主はシオンに住まわれる[ヨエル書4:16-21]

ヨエル書
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シオンの砦である主はもうどこにも行きません。

主はシオンに住まわれる[ヨエル書4:16-21]

主はシオンに住まわれる[ヨエル書4:16-21]

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【ノート】
4章は15節までがメシアの再臨と裁き。イエス・キリストは再臨してヨシャファトの谷に集めた反キリストの軍隊を裁きを降した。勝利を確信して意気揚々と世界中から集まった軍隊をイエス様が一気に滅ぼした。主の栄光は全地に満ちた。
その時の主の様子が16節。ほえたけると書いてある。ほえたけるのは、獅子、ライオンがする動作だ。獅子はメシアを表している。ライオンが吠えるのを見たことがあるか?私は感謝なことに一度ある。動物園に行っても、ライオンはたいてい寝ているだけということが多い。しかし、私が見たとき、その立派なたてがみの生えた雄のライオンは私の方を見て吠えた。ライオンが吠えると空気がビリビリ振動する。その咆哮はなんと8kmくらい先まで聞こえるという。天も地も震えるというのは本当だ。空中にいる残りの悪霊どもも、地上にいる残りの反キリストの勢力も、その他のすべての被造物も震えあがる。

ライオンが吠えるのはなぜか?縄張りを主張するためだ。「この場所は私のもの」。主がそう正当に主張するのは、シオンとエルサレムだ。16-21節でシオン、エルサレムという言葉がそれぞれ三度出てくる。シオンは元々エブス人の要塞の丘の名前でダビデによって占領されて「ダビデの街」と呼ばれるようになった場所。つまり、エルサレムのある丘のことだ。その特徴は優れた防御力だ。シオンは難攻不落の要塞なのだ。シオンの丘は歴史上何度も陥落しているので、「優れた要塞」というイメージがないかもしれない。しかし、実際には優れた要塞に違いない。エブス人がダビデに「お前はここに入れまい」と自信満々に言ったのは、それだけ攻撃が難しい要塞だったからだ。シオンの丘は東側をキドロンの谷、南側をヒノムの谷で囲われている。ヨセフスのユダヤ戦記によると紀元70年のエルサレム陥落のときには、三重の城壁で囲まれていて、外周を囲う第三の城壁に至っては幅約5m、高さ12mもあった。そのときエルサレムが陥落したのは、ろくに軍事的な訓練も受けたことのない過激派の熱心党が籠城していたからで、もし正規軍が戦略的に守りを固めたら、ローマ軍といえど落とすのは難しかったかもしれない。しかし、結局陥落した。しかも何度も。なぜか?シオンの守りの要であられた主がついておられなかったからだ。陥落したときの人々はいずれも主に背いて罪を犯していた。バビロン捕囚のときは、預言者エレミヤを通して語られた御言葉に背いて悔い改めようとしなかった。紀元70年のときは、イエス・キリストを受け入れずに十字架につけてしまった後だ。もし人々が主を主として受け入れるのであれば、どうなるのか?ユダ族から出た獅子であるメシアがシオンで「この場所は私のもの」としてほえたける。そうであれば、どんな強力な軍隊もシオンを落とすことはできない。城壁や丘以上に主こそがその民の避け所であり、砦なのだ。千年王国以降、シオン、エルサレムは完全に守られる。完全な平和が実現するのだ。

シオンも、エルサレムも神の国を表す言葉でもある。天国は新しいエルサレムだ。天国は一つの新しいエルサレムという都市として物質的に存在する。それと同時に霊的な実体もある。新しいエルサレムは、キリストの花嫁なる教会とその一人一人によって構成されるものでもある。クリスチャンはキリストにつながって霊的に成長していくにつれて心の中に都市を建設する。私たちが心をキリストにささげるなら、キリストは私たちの心の内で「この場所は私のものだ」としてほえたける。ユダ族の獅子が私たちの心を守り戦ってくださる。だから、誰も私たちの心に手出しできなくなる。私たちはあらゆる霊的な攻撃から守られる。人知を超えた完全な平和を得る。キリストにささげ、キリストに守っていただく者となろう。

17節。これは出エジプト6:7の引用だ。私たちは私たちの神である主を知っている。聖書を通して知識的に知り、聖霊様を通して体験的に知る。
しかし、救いの御業を体験するとき、主の新しい一面を知ることになる。モーセのときにイスラエルが知ったのは、主がエジプトの奴隷生活の苦しみから解放させてくださることだ。クリスチャンは、罪の奴隷生活の苦しみから私たちを解放させてくださった。ハレルヤ!私たちはそのことを知っている。主は出エジプト6:7では、エジプトの重労働の下から導き出すと言われた。導き出して、どこに連れていくのか、どこがゴールなのか?それがヨエル3:17だ。ゴールはシオンだ。そこに主と主の民が共に住まう。主の救いの御業の完成は主と共に住むことだ。黙示録にもそのことが書いてある。新しいエルサレムでこのことがもっと完全な形で実現する。黙示録21:3-4。主は私たちを愛して一つの家族となって一緒に住んでくださる。これが主が天地創造の前から持っておられた計画だ。主はあらゆる良いものの源なるお方。天国が天国であるのは主がそこにおられるからだ。主と共に住むということ、このことも私たちは部分的に知っている。イエス・キリストが私たちの内に生きておられるので、私たちはこの仮宿の体で主と一緒に住んでいる。そのことがもっとはっきり実現するのが、主がシオンに住まわれる千年王国で、完全に実現するのが、主が神殿となられる新しいエルサレムだ。私たちには大きな楽しみが二段階にわたって待っている。

エルサレムは聖なる地となり、もはや、異国の民がそこを通ることはないと書いてある。エルサレムは聖なる地なのでそこに住む特権は聖なる民であるイスラエルと教会のものだ。どこにいっても未信者が全然いない国というのはないが、千年王国のエルサレムは100%クリスチャン。主を嘲る人は誰もいない。それではほかの人々は全くエルサレムに入れないのかというとそうではない。異国の民というのは、異邦人の軍隊のこと。もう主がエルサレムにおられるからには、異邦人によってエルサレムが蹂躙されることは二度と起こらないということ。しかし、礼拝目的の異邦人は全世界から主の下に集まってくることになる。ゼカリヤ14:17。すべての民族が千年王国の王である主を礼拝するために、エルサレムに昇ってくる。

18節。イスラエルが約束の地にふさわしい様になるのを4種類の光景を持って示す。2章では農業の回復が語られ、産物が豊かになるという経済的な面が強調されたが、ここでは地が麗しく、恵みで満ちていることを見る。患難時代には、反キリストによる焦土作戦や神の裁きによって雨が降らなくなったり、水が苦くなったり、水が血に変わったり、イスラエル中が血に浸るほどの流血があったりする。それで約束の地はすっかり荒れ果ててしまう。主はそれを回復し、患難前よりももっと麗しい、聖書で約束されている本来の姿を取り戻させてくださる。

まずは、山々にぶどう酒が滴る。これはぶどうが豊かに取れるということ。カナンの地の偵察隊はひと房のぶどうがついた枝を切り取って、棒に下げて二人で担いだ。大人二人が担がなければならないくらいひと房のぶどうが豊かに実ったのだ。このぶどうが約束の地の豊かさを象徴した。これは決して誇張ではない。世界一大きな房ができるとされるブドウは中東シリア原産の「ネへレスコール」だ。平均でも長さ40-50cm、重さ2kgくらい、重いものではなんと10kgを超えるものもある。千年王国では、そんなぶどうがあちこちでとれるのだ。ぶどう酒は主が与えてくださる喜びを表している。千年王国では主にある喜びが尽きない。

次にもろもろの丘には乳が流れる。これは乳を出す牛や羊が食べる牧草が豊かにあるということ。約束の地のことを主は繰り返し、乳と蜜の流れる地と言われた。まさにその通りにしてくださる。千年王国全体が詩編23編の青草の原と憩いの水で満ちて、私たちの魂は常に生き返る。乳は、栄養のあるものであり、御言葉を象徴する。千年王国では食べ物と御言葉によって私たちの霊肉は養われ、あらゆる点で健康で、気力も体力も充実する。また、乳は子供を養う飲み物でもある。千年王国では、キリストの地上再臨をきっかけにイエス様を信じた人々は、子供を生む、栄光の体を持って復活したクリスチャンは、新しい世代をキリストに導く責任がある。

三番目はユダのすべての谷には水が流れる。ユダの谷の水は、歴史上、旱魃によって何度も枯れてしまうことがあった。しかし、千年王国で流れる水は主が管理してくださり、主が豊かに雨をふらせてくださるので、決して枯れることがないので、水不足に悩まされることはない。それは御言葉を守る人が受ける祝福だ。千年王国では、すべての人が流れのほとりに植えられた木のように、時が来て実を結び、葉もしおれることがなく、そのすることはすべて繁栄をもたらす者となる。

最後は主の神殿から湧き出る泉だ。これはエゼキエルが神殿の幻の中で見た光景とも一致する。泉の水はシティムの川を潤す。シティムというのは、アカシアのこと。アカシアはアフリカを中心に熱帯や温帯の植物で、地中深くに根を張るので、ほとんど雨の降らない砂漠でも生きていくことができる。過酷な環境でも生きていける命を持った植物なのだ。契約の箱はこのアカシアの木でできている。契約の箱は主の臨在と永遠の命の力を運ぶものとして用いられた。シティムの川とは、アカシアがたくさん生えるキドロンの谷に川が流れるということだろう。神殿から命の川が流れてアカシアが繁茂して、主の臨在と命が全地に満ちていくということ。

19-21節。イスラエルの繁栄と対照的な扱いを受けるのが、エジプトとエドム、現在のヨルダンだ。この二国はイスラエルと地理的に近く、創世記のころからずっと関わりが深い。彼らは主の会衆に加わる権利を持っている。申命記23:8-9。エジプトとエドムはイスラエルにとって、敵になったり味方になったり、敵になったり味方になったりと二転三転する。和解と裏切り、服従と離脱を繰り返す。しかし、大患難時代には彼らはユダヤ人を最もひどく迫害して血を流す側に回ってしまうのだ。主を知る機会が多かっただけにその責任は重い。それで、彼らは裁かれることになる。イエス様はヨシャファトの谷で裁きを行ったが、当然その戦いだけで悔い改めなかったすべての人々が裁かれたわけではない。主は、特に御自分の民を苦しめる罪を犯して悔い改めなかった人々を裁く。エジプトとエドムというのは代表する二国。同じように主を知る機会がたくさんあったにもかかわらず罪を悔い改めなかった国々と個人個人はその罪に応じて裁きを受けることになる。千年王国では、全世界がエデンの園のように麗しくなっていくにも関わらず、エジプトとエドムのように主の民を攻撃して悔い改めなかった国々だけはその罪のしるしとして荒廃したまま、人の住めない地となる。個々人についても、血の復讐を受けることになる。こうして、ヨシャファトの谷で裁かれなかった国々と人々もみんな公平に裁きを受けることになる。

しかし、主の民には良いことがある。エルサレムは世々に渡って主の民が住むところになる。もはや、戦いによって荒廃することが二度とないということ。それは、主がシオンに住まわれるからだ。シオンの砦である主はもうどこにも行かない。私たちを孤児にはなさらない。私たちといつまでも共にいて私たちを守り、永遠の平和を与えてくださる。このことを希望として、この時が来るまで、主に心を明け渡して、主と共に信仰によって歩んでいこう。アーメン。

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