ろばを捜すサウル[サムエル記上9章]

サムエル記
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よくある日常のことからの不思議な導きがあります。

ろばを捜すサウル[サムエル記上9章]

ろばを捜すサウル[サムエル記上9章]

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【ノート】
イスラエルの中から王を立てることになった。大勢の人々の中からたった一人を選んで、強力な権限を持つ指導者に立てるのだから、主なる神様が選んだ人物でなければならない。その重大な務めをまかせるにあたって、主は王に立てる人物に対して、「私が主によって王に選ばれた」と確信することができるように特別な導きとしるしを与えられた。普通は絶対にありえない不思議なことを経験したことがあるだろうか。それは、主からのしるしだ。主があなたをお選びになっている。主があなたを召しておられる。主があなたを祝福しようとしてくださっている。主があなたを導いてくださっている。そのことを覚えよう。

1-2節。これはサウルのプロフィール。サウルは「求められた者」という意味。サウルの祖先のアフィアについて1節で勇敢な男と書いてあるが、原語では裕福という意味もある。裕福というのは、ベニヤミン族の中でも特に良い家柄であり、祝福されているということ。2節ではサウルの特徴について、「美しい」と書いてある。これはトーブというヘブライ語で、創世記1章に出てくる「良しとされた」と同じ言葉。非常に良い!優れている!という意味の言葉。そして、サウルは背が高かった。背が高くて大きい方が、リーチが長く力も強いので、戦いには有利だ。軍隊を指揮する王を望んだイスラエルが好みそうな特徴だ。

3-5節。ことの発端は数頭のろばがいなくなったこと。日常生活で良く起こりそうな普通のこと。そういう普通のことを通して、主なる神様は不思議な導きをなさることがある。ろばを追いかける中でも、サウルの良い性質をいろいろと知ることができる。まず、父の言いつけを良く守る孝行者だ。ろばを捜せと言われたら、言うことを聞く。捜しにいく。また、サウルは簡単にはあきらめない忍耐力を持つ者だ。山をいくつも超えてまで探し出そうとした。最後に、父を心配させてはならないという善い動機をもって、ろばの捜索を断念しようとした。目の前の取り組んでいることよりも、いつも父の心を気にかけていたのだ。これはクリスチャンが見倣わないといけない。しかし、サウルのろばの捜索には、一つ欠けていることがある。それは、神に頼るということだ。自分の力に頼った結果、限界に至り、あきらめようとしていた。

6-9節。従者の若者が、思いつく。「ちょうどこの町に神の人がおられます」。全力を尽くし、あらゆる手立てを尽くしてもできないこと、何かあるだろうか?それこそ、山をいくつも超えるほど苦労しても何の成果も得られない。そういうとき、もし神に頼るという手段を使っていないのであれば、私たちは決してあらゆる手立てを尽くしたとはいえない。神には真っ先に頼り、一番宛にするべきだ。神はごく小さなことから山を動かすことに至るまで、何でも可能にさせてくださる。問題の解決は神にある。必死に祈ろう。御言葉に答えを求めてむさぼるように読もう。教会に行って、神の人たちであるクリスチャンたちに祈ってもらい、御言葉をもらおう。サウルがあきらめようとしていたとき、神の人はまさにサウルのいた場所からすぐ近くの町にいた。遠くに行かずとも、今あなたがいるその場所で、神に頼ろう!あなたが行っているその教会で神に頼ろう。神は思いもよらない方法で解決を与えてくださる。
代価は大したものではない。サウルは謝礼を四分の一シェケルの銀と書いてある。これは約3グラムくらいのもので、到底ろばには及ばない。しかし、それで十分だし、何もなくても預言者はサウルを歓迎し、サウルが提供する以上のものを豊かに与えることになる。良識のある教会であれば、貧しくて献金できない人でも喜んで歓迎する。主は私たちの持ち物に関心があるのではなく、むしろ私たち自身に関心があり、私たちに与え、満たすことに関心がある。

9節では預言者のことを昔は先見者と呼んでいたとある。預言者には、代弁者、霊によって高揚させられた者、召された者という意味がある。先見者は、幻を見ることと関係がある。先見者が預言者と呼ばれるようになったということは、預言者は幻を見ることと主からの御言葉を語ることの両方の働きがあるということがわかる。

10-13節。サウルたちは、町に入るために、坂を上った。当時の町は防衛上の必要からたいてい高いところに築かれた。ちょうどのそのときは、聖なる高台で生け贄がささげられ、サムエルがその生け贄を祝福するところだった。生け贄を祝福するのは祭司の役割だ。7章で焼き尽くす献げ物をささげた後もサムエルはずっと祭司としての奉仕を続けていることがわかる。サムエルは預言者であり、祭司であり、士師でもあった。すべて自分でなろうとしたものではなく、主からの召しによるものだ。このことから、一人の人に与えられる召しが、いくつもあることはよくあることだ。

14-20節。サウルはろばを捜す目的で旅を続けていた。ところが、実際にはサウルは神に近づく旅をしていた。捜していると思っていたのが、実は神に捜されていたのだ。主はサムエル、サウル、それに従者の若者など、何人もの人々に対して同時に働きかけて、しるしが伴う形で、サウルを王に立てるという御自分の御心を明らかにされていった。
サウルが王に選ばれたのは、イスラエルをペリシテ人の手から救うためだ。サウルがそのために選ばれたのは、イスラエルを憂える心があったからだ。19節で、「あなたを送り出すとき、あなたの心にかかっていることをすべて説明します」と書いてある。サウルの心にかかっていることとは何だったのか?ろばのこともあったが、もっと大きかったのはイスラエルのことだ。イスラエルはこれからどうなるのか?何を希望とすれば良いのか?自分には何ができるか?主は今も、このように国を憂える心を持っている人を捜しておられる。主にあって人々の救いを心から願う者となろう。

21節。預言の御言葉の一つの特徴というのは、良い意味でも悪い意味でも予想を裏切るということ。偽の預言ではすべての人が望むことをそのまま代弁してしまうことがある。本物の預言は、誰も予想だにしないことを告げるにもかかわらず、実現するという点にある。エレミヤの預言しかり、ここでのサムエルの預言しかりだ。

サウルは国を憂える人だったが、自分がそんなに大きな役割を果たすというのは思いもよらないことだった。最も小さな部族ベニヤミンと言っている。士師記20章でベニヤミン族は大きな犯罪の報いとして人数が600人まで減ってしまった。数が少ないというのは、それだけで軍事的な影響力を持つ上で不利だ。さらに、惨たらしい犯罪を犯した部族として不名誉がある。しかし、主はすばらしいことにそういうことに頓着なさらない。最小の者を用いることで万軍の主として栄光を現す。すでに報いを受けた者たちについては、いつまでも悪者扱いせずにすぐにチャンスを与える。あなたは最小の者か、過去のあなたはひどい者だったか?それは主に用いられる上では好条件だ。サウルはどんな理由でそんなことを言われるのか?と尋ねた。私たち自身を見れば、主に用いられる理由がわからない。理由はすべて主のすばらしさの中に見出すことができる。だから、自分の足りなさについて、何も心配することはない。

22-25節。生け贄の食事会にサウルは招待された。旧約では生け贄をささげる礼拝とその後の食事会が一つのセットになっている。これは新約の教会での主の御体と血潮にあずかる聖餐や集会の中で行われる愛餐に引き継がれている。一緒に食事をし、近い距離で交わりを持つということは、神の民が一つとなる上で重要だ。この食事会に招かれていた30人はイスラエルの士師のサムエルと食事をする会に招かれたのだから、この町の長老たちだろう。しかし、サムエルはその30人を差し置いて、サウルに上座を与えた。このことから、サウルが町の長たちの上に君臨する立場であることを暗に示している。

26-27節。召しは秘密裏になされる。私たちは誰でも公で認められる前に主なる神様からの御言葉と油注ぎによる個人的な召しが必要だ。そこには第三者の介在は許されない。
あのサウルに良い助言をした従者すらもそこに立ち会うことは許されなかった。もし自分が何か主に仕える働きをすることになったら召しを受けたときのことを思い出そう。もしそういう経験が全くなく、自分が主から召しを受けているのか曖昧であれば、自分の召しについて、主に個人的に出会い、確認しよう。
サウルはろばを捜しにいった。ある意味ろばに導かれるようにして召命を受けた。ろばはエルサレム入城のときにイエス様を背に乗せた動物だ。ろばの背には十字架の模様がある。私たちはキリストの十字架を通して召命を受ける。個人的にキリストの十字架の下に進み出て、キリストの十字架を仰ぎ見よう。

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