神の子たちが完全に一つになるとはどういうことか、3つのポイントで学びます。
神の子たちの交わり【後編】
【ノート】
クリスチャンは神の子とする御霊を受けた者。神の子だ。聖霊様は私たちの霊と一緒に私たちが神の子であることを証ししてくださる。聖霊様と共に証ししているか?〇〇は神の子だと証ししよう。毎日そうしよう。神の子とされるということは、イエス様を信じた瞬間からとってつけたように神の子になるのではない。本当は全然違うのに、神の子とされるのではない。本来、人は神の子だった。元々、人は神の子だった。なぜなら、アダムは、神の子だったからだ。ルカ3:38。新改訳第三版では、最後の部分は「このアダムは神の子である」となっている。アダムは神の子だった。しかし、罪を犯して神から離れてしまった。人類は皆、放蕩息子のように父なる神様の家から家出してしまった存在になった。そこで、御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架で死なれた。そのイエス様を信じるとき、すべての罪が赦されて神の子とされる。私たちが神の子とされたのは、本来の姿への回復なのだ。だから、神の子であるということは私たちにものすごくなじむことだ。私たちのありのままの姿は、神の子だ。神の子は聖霊様に導かれ、聖霊様の力によって生きる。自分の力ではできないこともできる。そして、神の子供たちは互いに兄弟姉妹であり、神の家族である。私たちは互いに愛し合い、完全に一つになるように召されている。完全に一つだ。では一つになるということの中にはどのようなことが含まれるのか?一つになるということを三つのポイントに分解しよう。
第一に、互いに愛し合い、一つになるということは、互いに受け入れ合うということ。Ⅱコリント6:11-13。受け入れるというのは、相手の全存在を受け入れる。相手がどんな性格であろうが、受け入れる。相手がどんな罪を犯したことがあろうが、受け入れる。相手がどんな傷を持っていようが、受け入れる。相手がどんな過去を持っていようが、受け入れる。相手がどんなコンプレックスを抱えていようが、受け入れる。自分のこの部分についてはさすがに嫌われてしまうのではないか、と相手が思う部分があっても受け入れる。相手の全存在を受け入れる。ありのままを受け入れる。
これはイエス様がなさっていたことだ。マルコ1:40-42。イエス様は重い皮膚病を患っている人に触れられた。癒しをするために触れる必要があったのか。なかった。触れなくても癒しは起こる。しかし、イエス様はあえて触れた。重い皮膚病を患っている人は、社会から隔離されてしまう。家族も友人も近寄らなくなる。誰からも触れられるどころか、遠ざけられ、疎まれることになる。にもかかわらず、イエス様が深く憐れんで、そのときタブーと思われていた重い皮膚病の人に触れたのは、その人を全部受け入れる。全存在を受け入れるというはっきりとした愛の意思を示す行為だった。普通は汚れた者に触れると汚れてしまう。しかし、神の子が触れると汚れた者が清くなる。これはあなたにも起こることだ。あなたが神の子としてアイデンティティーをはっきり持つなら、あなたは汚れた人を遠ざける必要がなくなる。汚れた人を清くすることができる。相手を感化できるようになる。だから、神の子として、恐れることなく、人々を受け入れよう。
イエス様は誰も厳しいメッセージを語られたが、にもかかわらず大勢の罪人がイエス様のもとに集まった。徴税人や売春婦といった人々が集まった。なぜか?イエス様は誰も広い心ですべての人を包み込んでおられたからだ。罪人はイエス様の愛の包容力を経験した。罪人たちはその愛に触れて心砕かれて、みんな喜んで悔い改めた。厳しい叱責が人を悔い改めさせるのだろうか?そういうこともある。しかし、イエス様を通して悔い改めた人々はそうではなかった。ローマ2:4。憐れみ、慈愛、寛容、忍耐によって受け入れられた人は、変えられてしまうのだ。
でも、責めるべきことがあったら、厳しく責め立てなければならないのではないか?意外にも御言葉はそう言っていない。コロサイ3:13。責めるべきことすら、赦しなさいと言われている。もちろん、指摘することが必要なこともある。指摘することも愛だ。しかし、「この点があるからあなたのことは受け入れられない」ということが絶対にない。相手を受け入れている前提での指摘なのだ。何があろうと相手の存在を受け入れる。受け入れ合おう。主が私たちを受け入れてくださっているように受け入れ合おう。
第二に、互いに愛し合い、一つになるということは、互いに相手を優れた者と考えることだ。フィリピ2:3-5。クリスチャンは、成長すればするほど、謙遜になり、他のクリスチャンを自分よりも優れた者と考えることができるはずなのだ。クリスチャンは成長すると、聖書の知識が増し加えられ、神の奥義がわかるようになり、あらゆる不義から清められていき、愛のあふれる人になる。多くの人々を救いに導き、強力なリーダーシップを発揮するようになる。献金を惜しみなくささげて経済的な祝福を受けることを体験し、聖霊様の賜物が豊かになり、様々な奇跡を経験するようになる。預言を語り、悪霊を追い出し、病人を癒し、死人を生き返らせる。そんなに優れた者に成長したのに、イエス様を信じたばかりの人を自分よりも優れた者と考えることができるというのか?できる。私たちはこの点について、「いや、さすがに私はすでにこの人たちよりも優れている」という態度を取ってはならない。
なぜなら5節にある通り、これはイエス様に見られるものだからだ。イエス様よりも優れた方がいるか?いない!誰もいない。そのイエス様が、クリスチャンの兄弟姉妹のことを、私たちのことを自分よりも優れた者と考えておられた。どうしてそう言えるのか?イエス様が私たちのために死なれたからだ。イエス様は御自分よりもあなたの方が優れていると考えたからこそ、あなたのために死なれたのだ。フィリピ2:6-8。イエス様のへりくだりは、まず受肉に始まる。神なのに、人間になることによって人間と同じ水準にまでへりくだった。次いで、イエス様のへりくだりは死に至るまで人間として仕えることの中で現れる。イエス様はすべての人々のために仕えたが、すべての人々を自分よりも優れた者と考えられたのだ。最後にイエス様のへりくだりは十字架によって陰府にまで御自分を低くする。御自分の命よりも私やあなたの命の方が優れていると考えられたからイエス様は十字架で死なれた。もちろん、実際にはイエス様が最も優れている。そして、比較してしまえば、誰かが他のクリスチャンよりも優れているということはありうる。それでも、イエス様がそうされたように、互いに相手を自分よりも優れた者と「考える」ことはできる。事実はそうではないことがあったとしても、「考える」ことはできる。真のへりくだりは相手の方が優れていると考えさせる。
へりくだる者はあらゆることから学び、成長することができる。マタイ10:16。イエス様は「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」と言われた。蛇というのは、悪魔のことだ。悪魔からすら、その優れた点を学ぶことがあるということだ。ルカ16:8。この世の子らは未信者、光の子らはクリスチャンのこと。未信者からも、学ぶことがあるということだ。謙遜の学びの最たる点はマルコ10:14-15。子供は当時、完全に無視されていたし、大人の所有物とされていた。そして、確かに、子供は能力、人格、経験、あらゆる点で、大人よりも不足しているに違いない。しかし、イエス様は神の国を受け入れるという点について、子供に大いに学ばなければならないと言われたのだ。それであれば、ここに兄弟姉妹たちすべてから、私たちは学ぶことができるはずだ。へりくだって、すべての人から学ぶ者となろう。
第三に、互いに愛し合い、一つになるということは、互いに犠牲し合うということ。犠牲というのは、自分のもっている何かをもって相手を祝福すること。相手のために時間を割く。時間は取り戻すことができないので貴重だ。時間=人生だ。それだけに時間を共にするというのは愛の表れの最たるものだろう。その他に、献金やプレゼントなどの金銭的な犠牲をする。問題解決のために労苦する。執り成して祈る。恵みの言葉をかける。知恵深いアイデアを出す。何らかの霊的賜物や能力を用いて奉仕をするなどが挙げられる。
犠牲という言葉を使ったが、愛は犠牲を犠牲と思わせない。つまり、神の子にとっては、愛する相手のために犠牲することは、喜びなのだ。愛する者のためなら、時間も、お金も、労力も、何も惜しくない。愛しているから、与えることが喜びなのだ。嫌々、不承不承することであれば、そのために労苦するとすぐに疲れてしまうだろう。しかし、自分にとって喜びのこと、楽しいことのためにすると、なかなか疲れない。夢中になってしまう。どんどん力が湧き出てきてしまう。
そして、与える者は祝福を体験するので、ますます与えることが喜びになる。使徒20:35。頼んでもいないのに、兄弟姉妹たちの中には料理を作るという人、お花やおみやげを買ってくる人、席の配置を考えてくれる人、マラカスを買ってくる人などいろいろな人がいる。どうしてそれをするのか?愛する兄弟姉妹のために何かをすることに大きな喜びがあるから、祝福があるから、進んでしたくなるのだ。病みつきになるのだ。
初代教会ではすべての持ち物を共有にしたし、土地を売って代金を分け与える人までいた。神の家族を愛していて、一つになっているので、兄弟姉妹のためにすることは自分のためにすることに等しい、いや、それ以上に嬉しいことなのだ。愛はそのように見える形で現れるようになる。犠牲という点も、やはりイエス様に見出すことができる。私たちが神の子としてすることの全部はイエス様に見出せる。Ⅰヨハネ3:16-18。ハレルヤ、このように、実際的に愛する者になっていこう。
安心してほしい。負担に思わないでほしい。これらは誰も強いられてするのではなく、進んですることだ。神の子としてアイデンティティーの中で、聖霊様に導かれてすることだ。聖霊様が私たちを導き、私たちに力を与え、愛の実践ができるようにしてくださる。
神の家族の交わりの中で、最高の人生を共にしていこう。
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