなら、癒されるまで何とか主に癒していただこうと願い求め続けることが必要だ。最後に、癒しの祈りをする人は相手に触れることが効果的だ。19節で人々はイエス様に触れようとした。イエス様から力が出て、病気を癒していたからだ。癒しの祈りをする人は、当然クリスチャンでなければならないが、クリスチャンであればイエス様と同じように聖霊様がその人の内におられる。癒すために触れることは必須ではないが、癒す相手に触れることで聖霊様の力が相手に働きやすい。癒しのための祈りはクリスチャンであれば誰でもできる。もし周りに癒しを必要とする人がいれば、癒しの祈りを実践してみよう。そのとき、祈る側にも、あきらめずに癒しが起こることを求める信仰が必要だ。5回、10回祈って何も起こらなかったとしても、100回でも1000回でも祈ろう。いつしか毎回のように癒しが起こるようになると信じる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました