神に従って人を治める[ サムエル下23章]

サムエル記
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イスラエルの黄金時代を築いたダビデの最後の言葉には、
ダビデが人生を通して神様から与えられた教訓が凝縮しています。

神に従って人を治める[ サムエル下23章]


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【ノート】
23章は二つのトピックス。1-7節はダビデの最後の言葉だ。1節。最後の言葉ということは、遺言のような言葉だ。この地上を去るとき、最後に遺す言葉を語るとしたら、何を語るだろうか?もしじっくり考える時間があれば、どうでもよいことは絶対に語らないだろう。考え抜き、選び抜かれた本当に重要な言葉を語るだろう。ダビデは、羊飼いでありながら神様から油注がれてイスラエルの黄金時代を築いた王だ。人の力ではなく、自分の力でもなく、神によって高くあげられ、油注がれた人だ。その壮大の人生を凝縮した珠玉の言葉をここで語るのだ。しかも、後継者のソロモンや一部の近親者だけに対する遺言ではない。歌にして、私たちすべてに対して信仰者としての教訓を遺してくれている。しかもダビデはここで主から授かった言葉を語っているので、これは神の言葉だ。もちろん聖書全体が神の言葉なのだが、ここには霊感が凝縮されている。

それはどのような類の教訓か?ダビデのように貴く用いられる王になるための教訓だ。2-5節。3節でいう「神に従って治める者」が朝の光のように世を照らす上で用いられるということが書いてある。そして、神に従って治める者として貴く用いられた人生の実例をダビデの人生に見ることができる。ダビデは、人々に光をもたらす王になるための教訓を語っているのだ。これはまさに私たちに必要な教訓だ。クリスチャンは皆、王だ。そのことはⅠペトロ2:9に書いてある。イエス様の愛をもって人々を支配し、神様の御国を拡大する。また、クリスチャンは世の光だ。暗い世に閉ざされた人々を照らす、良い影響力を与えるリーダーシップを発揮する者だ。あなたがいることで、そのグループが良くなる。活性化される。祝福される。あなたは主にあって世界を変えることができる。
ダビデは私たちに世の光として、また王として貴く用いられる秘訣を語っている。それは神に従って人を治めること、神を畏れて人を治めることだ。治める者は人を従わせるが、自分自身も従う者でなければならないのだ。権威のもとにある者が、権威を行使することができる。私たちは自分自身が神の権威に服従するとき、神から権威をいただいて治めることができるのだ。私たちが神の子として治める、支配するというのは、威張り散らすとか、相手を自分の意のままに操るとか、暴君のようにやりたい放題にするということではない。そうではなく、神の代理人として支配するのだ。神が支配するかのように神の御心を行うのだ。神は良いお方であり、神の支配は良いものだ。神が御言葉を語ると、すべてその通りになった。光あれで光が造られ、地は草を芽生えさせよ、で草は造られた。しかも造られたものはすべて良かった。神の支配下にある被造物はみんな幸せだ。そして、神は人間を造られたとき、「生めよ、増えよ、地に満ちて地を支配せよ」と言われた。これは神様が天を支配しているように、地を支配せよということ。イエス様は主の祈りの中で「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と言われたこともこれに通じる。
それでは、神に従って人を治めるには具体的にどうすれば良いのか?神様が言われることを聞いて、その通りに人々を治めればよい。つまり、神の御言葉を聞いて、その御言葉の通りに人々を指導するということ。ダビデは神様の御言葉を聞いていた。2節で「主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。」とある。ここでは主の霊と主の言葉という二つのことが書いてある。これは、簡単にいえば聖霊と聖書だ。聖霊様についていえば、いつも聖霊様に満たされ続けていることだ。祈りによる神様との豊かな交わりの時間が大切だ。聖霊様を悲しませないようにする。罪を犯したら悔い改めて、聖霊様の満たしをもう一度を求める。そうすれば、また満たされる。
そして、聖霊様が私たちに何かの思いを与えて行動を促すことがあれば、それによく聞き従うことだ。
聖書についていえば、聖書の御言葉に親しむことだ。毎日聖書を読む。自分の好きなところだけを読むのではなく全部を読む。そして、特に新約聖書、特に福音書を集中的に読む。また、ディボーションをする。一定の御言葉を繰り返し読んで深堀し、そこからいま自分に語られていることをつかむ。さらには、読んだ御言葉を生活の中で繰り返し思いめぐらし、口ずさむ。
聖霊様と聖書はコンビネーションで私たちに働きかける。聖霊様に満たされていると、聖書で今まさに自分に語られていることも、よくわかるようになる。聖霊様と聖書は同時に働いて私たちになすべきことを教え、導き、行動に駆り立てる。

それでは、神に従って人を治めるということと並列して書かれている神を畏れて治めるというのはどういうことか。私たちは神の御言葉だけでなく、自分の言葉、他の人の言葉、サタンの言葉など、様々な言葉を聞いている。では、最終的にどの言葉に従うようになるかといえば、自分が畏れている者の言葉に従うようになる。イエス様が人を恐れてはならない、魂と体を地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさいと言われたのはそのためだ。サウルは兵士たちを恐れた結果、神に背いてアマレク人を滅ぼし尽くしなさいという命令を果たさなかった。私たちがいろいろと飛び交う言葉に惑わされて右往左往して、リーダーシップがぶれぶれにならないようにするためには、神への畏れを持たなければならない。神を畏れ、神の御言葉をいつも第一優先にして治める者になろう。
そのようにして主が語られてことに従って、リーダーシップを発揮すること、これが王として貴く用いられる秘訣だ。ダビデの人生全体が、そのことを証明している。そして、多くのクリスチャンの先人たちの人生も、同じようにそのことを証明している。

4-5節では、神に従って人を治めることの祝福が語られている。4節では神に従って人を治める者のことを、太陽の輝き出る朝の光だと言っている。晴れ渡った日に、朝日が上るのを見たことがあるか?初めにあたりは暗闇に包まれている。しかし、だんだんと明るみが増していき、一条の光があたり一面を貫き、やがてはすべてが光に包まれるようになる。そして、雨の後に与えられる陽の光は、草木を健康的に成長させる。そのように、神に従って治める王に、治められた人々は祝福されるということ。人々は絶望の暗闇に閉ざされていたところから希望の光に満ちるようになる。イエス様による新しい命が次々と芽生え、成長していくようになる。愛する人々が祝福されていくことを見ることができるのは、すばらしい報いの一つだ。
しかし、治める者には、それとは別に報いが与えられる。5節。神様は御心に従って支配する者に、永遠の支配を保証してくださる。御国がこの地に完全に実現するときに、私たちはイエス様と共に支配する者となる。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

では、神に従って治めない者はどうなるのか?6-7節。神の御言葉に聞き従おうとしない悪人たちは根こそぎにされることになる。しかも、悪人たちは、自分たちが自滅するだけにとどまらず、自分を触れる者たちをもひどく傷つけてしまう。だから、いたずらに近づいてはならない。その人がどれだけ栄えていたとしても、最終的には火がすべてを焼き尽くして何も残らない。これはサウルやアブサロムに起きた。
8-39節はダビデの勇士たち。神の御助けと共に、人々の献身によって王国が成り立っていたことを忘れてはならない。これは教会についても言えることだ。栄光はすべて神のものだが、神は用いられた人々のことを取り上げることを惜しまない。教会を支える人々が賛辞を受けることは御心に適っている。あなたの教会にすばらしい奉仕者たちがいたらその人たちのことをほめてあげてほしい。
総じて言えることは、ここで挙げられている人々の数は決して多くないということだ。イスラエルという国全体を支える勇士たちでありながらも、ほんの数十人だけが取り上げられている。私は、ダビデがイスラエル全体の王になった後も、ダビデの軍団の中核を担う人々は大軍ではなく、少数精鋭だったと思う。これは日本の教会に希望を与えるだろう。たとえクリスチャンが1%程度の数しかいなかったとしても、ひとりひとりが精鋭になれば、残りの99%を祝福し、キリストのもとに導くことは十分可能だ。

8-12節。三勇士の活躍だ。彼らの特徴は何か?
第一に、一騎当千だった。ハクモニ人イシュバアルはたった一人で800人を刺し殺したし、他の二人も大人数を相手に勝利した。いくら強くても、一人で800人も倒すことはできるだろうか?実はできるのだ。実は一人で大軍を相手にできるということは約束されている。ヨシュア23:10。三勇士はこういった御言葉の約束を本気で信じていたのだろう。だから、人間の力ではできそうもないことを、主の御力によって可能にしてみせた。あなたは御言葉を本気で信じているか?本気で信じよう。自分も千人を撃退できると信じよう。イエス様がレギオンを追い出したように、悪霊の大軍を一人で相手にできると信じよう。そうすれば、その通りになる。また日本のクリスチャンの10%がこのことを信じて、一人あたり千人伝道したらどうなるか?日本人全員を伝道することができる。
第二に、勇気があった。エルアザルとシャンマの活躍を見ると、ほかのイスラエルの兵は後退し、逃げ出していた。恐れたのだ。そして、恐れというのは伝染するものなので、軍勢はひとたび逃げ出すと、総崩れになってしまうものだ。しかし、エルアザルとシャンマは他の全員が敵に恐れをなして逃げ出しているときに、逃げなかった。勇気を持って踏みとどまった。そして、たった一人残り、戦況を完全にひっくり返してしまった。私たちは周りの空気とか状況に飲まれなくて良い。たとえ全員が恐れをなしていても、不信仰に陥っていても、あなた一人が信仰に踏みとどまるならば、状況をひっくり返すことができる。

13-17節。アドラムの洞窟と書いてあるので、三勇士がダビデの勇士に加わったのは、初期のころからだとわかる。三勇士ほどの実力があれば、どの軍隊でも受け入れられ、大活躍できたはずだ。にもかかわらず、三勇士はダビデが何の地位も持たず、サウルから追い回されている最も苦しい状況の時から、ダビデに仕えた。目先の利益や地位を追いかけるのではなく、主が油注がれたダビデを支持したのだ。そして、その忠誠は本物だった。水を飲みたいというダビデの何気ない要望にこたえるためだけに、たった三人でペリシテ軍の陣を突破して水を汲んできてみせた。
私たちもこの点を見倣いたい。もし、目先の利益や地位を追いかけるならサタンに仕えることになる。そうではなく、私たちはイエス様が地上を直接統治するのはまだ先だけれども、イエス様が聖霊の油注ぎを受けたキリストだから、やがて預言通りにイエス様の統治が実現することを信じてイエス様についていくのだ。イエス様の言われるどんなささいなことも、全力で従うのだ。
ダビデは三勇士の水を飲まずに、主にささげた。もし、その水を「ありがとう」と普通に飲んでしまったら自分を神とすることに等しいからだ。しかし、イエス様であればその水を飲むにふさわしい。神の独り子であるイエス様であれば、私たちが命をかけるにふさわしい。イエス様は私たちのために命を捨ててくださった。私たちもその愛にこたえて人生をかけた献身をするのだ。

18-39節。まずアビシャイとベナヤが紹介されている。彼らは軍の中で要職について用いられたが、個人の武勇としては、三勇士に及ばなかった。このことから、個人としての仕事の能力と指導者としての能力は異なることがわかる。このことから、有能な部下がいても嫉妬する必要はない。また、自分よりも技能の劣る上司を侮ってはならない。上司は部下の能力を引き出し、部下は上司によく仕えればうまくいく。
三勇士とは別に、三十人の勇士がいた。ヨアブの兄弟アサエルやヘト人ウリヤなど、知っている名前も何人かいる。総員37人と、30人を超えるのは、引退したり死んだりすることによって、入れ替えが発生したからだろう。誰もがこの30人に名を連ねることを名誉としていたのだ。
一つ気になる事実がある。いくら探してもヨアブの名前がないということだ。長らく軍の司令官とされ、個人としても強かったヨアブがいない。ただ、能力の有無や戦いでの貢献度だけではかるなら、ヨアブの名前がないのはおかしい。最大の功労者の一人だと言っていいだろう。しかし、度重なる命令違反と無駄な流血により、ヨアブはダビデの勇士に名を連ねる栄誉を失ってしまったのだ。もし、イエス様を王としていないなら、どんなにすごいことを成し遂げたとしても、天の報いはない。あなたはイエス様を王として、いつも自分の人生の中心に君臨していただいているか?三勇士や三十人がダビデに仕えたように、イエス様に仕え、神の国のために奮闘しよう。そうすれば、御国で報いを受けるときに、あなたの名前が呼ばれることになる。

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