私の息子よ、私がお前に代わって死ねばよかった[サムエル下19章]

サムエル記
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もうこのような悲劇が繰り返されないように、一人でも多くの人が父なる神様の愛を受け取りますように。

私の息子よ、私がお前に代わって死ねばよかった[サムエル下19章]


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【ノート】
ダビデ王に反逆したアブサロムが孤独な死を迎えた。アブサロムはすべての人に見捨てられ、ダビデからも愛されていないと思っていた。実際はどうだったのか。ダビデは町で、戦場からの知らせをずっと待っていた。そして、アヒマアツとクシュ人という2人の伝令に対して開口一番で質問したのは、「若者アブサロムは無事か」ということだった。ダビデの心はアブサロムに対する思いで占められていた。そして、クシュ人の口からアブサロムの死の知らせを聞いたとき、その思いが一気爆発した。1節。今までは面と向かって伝えることはしなかった。しかし、ダビデはアブサロムを愛していた。自分が代わりに死ねばよかったと願うほど愛していた。ここから大きく3つのことを悟ることができる。

第一に、自分の罪は最も愛する人々を不幸にする。殺人と姦淫の罪を犯したのはダビデであったが、罪の呪いは周りの人々に波及する。特に血縁関係にある人々が大きな損害を被ることになる。血のつながりには、ただ外見やDNAが似ているとかいう以上に霊的なつながりがあり、祝福も呪いも伝染してしまうからだ。ダビデは、バト・シェバとの間の子供、アムノン、そしてアブサロムまでも失った。私たちの軽率な行動で愛する人々が不幸になってよいのか?そんなことがあってはならない。罪を犯してはならない。姦淫の罪、憎しみの罪、偶像崇拝の罪を犯してはならない。血潮によって清められ、聖霊様の警告に耳を傾けて、聖なる者にふさわしい歩みをしよう。

第二に、愛を伝えられずに後悔することのないようにしよう。ダビデはアブサロムを愛していたが、その愛をしっかりと表現できていなかった。アブサロムと面会することを拒否したり、形だけの和解の演出をしたりしたのがそれだ。王と王子という特殊な関係がそれを難しくしているかもしれない。しかし、もしダビデが心から、腹をわって話すということをしていれば、アブサロムがみじめな死を迎えることを避けられたのではないか。ダビデはアブサロムが死んだことを知って大泣きしたが、時すでに遅しだった。素直に愛を伝えられずにいる人はいないか。それによって、関係を難しくしていることはないか。家族であれ友人であれ、もしそういう人がいれば、ダビデのように後悔する前にしっかりと愛を伝えよう。

第三に、これは放蕩息子のバッドエンドを表している。反逆したアブサロムは言わば放蕩息子であり、城門の間で良い知らせを待ち続けたダビデはその父親だ。父親は首を長くして息子の無事を確認しようと待ち続ける。しかし、息子の死の知らせを聞いて、悲嘆に暮れる。放蕩息子の父は罪人を愛して、悔い改めて御自分のもとに帰ってくるのを待ち続ける愛に満ちた天のお父様の姿だ。もし、罪人が最後まで御自分のもとに帰ってこないまま死んでしまったら、父なる神様はこのダビデのように悲嘆に暮れることになる。あなたの名前を呼んで涙を流すことになる。ダビデは「わたしがお前に代わって死ねばよかった」と言った。御父の御心を受けて、御子イエス・キリストがそれを実行してくださった。イエス様は神に反逆する罪人を愛して、罪人に代わって死んでくださった。それを通して父なる神様の愛を表してくださった。父なる神様の愛は本物だ。もし、あなたが今もなお父なる神様に反逆したままの状態であるなら、このようなバッドエンドを迎えることのないように、今、方向転換して、イエス様を心に迎えて、父なる神様のもとに帰ろう。

2-5節。戦場から脱走するというのは、イスラエルでは何によってぬぐうことのできない恥だった。兵士たちは立派に戦ったが、ただアブサロムの死によって後ろめたい帰還になった。本来は意気揚々として町に凱旋できるはずだったのに、葬式のような雰囲気になってしまった。王が大声で泣き悲しんでいるのに、勝利を喜び祝うことは誰もできない。これは、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とイエス様が言われたのと逆のことが起きている。一人の罪人が死ぬと、すべての宴会が中断されて、大きな悲しみがあるということだ。ダビデと兵士たちの態度は天の情景を反映していた。このような悲しみを味わう機会が少しでも減るように、一人でも多くの者が救われるように福音を伝えよう。

6-9節。悲しみの原因を作ったのは、張本人がヨアブだ。ヨアブがダビデの言葉に耳を傾けずにアブサロムの息の根を止めてしまった。にもかかわらず、ここで激しくダビデを非難している。しまいには最後通牒を突きつけるような態度をとっている。特に「アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう」というのは、あまりにも話を飛躍させている。人は相手の話を聞かずに考えを組み立てるとこういうふうに話を飛躍させてしまう。相手の心を理解しようと会話をしながらゆっくりと考えを組み立てると、こういうことを防ぐことができる。ヤコブ1:19。

ヨアブはダビデを理解できなかった。ヨアブは個人的な復讐目的でアブサロムを殺したのもあるが、それでも、アブサロムを殺すことは理に適っていると思ったし、息子だとは言え反逆したアブサロムのために悲しむことは理に適わないと思っただろう。「あなたを憎む者を愛し」という言葉からも、ダビデの態度に納得がいかなかった。ヨアブにとって、それは不可解な愛だった。ダビデがアブサロムに示した愛は、イエス様が教え、実践なさった神の愛に似ている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」この愛は世には全く見られないものなので、不可解に思え、愚かにすら思えるものだが、それゆえに罪人に衝撃を与えて、悔い改めに導くのだ。世が知らないこの愛を悟り、実践する者になろう。

10-15節。イスラエルの人々のダビデ復権論がダビデの耳に入った。にもかかわらず、ダビデは、ユダの長老たちに、イスラエル諸部族に先んじて、自分を迎えるように要請する。自分の出身の部族を優遇しようとする意図が見える。これはダビデ王朝とユダ族の結びつきを強める一方で、他の部族からの不満を招くことになる。そのことについてまた後で語る。
ここでダビデはヨアブに代えてアマサを軍の司令官に任命することを約束する。これはアブサロムについていた人々の目に、ダビデは自分たちを受け入れる意思があるということを示す懐柔策だ。それと同時に言うことを聞かず、血の気の多いヨアブを解任する良い機会でもあった。ヨアブとしてはこの機に命令違反や指導者に対する暴言など、自分のしてきたことを悔い改めなければならなかった。しかし、彼はそれをせず、アマサに対する妬みを抱いてさらなる罪を犯して破滅する道に進むことになる。ヨアブのようになってはならない。転落を経験したら、それはつらいことだ。しかし、自暴自棄になったり、怒りや嫉みを起こしたりするのはやめよう。我が身を省みる絶好の機会でもある。もし罪が思い出されるならば、悔い改めよう。神様の御前に告白して、赦しと清めを受け取り、別の道を歩み始めるようにしよう。

16-24節。ダビデがヨルダン川を渡るときに、ダビデを呪ったシムイ、マハナイムでダビデを支援したバルジライ、サウル家の従者でメフィボシェトの僕だったツィバなど、多くの人物が迎えた。まずは最も意外な人物であるシムイ、ダビデを散々に呪い、中傷し、石を投げつけて困らせたあのシムイが千人も率いて現れた。千人も率いるということは、ただの狂人ではなく、有力者だったことがわかる。そして、土下座謝罪した。助命を嘆願した。間違った態度をとったら、このように180度態度を変えなければならない。では、御心に適った態度をとったらどうすればよいのか?態度を変えてはならない。ダビデは態度を変えなかった。シムイがダビデを呪ったとき、シムイのしたことはあくまでもダビデの罪が招いたことであり、神様の許しの中で起きたことだとして、放っておいた。ここでも、ダビデは同じ態度を取っている。一貫している。間違った態度は180度悔い改め、御心に適った態度はぶれずに一貫するのだ。ダビデはシムイを死刑にしなかったが、それは何によってだったか?23節をもう一度読んでみよう。ダビデはここで王の権威のもと、死刑にしないと宣言していることがわかる。赦しとは、王の権威によってすることだ。赦さずに死刑にするというのは、ごく普通のことだ。赦すということは特別なことであり、赦しにこそ権威が現れる。それは折れること、負けることではなく、力を現すことだ。クリスチャンには神の子としての権威、王としての権威が与えられている。その権威が現わされる場面の一つが、人を赦すときだ。権威を用いて、人を赦す者になろう。

25-31節。メフィボシェトがダビデを迎える。その姿は、ダビデの身を案じて、誓願を行い、執り成しの祈りをささげていたものだった。しかも、メフィボシェトはダビデがツィバの中傷を信じてしまったことについて、抗議をしていない。また、ダビデがいまさらツィバを悪く言えず、「ツィバと地所を分け合いなさい」というなんともお粗末の収集方法をとったにもかかわらず、「主君、王が無事に王宮にお帰りになったのですから、すべてツィバのものになってもかまいません」とまで言い切っている。メフィボシェトはダビデに真実な愛と忠誠を持っていることがわかる。これは、死んだ犬だった自分を王子の一人にように引き上げてくれたダビデの恵みに対して、メフィボシェトが心から感謝していたからだ。私たちは神様の恵みを悟り、心から感謝していれば、ちょっと納得のいかない状況に遭遇した、理不尽な扱いを受けたというくらいで不平不満をつぶやくことはない。もともと罪によって永遠に死ぬべきだったのに、そこから救われてすべて一方的な恵みで良いものをいただいたので、それが仮に少し損なわれたとしても、平気なのだ。神様が私を愛して、良い物を与えてくださったという事実だけで満足することができる。メフィボシェトのように、福音の恵みを悟って感謝する者となろう。

32-40節。王はマハナイムで物資の支援をしてくれて、ヨルダン川まで送ってくれたバルジライに報いようとする。しかし、バルジライは高齢なのでそれを辞退し、代わりにキムハムを王のもとに残すようにする。ダビデは後にソロモンに対してもバルジライの息子たちに慈しみ深くせよと命じる。この後、バルジライの一族はどうなるのか?エズラ2:61-62。祭司職につくのを禁じられたというのは残念だが、確かなことは、バルジライの血脈はバビロン捕囚から帰還するころまで続いたということ。子孫が繁栄したのだ。王のために尽くすものは必ず報いられる。祝福される。本人だけでなく、その僕、息子たち、血縁にある者も皆祝福されるということを知ることができる。我らの王イエス様の御国のために、バルジライのように豊かに献げる者になろう。天でも地でも報いられ、自分だけでなく家族や周りの人々も祝福される。

41-44節。イスラエルとユダの間にダビデをめぐって亀裂が走っている。イスラエルの人々は、ダビデがユダの人々にヨルダン川を渡るのを助けさせたということを抗議している。それについてイスラエルとユダの間で応酬がなされている。実につまらない話だ。誰が王と共にヨルダン川を渡ったかなど、どうでもよいことではないか。しかし、深刻な争いというのは、こういうつまらないことを通して発展することが往々にしてある。ここで表面化したこの争いは王国の分裂に至るまで発展していくことになる。この争いは、イエス様の弟子たちが「誰が一番偉いのか」争ったり、イエス様の右と左に座る権利を得ようとしたりしたのに似ている。イエス様ですら、何度教えてもこの争いをやめさせることはできなかった。しかし、最終的に弟子たちは一つになった。それでかたい愛の絆で結ばれた初代エルサレム教会が誕生した。弟子たちは何によって一つとなったのか?第一に、イエス様の死によってだ。ヨハネ11:52。エフェソ2:14-16。十字架の前では、クリスチャンはつまらない争いをやめ、一つになることができる。それは聖餐を共にあずかることによって確認できる。第二に、聖霊様によってだ。エフェソ4:3。つまらないことで争わず、聖霊様によって一致する者になろう。

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