信仰によって生きる

福音&主題メッセージ
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信仰は救われるときに一度だけ使うものではなく、日々発揮して生きていくものです。
しかも、信仰によって生きるとき、その人は楽しい生き方、楽観的な生き方ができます。
神の子は皆、信仰を発揮することが当然のようにできます。

信仰によって生きる


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【ノート】
私たちは信仰者。イエス様を信じる者は信仰を持っている。信仰とは何だろう。まず、イエス様を信じるときに発揮される。ローマ10:8-10。イエス様を主とし、イエス様の十字架の死と復活が私のためだったと信じる時、信仰が発揮される。では、信仰はその時だけ発揮されて、他の時には無用の長物なのだろうか?赤ちゃんのへその緒みたいに、生まれてくるまでは役に立つけども、後は必要ない?あるいは、信仰はチケットのようなもので、天国に入るときに見せれば良くて、後はずっとしまっておくもの?もしかしたらそのように信仰を扱ってしまっている人もいるかもしれない。それはもったいない。信仰をそのように扱うと、信仰生活が律法的なもの、喜びのないものになってしまう。

私たちは信仰によって生きる者として召されている。ローマ1:17。正しい者、つまり義人は信仰によって生きると書いてある。信仰によって救われたとか、信仰によって天国に行けるようになったというのではなく、信仰によって「生きる」のだ。逆を言えば、義人は信仰なしでは生けていけないということ。信仰なしではきついということ。信仰なしの信仰生活、それは窒息しそうなものだ。信仰によって私たちは生き生きと力強く生きられる。そして、クリスチャンにとっては、信仰によって生きることは当たり前にできること。クリスチャンは義人であるキリストと霊において一つになっている。キリストと完全に一体とされている。キリストは、いつも信仰によって生きておられた。ヘブライ12:2。イエス様は信仰によって生きることを極めておられる。このイエス様を見つめなさいということだが、その方と私が一体とされている。そうれであれば、私たちが信仰によって生きることができないわけがない。
それでは、信仰によって生きるとはどういうことか?すべてのことを信仰によって行うということだ。信仰によって一歩一歩を歩むということだ。信仰によって祈る、御言葉を読むことはもちろん、すべてのことだ。信仰によって朝目覚める。信仰によって歯を磨く。信仰によって食事をする。信仰によって朝の支度をする。信仰によって家事をする。信仰による料理、洗濯、掃除。信仰によって仕事をする。信仰による作業、会議、資料作成。信仰によって眠る。信仰によって人と交流する。信仰によって眠る。でも、信仰によってそれをするというのは、具体的にどんな感じなのだろうか?私たちは信仰によって生きているだろうか?
ヘブライ人への手紙11章は信仰の章だ。「信仰によって」という言葉が19回も登場する。そして、その1節には、信仰の機能が書いてある。信仰はこうやって使えばよいと書いてある。ヘブライ11:1。信仰の機能について大きく3つのことがわかる。

第一に、信仰は望んでいる事柄についてだ。私たちは何を望んでいるだろうか?幸せを望んでいる、成長を望んでいる、うまくいくことを望んでいる。その望み通りになると信じる。信仰によって歯を磨く人は、歯がきれいになって虫歯にならないと信じる。信仰によって就職活動をする人は、最高の職場が与えられると信じる。信仰によって病気と闘う人は、必ず病気を克服できると信じる。信仰によって弟子訓練を受ける人は、御言葉を守り行う人になると信じる。
ということは、信仰を発揮すればするほど、私たちはどんどん希望に満ち溢れて明るくなるということだ。信仰によって生きるとは、楽観的に生きることでもある。私たちの気持ちが沈んでいることがあるとすれば、それは信仰を発揮していないからということになる。信仰ではなく、頭を動かしているかもしれない。せっせと分析をしているかもしれない。
ヨハネ6:5-7。イエス様はフィリポが信仰を発揮するかどうか試した。イエス様は私たちが困難に対して信仰を発揮するかどうか見ておられる。フィリポは頭を使って分析した。すばやく計算して200デナリオン分のパンでは足りないとはじき出した。だから、無理、難しい、どうしようもないと結論づけた。世の中的には賢いといえる。しかし、信仰を発揮していないので、悲観的な結論に落ち着いてしまった。
信仰を発揮するということはそういう意味で馬鹿みたいに見えるものだ。信仰は全然科学的ではない。計算、分析、経験を度外視して、望んでいる事柄を信じさせる。
信仰を発揮する人も計算や分析をする能力がないわけではないのだが、いつも信仰に舵取りをゆだねる。その結果、馬鹿みたいに見える。でも、それで祝福されるなら、馬鹿みたいに見えてもよいではないか?イエス様にあって喜んで馬鹿になろう。困難に直面したとき、望んでいる事柄は何か?困難を乗り越えられる、何とかすることができるということだ。それで、信仰によって生きる者の口からはどんな事柄についても、「難しい」とか「できない」という言葉は全く出てこない。いつも「できる」とか「その通りになる」という言葉があふれてくる。馬鹿にされるのは一時的だ。やがて本当にその通りになっていくからだ。イエス様は常に信仰を発揮しておられた。それで人から嘲られることもあったが、奇跡が次々と勃発するので、嘲っていた人々は口をふさぐことになった。イエス様は約束しておられる。マタイ21:21-22。望んでいる事柄は得られる。

第二に、信仰は見えない事実についてだ。しかも、第一を踏まえると望んでいる事柄に関してだ。たとえば、神様の平和の計画のこと、希望に満ちた未来のこと。それらは見えないのだが、信仰は「見させる」のだ。信仰は目のような働きをするのだ。信仰は五感でいうところの視覚だ。見えないものを信仰によって見るという方法で信仰は使う。信仰の目で見るのだ。そして、見えてくるものは見えない「事実」なので、私たちの勝手な妄想ではなく、真理の御言葉が実現するのを見るのだ。
では、誰が信仰の目で見ることのできる内容は、誰が見させてくださるものなのか?父なる神様だ。信仰の目は結局のところ、神様がなさることを見るものなのだ。ヨハネ5:19-20。イエス様はここで、神の子がどういうものなのかを示された。神の子は、父なる神様がなさることを見なければ自分から何もできない。つまり、神の子とは、いつも信仰の目を見開いているということだ。父なる神様は、神の子を愛して御自分のなさることをすべて示される。何を見ても、そこに神様の御業や計画を見出すことができ、神の子はそれに沿って歩むのだ。私たちも神の子としてそういうものだ。私たちは信仰の目で見ることが当たり前。信仰の目でみないと何もできない。イエス様は人をご覧になるときにも信仰の目を使われた。ヨハネ1:42。子は父のなさることを見なければ自分では何もできない。だから、この命名も父の御業を見てなさったものだ。シモンは葦という意味。ひょろひょろして信仰者としては揺れやすい不安定な者という悪いイメージを抱かせる。シモンを肉の目で見れば、確かに葦に見えただろう。しかし、イエス様は父なる神様の御業を信仰の目で見てシモンではなくケファ、岩だと言われた。父なる神様がペトロを造りかえ、堅固な岩のような信仰を発揮して使徒として、初代教会の指導者として貴く用いられることを見たのだ。こういう目で人を見たら楽しい。
信仰の目で自分の未来を見るとどう見えるか?望んでいる事柄を見るのだ。霊的に成長する。罪をかなぐり捨てる。病気は癒される。家族の関係は回復する。神様に貴く用いられる。信仰の目で兄弟姉妹を見るとどう見えるか?栄光から栄光へとイエス様のように変えられて、幸せな人生を歩むことだ。信仰の目で見るとそう見える。そして、必ずその通りになる。
信仰の目で未信者を見るとどう見えるか?イエス様を信じて救われて、共に礼拝をささげている姿が見える。信仰の目で自分が直面している困難を見るとどう見えるか?乗り越え、より成長した自分の姿が見える。万事が益となった点が見える。信仰の目で御言葉を見るとどう見えるか?糧に見える。すべて行うことができるものに見える。祝福の約束が見えてくる。そして、ありありと見えれば見えるほど、行えるようになる。大事なのは過去に何百回その御言葉を行うことに失敗したとしても、そういう失敗に目を向けることなく、神の子としての権威を持ち、信仰の目で望んでいる事柄、実行できるに違いない、実行すれば祝福されるということに目を向けることだ。
信仰の目で見ると、思い煩うことなく、感謝と賛美が満ち溢れてくるようになる。信仰の目は使えば使うほど、どんどん視力が良くなっていく。筋肉のように使えば使うほど鍛え上げられていく。しかも、年齢と共に衰えるということがなく、磨きをかけ続けることができる。信仰の目を養おう。すべてのものを信仰によって見るように、訓練する者になろう。

第三に、信仰は確信と、確認まで至らせるものだ。確信という言葉は原語のギリシャ語では「保証」とか、「実在するもの」という意味がある。確認という言葉はギリシャ語では「根拠」という意味がある。どうして保証や根拠が必要なのだろうか?もし、保証や根拠がなければ、疑いや恐れが生じてくることがある。信仰が薄くなり、望んでいる事柄を得られないという事がありうる。もちろん、信仰を発揮しようとすれば、そういうリスクがあるのはある程度避けられない。「もしその通りにならなかったら?」という疑いをはねのけて前進するのが信仰者の歩みなのだ。実際、自分の信仰が足りなくて、うまくいかないということはある。そういうときは素直にへりくだって、より堅固な信仰を求めればよい。それでも、試行錯誤を繰り返す中で、信仰は練られていき、より確度の高い威力を発揮するようになっていく。しかし、どうせならより確実に求めているものを得たいところだ。少しも疑うことなく、信じきる者になりたいものだ。 どうしたら見えない事実を確認できるところまで信仰を発揮できるだろうか?

第一に、確認しようとすることによって確認に至るまでの信仰を発揮できる。望んでいる事柄を確認しようとしないなら、そこに信仰がない。癒しを祈ったら祈りっぱなしにすることなく、癒されたかどうかを確認する。そのときに信仰が発揮できる。確認しなかったら起きなかった癒しが起きる。祈り課題について、実現したか、何か変化が与えられているか確認する。そのときに信仰が発揮できる。望んでいる事柄がどうなっていくのか見張るのだ。ハバクク2:1-3。ハバククは明らかに望んでいる事柄、つまり神様が自分の嘆きの祈りに対して答えてくださることを信じて、見張っていた。その結果、神様がその通りに答えを与えてくださっている。望んでいる事柄が実現することを確認しようとする者、見張る者になろう。

第二に、約束の御言葉が預言的に啓示されることによって確認に至るまでの信仰を発揮できる。そもそも御言葉はすべて預言だ。しかし、ある時に聖霊様が聖書の御言葉を用いて、望んでいる事柄を実現させることを示してくださることがある。そういうとき、私たちはまだその通りになっていなくても、もう根拠が与えられているので、もうその通りになったかのように喜び、感謝の祈りをささげることができる。たいていはディボーションのときにそれは起こるのだ。望んでいる事柄の根拠を得ることを期待して、ディボーションをする者になろう。

第三に、幻が与えられることによって確認に至るまでの信仰を発揮できる。使徒16:9-10。パウロたちは幻が与えられることによって、マケドニアに行くことが御心だと確信するに至った。幻が確信と確認にまで至らせる。幻というとなんだかおぼろげなイメージがあるかもしれないが、英語ではビジョンと訳されていて、ありありと見えるものを指す。4Kのテレビのようにありありと見えるのだ。幻のように、信仰の目で望んでいる事柄をクリアに見ることができるようになったら確信できるということだ。信仰の目で見るものというのは、最初はピントがあっていないような、ぼやけていてよくわからないものだ。それを信仰の目で見ようとし続けると、だんだん見えるようになる。やがて幻によってありありと神様の御心が見えるようになる。そうすればパウロたちがそうだったように、確信にあふれて行動を起こすことができる。

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