ダビデは敵と戦い続ける生涯でしたが、召命を全うするまで生き残りました。
クリスチャンもまた敵との戦いに絶えず身を投じる生涯です。ここに敵を逃れ、勝利し、救い出していただく秘訣があります。
主は私の岩、砦、逃れ場、神、大岩、避け所、盾、救いの角、砦の塔[サムエル下22章]
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【ノート】
22章は、敵からの救いを歌った歌だ。詩編18編でもほぼ同じ内容が載っているが、22章はサムエル記に載っている内容だ。私たちは、ダビデがサウルに追われ続け、ペリシテ人やアマレク人と戦い続けたが、敵の手に落ちることなく最後まで生き残ったことを知っている。多くの奇跡の連続によってダビデの命は助かった。その時に霊的な世界において一体何が起こっていたのかということを描写している。
1-4節。22章の概説だ。1節では、「ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に」とある。あえてサウルだけ名指しなのは、すべての敵の中でも「特に」サウルから救い出されたことを歌っているということ。
2-4節で、私たちがどうすれば敵から救われるのか、その秘訣がいきなり書かれている。まずダビデは神様のことを9種類の言葉で表現。主なる神様は、私たちのあらゆる必要になってくださるお方だ。自分に何かの必要がある、何かが欠けていると思えるとき、そのすべては主なる神様の中に見出すことができる。ダビデはこの9種類の表現の中で、主なる神様のことをおもに敵から隠してくださる、守ってくださる方として歌っている。ダビデは10年くらい、サウルから逃げ回った。捕まりそうになる寸前で助けられたことが何度もあった。10年間もずっと命を狙われ続ける状況にあったら、どうする?身を守る手段がなかったら気が狂ってしまうだろう。実は、すべてのクリスチャンが、命を狙われ続けている。敵は私たちを攻撃し、つまずかせて信仰を失わせ、命を奪い取ろうと隙を狙っている。しかも、ずっとだ。何の対抗手段もなかったら、正気ではいらない。いつも恐怖に取りつかれていなければならなくなる。しかし、幸い、私たちには完全な対抗手段がある。ダビデが宣言したように、主こそが私たちを隠してくださる。逃れさせてくださる。守ってくださる。そればかりでなく、敵を打ち破って勝利を与えてくださり、不法から救ってくださる。これは言わば、信仰の大盾で悪魔の放つ火の矢を防げるだけでなく、イエス様の御名で悪霊どもを縛り、追い出し、解放と自由をもたらすことができるということ。
それでは、いったいどうすれば敵の攻撃にさらされているときに、守り、勝利、救いを得られるのか?4節にある通り、主を呼び求めることだ。呼び求めるだけだ。なんて簡単なことだ。大前提として、イエス様はいつも私たちと共にいてくださる。だから、寝ても覚めても私たちは大丈夫だ。その上で、苦難の時や戦いの時にイエス様を呼び求めると、イエス様が守ってくださる。戦ってくださる。勝利を与えてくださる。救い出してくださる。ただひとこと「イエス様」と呼ぶだけでも良いだろう。あるいはダビデのように、主を今必要としている性質で呼ぶのも良いだろう。「今は長く祈れないから呼び求めることは無理だ」なんていうことは絶対ない。緊急事態に陥っているなら、ただひとこと呼び求めるだけでも、主は十分こたえてくださる。主を呼び求めよう。主を呼び求めて逃れ、勝利し、救い出される者になろう。
5-7節。5-6節で、死に取り囲まれていることが4つの表現で描写されている。絶体絶命の状況だとわかる。絶対にどうしようもない状況の中でも、助かるためにできる唯一のことは、主を呼び求めることだ。そうすると、その声は、すぐに第三の天の主の神殿に響き、主の御耳に届く。祈りの声というのは、全部主に聞かれている。肉の耳で聞こえる範囲では言葉はすぐに空中に消えるはかないものだが、霊的には光よりも早いスピードで神様のもとに届き、主が臨在しておられる場所に響き渡る。そして、主は霊肉両方の次元で誰よりも耳の良い方。あなたが祈るとき、主は全部聞いておられる。だから、安心して祈りなさい。信仰をもって祈りなさい。あきらめずに祈りなさい。
8-16節。主の威厳に満ちた降臨だ。主は怒りをあらわにされている。その怒りのあまり天地が揺れ動く。御口から炎が燃え盛る。降臨するときには天を滑り台のように傾けて降られる。栄光の臨在を示す密雲とケルビムという天使を使役して来られる。闇、暗い雨雲、霧を幕屋として住まわれる。雷鳴を響かせて、御声をあげられ、矢が飛び交い、稲妻が散乱する。さらには、主が怒ってしかりつけると海が渇いて底まで見えるようになる。恐ろしい有様だ。しかし、私たちにとっては全く恐ろしくない。なぜなら、この怒りは私たちに向けられたものではないから。私たちの祈りに答えて、主が私たちの敵に向けてくださるものだから。主はたった一人の祈りに答えて、ここまで怒り、力強く臨んでくださるのだ。あなたが主を呼び求めると、主はあなた一人のためにここまでしてくださる。何と頼もしいことか。主なる神様にとって、あなた一人の存在がそこまで大切だということを覚えよう。どうしてあなたにそこまでの価値があるのかは17-25節で明らかになる。
17-20節。主の救いがどのようなものかがわかる。17節で「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる」とある。天からの御手につかまれて、溺れそうな状態から救われる。これはダビデ自身の努力とか、能力を必要としそうか?全く必要ない。神様はあなたの努力や能力を全く必要とせずにあなたを天から御手であなたをつかみ天に引き上げるように救ってくださる。一方的に救ってくださる。しかも、18-19節にある通り、この時に、敵にどれほど力があろうとも、災いの日と言えるほど最悪な日であろうとも、関係なしに救い出してくださる。クリスチャンにとって、敵の強さは関係ない。悪霊がどれほど強くても、病気や怪我がどれほどひどくても、主があなたを救い出す上で何の影響もない。主はどんな悪霊からも病からもあなたを救い出し、癒してくださる。また、クリスチャンにとって、厄日とか、厄年というのは関係ない。クリスチャンにはいつも主が共におられるので、祝福された日しかない。20節は新改訳第三版では「主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから」とある。広い所というのは敵の攻撃の及ばない安全地帯だ。それは神の教会であり、主の臨在のあるすべての場所だろう。
そして、「主が私を喜びとされたから」というのが助け出された理由となっている。これは、イエス様が水のバプテスマを受けられたときに父なる神様が語られたことに含まれている。ルカ3:22。新改訳第3版だと、「私はあなたを喜ぶ」となっている。神の子は、いつも父なる神様から喜ばれている。そして、クリスチャンは神の子だ。このことから、神様から喜ばれている人が、神様から救っていただけるのであれば、クリスチャンはいつも神様から救っていただけることがわかる。クリスチャンは神の子であり、神様にいつも喜ばれているから。あなたはクリスチャンか?そうであれば、あなたはいつも神様に喜ばれているので、いつも敵から救っていただくことができる。
21-25節。主は信仰者の正しさに報いてくださる。主に喜ばれていて、救っていただけるのは、正しいからだ。イエス・キリストを信じる者は、信仰によって義とされる。イエス様のように完全に正しい者とみなされる。イエス様の正しさが、私たちに転嫁される。そして、イエス様を信じる者は聖なる者とされている。いつも、あなたは主の御目に清いのだ。そして、正しい者とされ、聖なる者とされた者は、聖なる者にふさわしく歩む。22節では、「主の道を歩み、私の神に背かない。」神様が何かを示されたら、単純にその通りに従うということ。23節では、「私は主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。」これは聖書の御言葉に親しむということ。聖書を読みなさい。朗読しなさい。つまみ食いするのではなく、通読を何度もしなさい。
24節では「私は主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。」罪を避け、正しく生きることに意思を向けるということ。
26-28節。主は人の在り方に従って報いる。サウルに対してそうされたように。また、ダビデに対してそうされたように。すべての人に対してその在り方に従って報いる。主は公平なお方だからだ。これらの内容は山上の説教の八つの幸いに通じる。心の清い者であろう。へりくだった者であろう。主がその在り方にふさわしく報いてくださる。
29節。主はあなたの闇を照らしてくださる。もともとは闇だった。絶望の闇に閉ざされ、罪の泥沼に沈み、何のために生きるかもわからず手探りで歩むしかなかった。しかし、主にあって、あなたにはいつも希望の光がある。あなたの人生には目的がある。あなたには天国と永遠の報いというすばらしい将来の見通しが見える。
30節。それまでは敵から守られる、救い出されるというところに主眼が置かれていたが、救われた者は攻勢に出るようになる。敵を追い散らす。すると、敵は城壁の中に逃げ込む。ところが、神の子はその城壁を飛び越えて、敵の城を攻め落としている。これはイエス様が陰府の力もこれに対抗できない、すなわちハデスの門を打ち破ると言われた通りだ。神の教会はハデスの砦を落として、捕らわれている人々を救出することができる。
31-35節。31節で、火で練り清めるというのは、不純物を取り除くということ。主の御言葉には不純物が全くない完全なものであるということ。聖書を読んで信仰を強めると、主による御守りを確かなものとし、平安に満たされる。この主だけが神であり、どこまでも主だけに依り頼む。神はあなたの人生を完全な道に導く。34節では鹿が出てくる。鹿は足が速いし、急な斜面も上って高いところに行くことができる。あなたは霊的に急成長し、キリストの満ち溢れる豊かさにまで到達できる。しかもそこに立ち、とどまることができる。35節。主はあなたに霊的戦いで勝利する技術と力を教えてくださる。
36-43節。主が敵に対して、圧倒的勝利を与えてくださるということ。すべての敵の勢力を滅ぼし尽くし、完全に屈服させる。私たちには主がついている。しかし、敵には主がついていない。42節の通り、だから主に叫んでも答えがない。これはもう戦いというより、力の差がありすぎてあまりにも一方的な蹂躙になる。敵が可哀想になるくらい、サタンが可哀想になるくらい勝利してしまう。
44-46節。これはダビデに起きたことではあるが、千年王国を建国する時に、イエス様と教会が反キリストの軍勢に対して実施することの預言でもある。その日、全世界がイエス様の御名にひざまずくことになる。
47-51節。救いと勝利への感謝と賛美だ。最後の部分で神の救いの永遠性が歌われている。とこしえまでと。一時的なものではないのだ。奪われてしまうものではないのだ。イエス様にあって私たちに与えられる御守り、命、救い、勝利は永遠に続く。主をほめたたえよう。感謝をささげ、御名をほめ歌おう。ハレルヤ。
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