人の子は安息日の主である[ルカ6:1-11]

ルカによる福音書
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主が定めた安息日の基準は非常にシンプルです。

人の子は安息日の主である[ルカ6:1-11]

人の子は安息日の主である[ルカ6:1-11]

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【ノート】
二つの安息日の出来事が書いてある。1-2節。弟子たちがファリサイ派の人々から怒られている。彼らは偶然居合わせたのではなく、イエス様一向を監視して、「何か弱点があればついてやろう」というつもりで注目していたのだ。悪いことをしたら、いさめることは良いことだ。しかし、主の御心をよくわかっていないと、私たちはともすれば聖書を振り回して人々をいたずらに傷つけることになってしまう。私たちが人を罪に定め、悪いやつだと思うとき、主は必ずしもそう思ってはおられないのだ。

弟子たちは他人の麦畑で麦の穂を摘んで手でもんで食べた。日本でこれをやると麦を摘む時点で窃盗になってしまうが、イスラエルに与えられた律法では、問題にならない。お腹が減った人が、畑の産物を手で摘んで食べる程度であれば、それは慈善のために不問とされている。それは聖書にはっきりと書いてある。申命記23:25-26。ここから主の御心を学ばなければならない。主は人間の貪欲をご存知なので、あえてこのような規定を明文化しておられる。人はともすれば自分の所有権を主張し、自分のものを守ることに躍起になってしまう。「これは自分の者、誰にも渡すまい!」しかし、すべてのものは主からの賜物であり、主から私たちにまかされているものだ。私たちにとって所有権とは、主の御心に従って惜しみなく分け与える責任を伴うものであることを知らなければならない。主は御自分の独り子イエス・キリストを惜しまず与え、あらゆるものを惜しまず与えてくださった。私たちだけ「これは自分のもの」とにぎりしめていてはならない。惜しまずに分け与える者となろう。

ファリサイ派の人々が指摘したのは、弟子たちが麦を摘んだのが安息日だったからだ。安息日は天地創造の後に主が仕事を休まれたことに由来する。主は安息日を祝福し、聖別された。他の日とは違う、特別な日となったのだ。当時でいう安息日は土曜日であって、その日にはいかなる仕事もしてはならない。このことは十戒の第4の戒めに明記されている。しかし、仕事とは果たしてどこからどこまでが含まれるのか?そこまでは聖書に書いていない。ファリサイ派の律法学者は律法を徹底的に守ることにこだわる。安息日を破ることは死罪に値する。そこで、律法学者は意図せず安息日の掟に違反しないために、安息日について、何が仕事で何が仕事ではないかという細かい取り決め、つまり施行細則を大量につくった。ファリサイ派の律法主義はこの安息日の掟という点に凝縮されているのだ。施行細則の中には、収穫、脱穀、ふるいわけ、食事の用意を禁止事項として定めていた。弟子たちはこれらを全部破った。摘むのは収穫、手で揉むのは脱穀と食事の用意、揉んだものの中から麦だけを分けて食べるのはふるいわけにあたる。それでファリサイ派の人々はすかさずイエス様の弟子たちが「安息日の掟を破るという重大な犯罪を犯した!」と指摘したのだ。

イエス様も安息日に仕事をしてはならないことくらいは知っていて、いつも守っている。イエス様は主なる神だ。安息日の掟を定めた張本人だ。ファリサイ派の人々よりももっと、何のために安息日を定めて、何が違反で何がそうでないかを熟知している。ファリサイ派の人々の主張はイエス様の御心から遠く離れていた。イエス様の反論をみてみよう。3-4節。「読んだことがないのか」と書いてある。何を読んだことがあるか聞いているのか?旧約聖書だ。イエス様はサムエル上に書いてある内容を引用された。ファリサイ派の人々が根拠とした安息日の掟の施行細則というのは決して聖書ではなかった。イエス様は聖書に基づいて、弟子たちが罪を犯していないことを弁明された。ここに私たちが敵に訴えられたときの図式を見ることができる。私たちが主の弟子として主に従うなら、イエス様はサタンや世の人々の訴えから私たちを弁護して、無罪を立証してくださるのだ。

ダビデというのはイスラエルの王になるべく油注がれた人。主に仕えた人だ。このときダビデは空腹だった。そこで、主の天幕に行って、祭司からパンをもらって食べた。それは供えのパンであってアロンの家系の祭司しか食べてはならないということがはっきり書いてある。
レビ記24:5-9。だから、本来は祭司しか食べてはならない。ダビデは祭司ではないので、パンを食べる資格がない。しかし、ダビデもパンを与えた祭司もこの点について罪に問われていない。ダビデには窮乏と空腹という緊急の必要があったからだ。その場合、主は慈善のために与えることを喜ばれる。それは麦を摘んで良いという慈善の規定と同じ精神だ。主は憐れみ深いお方なのだ。貧しくてお腹が減っている人には、御自分のパンを喜んで与えようとしてくださる。イエス様の弟子たちも同じように緊急の必要があった。イエス様一向はお金をもらわずに奉仕をしていた。そして、街から街へと宣教の旅をする過酷な生活をしていた。住む家もない。だから、事前に安息日用の食事を用意しておくことは難しかった。そのような緊急の必要は、人間が勝手に作った施行細則に優先される。

ファリサイ派の人々はサムエル上を読んだことがなかったのかといえば、読んだことがあった。しかし、主の御心を知ろうとして読まずに、ファリサイ派の自説にマッチすることを読み取ろうとしていた。こういうことは教会でもよく起こる。聖書から真理を悟ろうとするのではなく、自分の考え、自分の神学を聖書に押し付けようとする。それでは何も学ぶことも悟ることもできない。

イエス様は安息日に麦を摘んで食べることを許可した。イエス様にはその権威がある。5節。人の子というのはイエス様のこと。人の子というのは旧約聖書のダニエル書やエゼキエル書にも出てくるメシアを表す称号だ。イエス様は安息日の主だ。イエス様が十戒やその他の律法で安息日の掟を定めたのだから、イエス様には何が違反で何がそうではないのかという点を決める権威がある。ファリサイ派の人々は安息日の施行細則によってイスラエルの人々をがんじがらめにしてしまった。安息日なのに、安息を得られない日にしてしまった。それは主の御心ではなかった。安息日は安息日の主であるイエス様を通しての霊と魂の解放を経験し、安息を得る日だ。イエス様と安息日には深い関わりがある。安息日は土曜日だったので、ユダヤ人は土曜日にシナゴーグに集まっていた。しかし、使徒言行録ではクリスチャンの集会は週の初めの日、つまり日曜日に行われていたことがわかる。使徒パウロはⅠコリントでコリント教会に週の初めの日に献金を集めるように指示している。イエス・キリストが日曜日に復活したので、安息日の意味が日曜日に引き継がれたのだ。それでクリスチャンは、日曜日を主の日、主日として守る。そのことはヨハネの黙示録で使徒ヨハネが幻を受けたのが、「ある主の日」だと書いてある通り、教会の初期のころからのことだ。だから、安息日を守るというと、私たちにとってはひとまず日曜日の礼拝を守ると考えれば良い。日曜日を聖なる日として礼拝を守ることにより私たちの一週間はイエス様が中心になる。私たちのカレンダーはイエス様が中心になる。私たちの人生はイエス様が中心になる。これが安息を得る秘訣だ。イエス様を中心に集まり、主を賛美し、リフレッシュして、力を得て、遣わされた場所に派遣されていくという善いサイクルで生きる。

6-7節。イエス様はまた教えておられた。イエス様はこのようにことあるごとに教えられたのは、なぜか?私たちにはいつも教わらなければならないことが山ほどあるからだ。もう十分ということは決してない。今日も、いつも、教えられなければならないと認識してイエス様の御言葉に耳を傾けよう。そこに右手の萎えた人がいた。ほかの福音書ではどちらの手だったかは触れていないが、ルカによる福音書だけ、右手が萎えていたことを明らかにしている。右は力と祝福を象徴する。右手が萎えてしまったら、ろくに仕事をすることができない。自分や自分の家族が食べていくことができない。この人は窮地に陥っていたのだ。ファリサイ派の人々はその人を見て、憐れむのではなく、訴える口実になると考えた。イエス様が癒そうものなら、「安息日にしてはならない治療にあたる!」と声高に叫ぶつもりだった。

安息日にも命にかかわる症状の場合は何らかの処置をとることは良しとされたが、そうでない場合、ファリサイ派の施行細則では禁止とされた。右手の治療はすぐに命にかかわるほどではないからファリサイ派の施行細則に照らすとだめだ。彼らはその人を出しにしてイエス様を攻撃しようとしたのだ。ファリサイ派の人々はイエス様が正しいか言動によって判断しようとするのではなく、律法主義にとって都合が悪いので陥れようと最初から決めこんでいた。

8節。イエス様はファリサイ派の人々の悪意ある計画をありありと見抜いた。その上で、イエス様は逃げも隠れもしなかった。イエス様はファリサイ派の人々の目にとまらないように、陰でこそこそと右手の萎えた人を癒そうとはしなかった。陰でこそこそしなければならないのは後ろ暗いことだ。イエス様には何ら後ろ暗いことがない、イエス様は光の子だ。神の栄光で満ちたお方だ。イエス様は右手の萎えた人に「真ん中に出なさい」と言われた。イエス様はこれからなさることを光に照らして、すべての人の目に映るようにされたのだ。正しいことをするとき、敵意を持つ人々がいたとしても堂々としていればよい。人に対して自分がクリスチャンであるということを堂々と宣言しよう。伝道するときには力と聖霊と強い確信によって、イエス・キリストを信じれば救われることを大胆に伝えよう。正しいことは真ん中に出て行おう。そこがイエス様がおられ、働かれる場所だ。

9節。この質問はそのまま答えを導き出すことができるもの。安息日に許されているのは、善を行うことであり、命を救うことだ。だから、右手の萎えた人を癒すことも許されている。ファリサイ派の人々は安息日について何千もの施行細則をもっていた。しかし、イエス様の基準はシンプルだ。「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」これなら誰でもすぐに判断できる。そして、ファリサイ派の人々が考えていたよりもずっと多くのことが許されていることがわかる。主の御心は私たちが萎縮してしまわずに、積極的に善を行い、人々を救いに導くことだ。

10節。イエス様は一同を見渡した。イエス様の革新的な安息日の基準は、しかし誰も公然と反論することができなかった。誰もイエス様が癒すのをとめなかった。イエス様は右手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われた。右手の萎えた人の症状というのは手を伸ばせないことだ。しかし、この人は「それは不可能です」「無茶言われないでください」と理屈を言わなかった。主が言われたことはまず理屈を言わずにやってみるということが肝心。主がひとこと言われた瞬間にもう癒しは起きていた。後はこの人が従順して手を伸ばしてみるかどうかにかかっている。だから、癒しの祈りを受けた場合、もう癒されたと信じてそれまでできなかったことをしてみると良い。聖霊のバプテスマを受けるために祈った人はもう聖霊のバプテスマを受けている。後はその人が信仰をもって従順して異言で祈るかどうかにかかっている。

イエス様は律法についての正しい基準をもとに、善を行った。ファリサイ派の人々もそれに対して何の反論も非難もできなかった。イエス様が正しかったからだ。にもかかわらず、彼らはどうしようとしたのか。11節。このことによってファリサイ派の人々は自らの悪を証明している。彼らは正しいお方を排除しようとした。しかも安息日にそれを話し合った。彼らは安息日にやってはならない、悪を行うこと、命を滅ぼすことについて話し合ったのだ。私たちもイエス様とぶつかることがあるかもしれない。そういうとき、自分の立場に固執してイエス様を排除しようとするのではなく、悔い改めて、イエス様に立ち帰る者となろう。

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