その男はあなただ[サムエル下12章]

サムエル記
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自分自身や他人に対してどのように吟味するかが問われる箇所です。
無感覚になっていると、自分自身に対して死刑判決を下しかねません。

その男はあなただ[サムエル下12章]


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【ノート】
1-6節。主は預言者ナタンを遣わしてダビデの罪を指摘することにした。人から罪を指摘されると、私たちはどう思うだろうか?人によっては、「これは人からの指摘であって、神からではない」と思って侮り、その指摘を真剣に受け止めようとしないことがある。しかし、主は人の罪を指摘する上で、よく人を用いる。どうしてか?神様が直接言っても聞かないからだ。罪を犯している場合、人は頑なになり、神様の御声に耳をふさいでしまっている。自分で主の御声を聞いて、自分で悔い改めるということはできない。そこで、神様はある意味仕方なく人を用いる。もし誰かがあなたの罪を指摘するとき、単に人からだという理由で侮ってしまうことがないようにしよう。主がその人を遣わしているのかもしれない、主が人を用いざるを得ないほど自分が頑ななってしまっているのかもしれない。そう認識してへりくだろう。
ナタンにとって、これは命がけだ。ダビデは忠実な家臣ウリヤを殺害してしまった。王にはその権限で人を殺すも生かすも自由にできてしまう。最悪の場合、自分の言葉に一切耳を傾けず、処刑されてしまうかもしれない。バプテスマのヨハネがそうだった。他にも王に進言して投獄されたり殺害されたりした預言者はたくさんいる。何も言わなければ波風たたないし、自分の身は安全だ。それでも、主が預言者を遣わす時には、預言者は語らなければならない。それが預言者の使命だからだ。使命には命をかける。あなたも、イエス様を信じ、イエス様の御言葉を預かる者であれば、預言者として行動する責務がある。主があなたを遣わすとき、危険を犯してでも語るべきことを語って、その役割を果たそう。言われる側としては、いつでも受け入れる度量が必要。
ナタンは、イスラエルの民たちの中で王の裁定が必要な紛争が起こったかのように装って、実はダビデが隠した罪の話をした。ナタンがした話は、一見王の裁定など必要ないくらい簡単で、一方的に豊かな男が悪いものだった。いきなり直接ダビデの罪を指摘しても、反射的に防御姿勢を取り、罪を否定してしまうかもしれない。まずは、第三者的な立場で、自分のやったことに裁定をくださせた。人間には、自分が当事者で利益や損失に関わっている場合、冷静な判断ができないという性質がある。だから、自分のしたことについて時に第三者的な視点で見ようと努めることが必要だ。もし他の人が自分と同じことをした場合、自分はその人のことをどう思うだろうか?その人についてどんな評価を降すか、やってみよう。
ダビデも間髪入れずに判決を下している。激怒し、死罪、4倍の償いが必要だとした。でもこれはダビデ自身のことだ。自分に対して激怒して、死刑と賠償の判決を下している。人を裁いてはならない理由がよくわかる。マタイ7:1-2。私たちが誰かを憎んで、地獄行きだとか厳しい罰に遭うべきだと定めるとき、たいていそれは自分自身にもあてはまってしまう。自分に死刑判決を下すことになる。ナタンがしたように罪を指摘することは時に必要だ。その前にまず我が身を振り返らなければならない。また、罪の指摘は相手の罪を取り除き、解放するためにするものであり、ダビデがしたように怒りを込めて相手を罪に定めて罰を与えようとするものであってはならない。

6-12節はナタンを通して語られた主の御言葉だ。大きく4つのポイントをあげる。
第一に、その男はあなただ。6節。ダビデは他人のことだからと思って厳しく裁いていたら、「その男はあなただ」で冷水をぶっかけられた。全部自分のことだった。ダビデは衝撃を受けただろう。自分とは無関係な他人のことだと思って饒舌になり、好き勝手にこき下ろしてしまうことはないか?主が突然あなたに対して言われるかもしれない。「その男はあなただ!」
ダビデが犯した殺人と姦淫の罪についても、これらを読んで、自分とは無関係な他人のことだと思い、「ダビデはなんて悪いやつだ」と思い、あげつらってしまいがちだ。しかし、そういうことをするのはこれらの御言葉が書かれている御心に反する。無関係だと思って警戒を怠ったら同じ罪に陥りやすくなる。まさに「その男はあなただ」と言われてしまうことになる。聖書にある信仰者たちの罪、不義、咎、過ちは、誰でも同じことをしかねないので、その失敗から学んで同じことをするのを避けるために書かれている。ローマ15:4。Ⅰコリント10:11。ダビデのことを裁くことはやめて、ダビデを反面教師として、どうしたらこのような罪を避けられるか、教えられる者になろう。主の祈りにあるように「試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ろう。

第二に、主はダビデに良いものを豊かに与えて祝福した。7-8節。リストアップされているのは、油注ぎ、王位、サウルの手からの救い、妻たち、イスラエルとユダの家だ。仮に不足があっても何であれ加えられる。主に不満を抱く余地が全くなかったということ。これはエデンの園にいたアダムとエヴァに似ている。園では良いものに満たされていた。だからこそ、彼らが主なる神様に背いたのは、弁解の余地のないことだった。ダビデに与えられた祝福の大きさは、そのままダビデの背きの罪の重さに直結する。多く与えられた者は、多くを求められる。私たちは祝福されればされるほど、そのことに対して感謝と賛美をささげて、ますます徹底的に神様に従うものになろう。

第三に、ダビデが主の御言葉を侮り、ウリヤを殺害し、妻を奪った。9節。ダビデはヨアブに命令を降し、アンモン人を使ってウリヤを葬ったことを偶然の戦死に装った。偽装工作は人間の目を欺くことはでき、公式記録ではウリヤは戦死ということになっていた。しかし、主の御目にはそんな小細工は通用しない。人間には他人の目を欺いたり自分の良心をだましたりするために、罪とみなされないように小細工をすることが意味のないことだ。主はすべてお見通しである。そして、ダビデの犯罪は主の御言葉を侮り、背くことだった。主がどんな御言葉をダビデに授けたか?十戒だ。十戒には、殺してはならない、姦淫してはならないと書いてある。7章のナタンの預言やダビデが託宣を求めて与えられた指示などと違い、十戒はダビデ個人だけに与えられたものではなく、イスラエル全体に与えられたものだ。しかし、対象となる人間がどれくらいたくさんいようとも、御言葉の効力は個人個人に対してなされる。主はダビデ個人に語ったように、ここで責任を追及しておられる。だから、御言葉を受け取る人は、特別な預言や啓示ばかりに焦点をあてるのではなく、聖書のすべての内容を個人的に主から受けたものとして受け取らなければならない。主は私たち一人一人に対して「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」と語っておられる。

第四に、ダビデの家から悪を働く者を起こす。10-12節。この内容はアブサロムを通して実現していく。ここから、罪の報いは、死後の裁き以上のものでありうることがわかる。罪は呪いを招く。私たちは不幸に見舞われるとき、そこには様々な原因が考えられる。しかし、第一に取るべき反応としては、何らか罪を犯したことによってこの不幸を招いたのではないかとして自分のことを吟味して、へりくだることが必要だ。

13節。ダビデはあっさりと罪を認めている。ダビデは罪を隠したせいで、平安を失い、葛藤に苛まれていたに違いない。ある意味、罪を認める機会が与えられて、肩の荷を下ろすことができた。社会的に罪の責任を問われなければ、幸せかというとそうではない。
犯罪者は、たとえ捕まらなかったとしても、死ぬまで罪意識を逃れることはできない。まんまと逃げおおせたのに、後から自首する人がいるのはそのためだ。今年なくなった桐島聡さんは連続企業爆破事件で指名手配されていた。一度も捕まったことがないが、癌で亡くなる直前にわざわざ自分が桐島聡だということを繰り返し語った。最初は妄想か何かだと思われたが、あまりにもしつこいので確認したところ、本人だとわかった。偽名で生活していたときには、30歳くらいの女性に交際のアプローチをされたことがあったが、『自分は幸せにできるタイプじゃないから』と断ったらしい。また、亡くなる直前の警察の事情聴取では、「後悔している」と答えた。刑事罰を免れても、罪意識から逃げられずに一生涯ついて回ったのだ。最後にどうしても罪を告白して楽になりたくて自首したのではないか。

主の御前で罪を認めて告白したらどうなるのか?主の応答は早い。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」だ。主は憐み深い。ダビデの判決は「そんなことをした男は死罪だ」だったが、主の判決は「あなたの罪は取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」だ。ここでダビデがしたのは、ナタンに指摘されて初めて罪を認めて「罪を犯した」と告白しただけだ。償いのために何かをしたということはない。しかし、ただちに主は「罪を取り除かれる」。私たちが罪を告白するときにこのことが起こる。主は間髪入れずにあなたに赦しを宣言なさる。むしろ、罪を犯す前からすでに赦されている。イエス様が十字架にかかられたのは、あなたが犯すすべての罪のためだ。そこには、イエス様を受け入れた後に犯す罪も含まれている。あなたは決して罪に定められることはない。憐み深い裁きをなさる主の御前で罪を正直に告白する者となろう。Ⅰヨハネ1:9。
何で殺人と姦淫が簡単に赦されてしまうのかと不条理に思われる方もいる。赦されるというのは、何の害も受けないということではない。主の御前での赦しがあって、地獄に行くことはなくても、罪は私たちの人生を台無しにする。先にあげた通り、犯罪に走れば逮捕されたり、そうでなくても長い間罪意識にさいなまれたりする。ダビデの場合、悪を働く者を起こすという預言は撤回されなかった。そして、このあと、罪の代価として子供を失うことになる。

14-23節。ダビデは子供が生きているうちには何とか助けようと全力を尽くし断食祈祷したが、死んだら断食をやめて食事をし始めた。ここに私たちが生きている人と死んだ人に対してとるべき態度を見ることができる。日本には先祖崇拝がさかんに行われている。仏教の影響によるところが強いだろう。先祖を大事にしないと罰があたるなどと教え込まれている。あなたが死んだ後、自分の家族や子孫たちに自分のせいでずっと束縛されることを強要したいと思うか?自分のことを拝まないと罰があたるようにしたいと思うか?私だったら絶対に思わない。実際のところ先祖崇拝の背後には悪霊がいる。多くの人が知らず知らずのうちに悪霊を崇拝させられており、悪霊によって束縛され、祝福を阻まれてしまっているのだ。亡くなった家族のことを敬ったり忍んだりするのは良いと思うが、私たちはダビデがそうだったように、その人たちが生きているうちに良くしてあげよう。仕えてあげよう。イエス様も生きている者たちにフォーカスするように言っておられる。ルカ9:59-60死んでしまった人は主の御手にゆだねよう。
この箇所からもう一つわかることがある。子供が亡くなったら天国に行けるということだ。ダビデは23節で「わたしはいずれあの子のところに行く」と言っている。ダビデは預言者だから、一般的なことを語ったのではない。死後、亡くなった子供とダビデは同じところに行くに違いない。ダビデは罪が赦されたので、天国に行けるに違いない。だから、亡くなった子供も天国に行ったに違いない。「どうしてダビデが罪を犯したのに、子供が打たれるのか?」と納得できないように思う人は多いだろう。しかし、それは狭い世界での判断だ。早く亡くなることは必ずしも不幸なことではない。なぜなら、この世よりもずっとすばらしい天国に早めに行くことができるからだ。

24-25節。ダビデが罪の赦しを受け取ったことがこの箇所からよくわかる。ナタンの指摘によってダビデの罪は広く知られるようになったはずだが、ダビデはバト・シェバとの関係を解消せずに二人の間に子供が生まれた。罪の赦しなしには恥ずかしくてできないことだ。そして、生まれた子をソロモンと名付けた。ソロモンは平和を意味するシャロームが由来の名前。ダビデは罪の赦しによって平和を体験したということだ。このソロモンがダビデの後継者となり、マタイ1章のイエス様の系図にも入っている。そこにはバト・シェバのことも、ウリヤの妻として紹介されている。1:6に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書いてある。ダビデはダビデの妻によってソロモンをもうけなければならないでしょう。それをあえてスキャンダルがあったことを明らかにして「ウリヤの妻」と記載することによって、イエス・キリストはまさにこのような深刻な罪を犯す人々をも罪を赦して救ってくださるお方なのだということを示している。

10章から続いていたアンモン人との戦いが終結する。26-31節。ヨアブはアンモン人に最後の一撃を与える栄誉をダビデに譲った。ダビデは最後に出撃してアンモン人を打ち負かし、金と宝石でできた王冠を奪って頭にかぶり、アンモン人を奴隷にした。この箇所は主の御言葉の真実さを表している。一連の出来事を知る私たちは、自分の部下ウリヤを容赦なく戦死させるヨアブの姿と、ダビデが姦淫と殺人の罪を犯しながら、良いところで出陣してすべての栄誉をものにする姿を見て、違和感を抱き、素直に喜べないかもしれない。しかし、主はダビデに「あなたの行く手から敵をことごとく断つ」と7章で約束されたが、その約束通りになさっているのだ。主は真実だ。私たちが良い時も悪い時も、真実であられる主を賛美しよう。

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