ツィバの中傷、シムイの呪い、フシャイのスパイ活動[サムエル下16章]

サムエル記
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何かをきっかけに人々の心の中にあったものが出てくるということが起こります。
ダビデに対して真の友情と忠誠を示した人々もいましたが、欲望、呪い、プライドなどの問題が明るみになる人々もいました。隠れたもので、明らかにならないものは何一つありません。あなたからは何が出てくるでしょうか?

ツィバの中傷、シムイの呪い、フシャイのスパイ活動[サムエル下16章]


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【ノート】
お金があり、権力があり、勢いがある人には、人々がついてくるのは当たり前だ。その人が落ち目になったときに、人々の心にあったものが明らかになる。ダビデの家臣、異邦人の兵士たち、祭司たち、アルキ人フシャイはダビデの真の友人であり、偽りのない忠誠を誓っていたことが明らかになった。16章では、利益目的でダビデを支援する者とここぞとばかりにあからさまに呪ってくる者が出てくる。私たちの心からは、どんな思いが出てくるだろうか?忠誠か、欲望か、呪いか、高慢か。
1-4節。都落ちするダビデに対してツィバが食糧を持ってきてくれている。それに対してダビデは、用心深く「お前はこれらのものをどうするのか」と確認している。ツィバは長年仕えてきた家臣たちと違って、ダビデに対する恩や忠誠心があると思えない。実際、ツィバは純粋にダビデを助けようとするのとは別の魂胆があった。ダビデはメフィボシェトがいないのを不審に思って尋ねると、メフィボシェトがエルサレムにとどまって、アブサロムの謀反をサウル家復権のチャンス到来ととらえているといった。後でわかるが、これは嘘だ。ツィバはメフィボシェトを中傷してメフィボシェトを失脚させ、メフィボシェトのものを奪取してやろうという魂胆があったのだ。ところが、ダビデはその魂胆を見抜けずに、メフィボシェトに失望し、メフィボシェトのものを全部ツィバのものにしてよいと即決してしまう。ツィバはまんまとうまくいったと、ほくそ笑んだだろう。このことから二つのことを学ぶことができる。

第一に、姿の見えない主人に対して不忠実になってはならない。どうしてツィバはメフィボシェトを裏切ってしまったのだろうか。それまで忠実にサウル家に仕えていたはずなのに。それは、ツィバとメフィボシェトは関係が薄かったからだろう。メフィボシェトはずっとエルサレムにいて、ツィバはサウルの地所を管理していた。直接会う機会がほとんどない。ツィバとしては、姿の見えない主人のためにひたすら地所を管理することをおもしろくないように思った。メフィボシェトに忠実であることに限界を感じ、財産に目がくらんで主人を裏切ってしまった。そうして、ツィバは不忠実な管理人になってしまった。私たちにも、姿の見えない主人がいる。我らが主イエス・キリスト様だ。もちろん、姿が見えなくても私たちはその方と固い絆で結ばれていて、いつでも交わりを持つことができる。しかし、もしその方との交わりをおろそかにするならば、そして、奉仕活動ばかり山ほどするなら、私たちもいつしか忠実に仕えることに限界を感じるようになりかねない。救っていただいた恩を忘れて、世の富や誘惑に心を奪われて主人を裏切りかねない。そんなことのないように、イエス様との個人的な交わりを絶やすことのないようにしよう。祈りで楽しくイエス様と交わり、聖書を開いて主の御声を聞こう。

第二に、陰口を鵜呑みにしてはならない。ダビデはメフィボシェトから直接聞いたわけでもないのに、ツィバの言葉だけでメフィボシェトを断罪してしまった。今まで人から何度も裏切られる経験をしてきたからだろうか。こういうことはしてはいけないということは、ヨハネ7:51にも書いてある。私たちも本人に事情を聞く前に早合点して人を断罪してしまうことはないだろうか。誰かが悪く言うのを鵜呑みにしたり、悪霊にそそのかされて勝手に人の行動が悪意のあるものに解釈したりしてしまうことはないだろうか?悪霊は古傷につけこんで人を悪く見えるようにそそのかす。悪霊どもはそうやって関係を引き裂き、交わりを破壊するのを好んでいる。悪霊どもの手に乗ってはならない。イエス様は誰よりも中傷され、裏切られたが、それでも、執り成す者であられた。
執り成すというのは、イエス様が十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたように「何らかの事情がある」ということを思い計ることだ。悪くとらえるのではなく、良くとらえることだ。イエス様がそうだったように、私たちは裁く者ではなく、執り成す者として召されている。人や悪霊が語る陰口を鵜呑みにせず、執り成す者になろう。本人から事情を聞いてから判断する者になろう。

5-14節。シムイがダビデを呪っている。ダビデが絶対王者として君臨しているときには、シムイはずっとおとなしくしていた。ダビデが落ち目になったのを見て、「それ、今だ」と言わんばかりに散々たたきまくっている。こんなふうに人が弱るのを見計らって悪口を言うことは、卑怯者のすることだ。主もそれをお喜びにならない。箴言24:17-18。ある意味シムイはここでダビデを試すために主に用いられているが、シムイ自身が後でこのことについての報いを受けることになる。呪う者は呪われる。詩編109:17。私たちは悪口、陰口、批判をやめよう。それらはブーメランのように戻ってくることになる。呪いは何でも慎まなければならないが、特に呪ってはならない存在がある。創世記12:3。これはアブラハムに対する約束だ。アブラハムは祝福されていたので、神が祝福された者を呪うと、呪いを招く。クリスチャンはアブラハムの子孫として祝福された者だ。クリスチャンを呪う者は、特に呪われることになる。クリスチャンを呪うことは絶対にやめよう。互いに祝福し合う者になろう。
そもそも、シムイがここで言っていることは、事実ではない。ダビデはサウル家の人々の血を流して王位を奪ってはいない。サウルにも、その息子たちにも手を下したことはなかった。ペリシテ人や自らの家臣の手によってサウルと息子たちは死んだ。ダビデもそう反論することもできた。また、落ち目とは言え、左右を武将たちが固めている。何もできまいとシムイは見くびっていたが、アビシャイがしようとしたように、その気になればシムイの命を奪うことは造作もなかった。しかし、ダビデは反論しないし、アビシャイにストップをかけている。それは、「主の御命令で呪っている」と思うからだ。確かに、サウル家については流血の罪を犯していないが、ウリヤの血を流した。また、「主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ」というのはダビデも認める事実だった。「わたしの身から出た子がわたしの命を狙っている」というのはダビデが主の祝福から外れた状態にあるということを意味する。シムイがダビデを呪うのも、その結果起こったことだ。そこで、主がお許しになったこととして、シムイの呪いをひたすら耐えている。主がお与えになる者であれば、祝福であれ、呪いであれすべて受け入れようと、主に身をゆだねている。これこそが完全な明け渡しだ。主は憐み深い方なので、御自分にすべてをゆだねている者が苦しみ続けるのを見るに忍びない。必ずや呪いに代えて幸いを返してくださる。今ではイエス様が十字架ですべての呪いを身代わりに受けてくださったので、祝福しかない。しかし、試練はある。主のために苦しむということはある。私たちは試練や苦しみを含めて主から与えられるものを何でも受け入れるという完全な明け渡しをする者となろう。

15-20節。アブサロムは難なくエルサレムに入城できた。無血開城だ。激しい攻城戦も覚悟していたのにこうもとんとん拍子にことが運ぶとは思わなかっただろう。そこへフシャイが現れて「王様万歳、王様万歳」と熱烈な歓迎をする。フシャイはダビデから与えられた「お前は私のためにアヒトフェルの助言を覆すことができる」という預言を信じて、役になり切っている。アブサロムはフシャイの薄情さを非難し、寝返った理由を尋ねると、見事な理由付けが出てきた。
第一に、兵士とイスラエル全員が選んだアブサロムが王になるべきだ。第二に、アブサロムは王子なのだから、ダビデから王位を合法的に継承した。だから、ダビデに仕えたようにアブサロムに仕えるのだというものだ。実際には、この理由付けはどちらも正しくない。イスラエルは神の国なのだから、王は人間が選挙や人気投票で選ぶのではなく、神が選ぶのでなければならない。そして、王位は武力によって簒奪した非合法のものだった。この点クリスチャンは天地創造の前から神に愛され、選ばれている存在であり、神によって合法的に王に立てられている。
しかし、アブサロムにはちょうど自分の謀反が非合法的だと責められる恐れがあったので、フシャイの言葉はアブサロムにとって好都合だった。人間というのは真理かどうかではなく、嘘であっても自分にとって好都合なことを信じたいという傾向がある。そして、フシャイの言葉はアブサロムのプライドを満たすものでもあった。全イスラエルが自分を選んだ、フシャイも自分を選んだ、自分はなんて人望の厚い人間なのだ!そこで、アブサロムはすっかりフシャイを信じて、すぐに自分の顧問に立ててしまっている。何もかもとんとん拍子で進むからという油断もあっただろう。箴言16:18。信じたいものばかり信じていると、人や悪魔の嘘に簡単にだまされてしまう。私たちは聖書に書いてあることをそのまま信じよう。聖書は真理だから、真理を知れば嘘を見破ることができるようになる。そして、真理は私たちを罪意識やプライドの問題から本当に自由にする。

それにしても、いきなりフシャイを顧問に立てるとは、あまりにも信じてしまいやすすぎではなかろうか。ここからアブサロムの周りを固めていた人々の在り様がうかがえる。アブサロムは目的も告げずに人を集めるというやり方をした。騙し討ちのような、詐欺のようなやり方だが、それでも、勝ち馬に乗れとばかりにイスラエル中からの支持を得ることができた。しかし、人の集め方が集め方だけにアブサロムは自分の周りを固める人々のことを全然信頼できなかった。人数は多くても、烏合の衆だ。急ごしらえの陣営だ。訓練されていない。連携できない。ダビデの家臣たちとは大違いだ。そこで、はっきりと自分に対する忠誠を表明したフシャイがいきなり顧問に大抜擢されるということが起こったのだ。教会では、信仰に入って間もない人を監督の役職に立ててはならないと書いてある。また、誰彼なく手を置いて任命したり権威を与えたりしてはならないと書いてある。信頼に足る人物が立てられるまでには時間が必要であり、じっくりとした弟子訓練がなければならない。しかし、時間をかけても人物が立てられなかったらどうしようと思うだろうか?心配はいらない。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われた。願えば、必ず働き手が与えられるということ。

21-23節。アヒトフェルがアブサロムに最初の助言をしている。王のそばめたちと関係を持つことだ。アブサロムは気を良くしたが、アヒトフェルは、フシャイの言葉を聞いても冷静だ。アヒトフェルはこれまでなんとなくアブサロムに従ってきた兵士たちの心がまだいつ豹変してダビデにつくかわからないということを見抜いていた。そこで、アブサロムにつく者たちの決意を確かなものとするために、ダビデとの対立を修復不可能にするべく、そばめたちのところに入るようにしたのだ。これはナタンの預言の通りだ。アヒトフェルの助言はこのように的確だったので、アブサロムからもダビデからも神託のように、つまり、神の御言葉のように受け取られていた。アヒトフェルは預言者でもないのに、その言葉を御言葉と同列視するというのは問題だ。
アヒトフェルは託宣のようにとらえるのをやめさせて、へりくだるべきだった。アヒトフェルもプライドの問題を抱えている。そこで、神はダビデの預言通りにアヒトフェルの助言を覆すようになさる。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

誰が敵で誰が味方かわからない、形成がどう転ぶかまだわからない状況にダビデとアブサロムはあった。しかし、2人の態度には明確な違いがあった。アブサロムは人を集めることに執着し、全イスラエルから選ばれた、フシャイから選ばれたということで人間に選ばれることで気をよくしたが、ダビデは人の支持を求めずにひたすら主おひとりの御心に全部をゆだね、主に気に入られようとする態度を示したことだ。このことがそのまま二人の行く末に反映されることになる。私たちは人からの人気を求めず、主おひとりの御心に全部をゆだねる者になろう。

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