主に向かって嘆きの叫びをあげよ[ヨエル書1章]

ヨエル書
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大きな災いは主の日の前兆です。

主に向かって嘆きの叫びをあげよ[ヨエル書1章]

主に向かって嘆きの叫びをあげよ[ヨエル書1章]

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【ノート】
ヨエル書は非常に短いが、神のマスタープランが凝縮されている。小預言書というのは、最初12冊が1セットの巻物になっていた。それは、その書物の1つでも失われることのないようにという配慮からだ。小預言書は年代順に並べようとしたもの。ヨエルはホセアの次の二番目に位置する。すべての正確に年代順になっているかは定かではないが、ヨエル書は最も初期の預言書とみることができる。預言者エリシャが北イスラエルで活動していたころに、ヨエルは南ユダで活動していた。ヨシャファトの谷という言葉が二度出てくるが、これは当時の南ユダの王ヨシャファトがアンモン、モアブ、セイルの山の住民の連合軍に勝利したことが由来だろう。ヨエル書には、他の預言書で引用されていると思われる箇所が20か所もある。ヨエル書は預言の土台となる書物なのだ。
ヨエル書のメッセージは、主の日が近づいているから主に立ち帰れ。ヨエル書には主の日という言葉が5回登場する。だから、ヨエルは主の日の預言者と言われている。主の日とは、どの日のことなのか?ヨエル書では、主の日として、異民族からの侵略が預言されている。それは、アッシリアとバビロンの侵略によって成就した。そういう意味では、主の日は過去の出来事だ。しかし、将来実現する主の日もある。預言者ゼカリヤもマラキは明らかにバビロン捕囚よりも後の預言者だが、将来実現する主の日について預言している。また、ペンテコステでの聖霊降臨のとき、ペトロは「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」と証しした。ペトロの引用には主の日というのがあった。さらに、使徒パウロも将来実現する主の日を預言している。Ⅰテサロニケ5:1-4。これはキリストの空中再臨とクリスチャン携挙の直後に書いてある箇所だ。大患難時代での厳しい裁きを指している。つまり、主の日は神の民が歴史上で何度も経験することになる日であり、究極的には将来、世の終わりに完全に主の日の預言が成就するのだ。ヨエル書には、過去の出来事と同時に、究極的な意味での主の日の成就とその前に起きることについて書いてある。私たちはヨエル書から、自分とは何の関係もない昔話を知るのではなく、これから起こるであろう大イベント、いまも成就しつつあり、私たちが経験しようとしている大イベントのことを知るのだ。
それでは、主の日とはいったい何なのか?主の日の特徴は何か?バビロン捕囚のような未曾有の災いだ。主は忍耐強いお方であり、性急に御自分で裁きをなさる事はない。しかし、あるとき主の憐れみによる忍耐よりも、正義をなす必要性の方がずっと強くなる。それが臨界点に達するときが主の日だ。主の日には、主は御手を動かして諸国に対して、御自分の民に対して大いなる災いを降すのだ。主の日には、今までの人生経験は何の頼りにもならない。経験したことのないことばかりが起こるからだ。その日にはゆる動かれないもの以外のすべてがゆり動かされる。この恐るべき主の日が来る前に、主に真心をもって立ち帰らなければならない。もし真心から立ち帰るなら、ペンテコステの時に引用された聖句が完全な実現を見る。つまり、全世界のあらゆる場所に聖霊様の激しい傾注がなされて、世の終わりの大リバイバルが起こるのだ。

1章は農業の危機について。これは経済危機ということでもある。将来有望に見えたビジネスは破綻し、お金がただの紙切れになってしまう。お金を崇めていた人々は悲嘆にくれることになる。一部のクリスチャンも言うだろう。「こんなことなら主が言われた通りにもっと天に富を積んでおけばよかった。この世の富を虫が食ってしまうというのは本当だった!」
1節。ヨエルの自己紹介。ペトエルは「神の偉大さ」という意味。ヨエルは「主は神である」という意味。ヨエルというのは非常にポピュラーな名前で、聖書には少なくとも預言者ヨエル以外にも13人も登場するが、 このヨエルと同一人物だいえる人はいない。ヨエルの自己紹介は短くて、時代も出身も職業もわからない。しかし、それでいい。なぜなら、ヨエルを通して書かれただけでこれは、主の言葉だからだ。人間ヨエルではなく、主が語られた。だから、私たちはこの内容に注目をしなければならない。

2節。まず老人に目を向ける。老人というのは、最も長く生きている部類の人々だ。そのときに生きている人の中では最も長く歴史を経験している。だから、珍しい出来事が起きたときには、「こういうときはどうすればいいんですか?」と老人の知恵を借りる。ところが、その老人たちも誰も経験したことがないことが起こった。
次に地に住むすべての人に目を向ける。そこには、多種多様な多くの人々が広い地域に住んでいる。稀にしか起きない出来事だとしても、多くの人々がいれば、何人かは経験している人がいるだろう。しかし、地に住むすべての人に尋ねても、誰も経験したことがない。それどころか、先祖から「過去に起こった」と伝え聞いたことすらない。一度も起こったことがないひどいことが起こったのだ。私たちが困ったときに頼る知識、経験、他の人々、どれも頼ることができない。検索をかけても、役に立つ情報が何も出てこない。主の日には、そういう状況に直面することになる。人類が今置かれている状況もそうだ。コロナでこんなふうに社会が変わってしまうというのは、誰にとっても未経験のことだった。人類史上初のことを私たちは経験している。

そういう未曽有の災いに経験した人には義務がある。3節。次の世代に語り伝えるということだ。何のために次の世代に語るのか?怖がらせるためではない。主の日が来る前に主に立ち帰るように警告するためだ。また未曾有の危機が来る。もっと大きな危機が来る。そのレベルも内容も違う。だから、私たちは、パンデミックに備えるためのハウツーを次の世代に伝えるのでは意味がない。そういうことは役に立たない。「さらなる危機が来る」と警告して霊的に目覚めさせることが必要なのだ。

ヨエルの時代に襲った危機が4節。いなごだ。いなごは律法では清い動物とされていて、食べることができる。日本でもイナゴの佃煮を食べる習慣がある。何匹かいても、人間の食糧とすることができるのだ。しかし、群れをなして襲ってくると逆に人間の食糧を食い尽くされてしまう。この群れをなして襲ってくるいなごというのは、サバクトビバッタのことだ。サバクトビバッタのことを私たちは去年ニュースで聞いた。東アフリカ諸国で2020年の初頭に大量発生した。通常サバクトビバッタは単独で行動する。しかし、サイクロンが発生し一定の熱さと湿気になるなどバッタの活動にとって好条件となる。この好条件がしばらく続くと突然爆発的にその数を増し群れとなって周囲に広がって行き、「群生相(ぐんせいそう)」と呼ばれる形へ体が変化する。群生相になると成虫は体の色を緑から黄色や黒に変え、長距離を飛ぶのに適した形態に発達して、群れを作るようになるのだ。まるで別の生き物のように変わってしまう。そして風の助けを借りて、雲のように他の地域に移動しはじめる。地表近くを飛ぶ群れもあれば、風に乗って1500mを超える上空を飛ぶ群れもある。緑色の植物を自分の体重の分だけ毎日食べ続け、成長し、移動する。その移動距離は1日100km。1つの群れには1平方キロあたり4000万匹から8000万匹ほどのバッタがいるとされ、4000万匹でも1日で約3万5000人が消費する食料を食い尽くしてしまう。また、群れは別の群れと合流しそのサイズをどんどん大きくする。2020年1月にケニアで発見された群れは、40×60キロ(2400平方キロ)の面積を覆っていた。これは東京都(2194平方キロ)がすっぽり入ってしまうほどの広さだ。イスラエルにそのサバクトビバッタが襲い掛かっていたのだ。しかも襲撃は繰り返し行われた。いなごという言葉は、聖書では10種類の言葉で書かれているが、ここではそのうちの4種類の言葉で書かれている。いろいろないなごが4回に渡り波状攻撃をしかけてきたのだ。前の襲撃でかろうじて残った作物も全部食い尽くしてしまった。完全に破産状態になってしまうということ。これでは食べていくことができない。飢え死にしてしまうかもしれない。

こんなひどい目にあったらどうすればいいのか?ヨエル書には、何が原因でいなごが襲来してきたのかが書いていない。他の預言書には、罪のゆえの神の裁きなのだと書いてあることが多いが、具体的に何かこういう罪を犯したということが書かれていない。
災いに遭う原因というのは様々だが大きく3つ。1.人間の罪による神の裁きの場合もあれば、2.悪魔による場合もある。3.罪の呪いによってうめいている自然界による場合もある。
ひどいことが起きたときはこれら3つのいずれかか、いくつかか、全部が原因だ。では、ヨエル書のいなごの災いの場合はどれなのか?それは書いていないのでわからない。わからなくても、私たちがとるべき内容というのは1つだ。主は5-14節でとるべき反応を教えてくれる。それは泣け、嘆けというもの。誰に対してか?もちろん主に対してだ!主に対する祈りの中で、泣き、嘆き、憐れみを求め、主に立ち帰るのだ。コロナ禍の原因もいろいろ言えるが、肝心なのは私たちが主に対して祈り、泣き、嘆き、憐れみを求め、主に立ち帰ることだ。いなごが4回に渡って襲撃してきたということは4回も断食して主に立ち帰る機会があったということ。イスラエルはその機会を全部逃してきた。それで預言者ヨエルが遣わされて「泣きなさい。嘆きなさい。聖なる集会を開きなさい。断食しなさい」と呼びかけている。そうすれば次なる災いが終息する。5-12節までで主は嘆くべき嘆かわしい状況を指摘している。

5節は鈍感な人よ嘆け。危機に際して一番鈍感なのは酔っ払いだ。自分自身がふらふらしているので、異変が起こっても気づかない。これは、世という酒に酔っぱらって心がにぶくなっている人にあてはまる。主はそういう酔っ払いが目覚めて危機を認識し、泣くように命じておられる。まもなく酔っ払いの大好きなぶどう酒がなくなってしまう。ぶどうが食い尽くされたからだ。そのように、この世という美酒に酔ってきた人もそれを味わうことができなくなることを認識して、泣かなければならない。

6-7節は国が侵略されていることを嘆け。いなごの群れの襲来は異民族の侵略のようだった。いなごは獅子のように鋭い歯でぶどうの木といちじくの木の樹皮まではぎとって白い裸の状態にしてしまった。いちじくとぶどうはどちらもイスラエルを象徴する木だ。国が敵によって丸裸にされ、滅びの危機に瀕していることを嘆くのだ。私たちは日本を愛そう。日本が大きな危機に瀕するときには、そのことを嘆こう。自分の国を愛するというのはごく自然なことだ。国と民族を造られたのは主であり、主が私たちをそれぞれの国でそれぞれの国民として生まれるようにされた。オリンピックを観るとき、特に贔屓の選手がいない場合、どの国の選手に注目するか?当然自分の国の選手だ。そこまでの愛国者と意識していなくても、自分の国の選手がたくさんメダルをとることを喜ぶ。私のチャンネルの動画を観てくださる方の中には、海外にお住まいの方もいるし、日本以外の国籍の方もいる。それも感謝なこと。しかし、私がまず対象にしてメッセージを届けている相手は日本に住む日本人だ。軍隊のようないなごの群れの襲来にイスラエルは手も足も出なかった。それはやがて来ることになるアッシリアとバビロンによるイスラエルの滅亡と重なっている。これらの超大国はやがて誕生することになる反キリストの帝国を表している。

どのくらい嘆くことを主は求めておられるのか?8節は嘆く度合。イスラエルでは、婚約して法律的には夫婦となり、それから1年くらいしてから一緒に住むようになる。これは、これから一緒になろうとしている直前に夫に死なれてしまった若いやもめのこと。幸せな未来の希望が断たれてしまった。そのくらいの圧倒的な悲しみで泣き悲しめと命じられている。

9節は献げ物の中断を嘆け。祭司は、律法で規定された通り、毎日穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物をささげる務めを担っていた。穀物とぶどう酒の材料のぶどうが全部食い尽くされたので、献げることができない。その務めを中断しなければならないということを嘆く。忠実に神に献げ続けたいのに、それができない!与えられた使命を果たすことができない!それを嘆くのだ。教会で集まれなくなった方もいらっしゃる。それを嘆いた人もいるだろう。それは嘆くべきことだ。やったオンラインで礼拝がお手軽になったとか、これで日曜日を好きなように過ごすことができると考えることはありえない。王の系統を引く祭司としての使命を果たせないことがあれば、心からの嘆く。

10-12節は経済的破産を嘆け。農夫たちとぶどう作りたちは苦労して育てた作物を全部奪われてしまった。仕事の成果が台無しになってしまった。自分の専門が役に立たない。自分の専門を生かして糧を得ることができない!飢餓の危機に直面すると同時に、職業人としてのプライドが傷つけられ、失望と屈辱に覆われる。そのことを嘆く。また、人々は農夫たちが育てたものを通して楽しむことができなくなった。経済的破産はそれまで人生の唯一の楽しみ、唯一の娯楽としていたものを手に入れることすら困難にする。そのことを嘆く。

13-14節は聖会と断食の命令。主は、預言者を通して、いかにひどい災いに直面しているのかを認識させた上で、すべての人に断食し、聖なる集会に参加して主に向かって嘆き叫ぶようにと命じた。困難な状況を通して主に立ち帰る人は多い。コロナ禍をきっかけに主を信じるようになった人はものすごく多い。しかし、果たして、主に対する熱心さは十分なのか?霊に燃えて主に仕えているか?主に切なる心で祈っているか?断食をして、主に嘆きの叫びをあげたことがあるか?私たちはひどい危機に陥っても、思ったほど主に対して熱心にならないのだ!断食の布告は、すべての神の民に対してなされている。災いの終息のためにすべてのクリスチャンが断食祈祷をするように召されている。そして、すべてのクリスチャンに断食して祈ることはできる。断食というのは何も食べないということだけではない。主以外のことを遮断して、主に集中するということだ。災いの終息のためにはそれが必要だと信じる。
イスラエルは預言者を通して語られた御言葉にすぐに従わなかった。ひどい状況が目の前に広がっていたのに、まだ主に立ち帰らなかった。断食して神を呼び求めるということは誰でもできる。非常にシンプルなこと。なぜしないのか?祈るのが面倒だから?何か他の手段が功を奏することを期待しているから?もちろん問題が起きたときに神に祈る以外の方法でできる対処があるならすれば良い。しかし、それと同時に祈ることは必須だ。神が御自分に解決を求めることを望んでおられる。だから、それ以外の方法をとるなら、決して解決しない。災いは続く。もしイスラエルが従っていたら、災いは短期間で終息していただろう。しかし、立ち帰らなかったので、災いは長期間に及び、さらなる災いが続けて起こることが決定的となってしまった。

15節。いなごの群れの災いは、主の日ではなかった。いなごの災いが主の日だということは一言も書かれていない。いなごの災いも誰も経験したことも聞いたこともないひどい災いだったのに、それは主の日の前兆に過ぎなかった。患難期前に携挙されるなら、クリスチャンはヨエル書の災いとは何の関係ないもない、とは言えない。少なくともいなごのような災いは主の日の前兆としてすべてのクリスチャンが通る可能性があるものだ。
主の日には、もっとずっとひどいことが起きる。それが2章に出てくる軍事的危機だ。BC721年のアッシリアによる北イスラエルの滅亡とBC586年のバビロンによる南ユダの滅亡と捕囚だ。南ユダ王国はエルサレムを神殿もろとも破壊され、1000kmも離れたバビロンまで奴隷として引かれていった。それが主の日に起きたことだ。しかし、主の日の預言の究極的な成就のときには、もっとひどいことが起こることになる。それが大患難時代。神に逆らうものはひどい苦しみの末、全滅することになる。

16-20節は二次災害と三次災害。神の宮では喜びも踊ることもなくなったと書いてある。コロナ禍になって教会からはダンスや演劇といった華々しいプログラムが行われなくなった。その代わりに行うべきなのは断食祈祷だ。
二次災害は干ばつだ。乾いた土と書いてある。ただでさえ植物が食い尽くされて水持ちが悪い状態の土だったところ、雨も降らない状態になった。いなごの災いの後にわずかに残っていた種を蒔いても干からびてしまう。新たな収穫をすることができない。飢えの危機が一層増す。三次災害は火事だ。火が荒れ野の草地を焼き尽くしたと書いてある。乾燥しきった場所では、枯草が自然発火することがある。災いに次ぐ災いだ。私たちが災いの終息について主に立ち帰って祈らないなら、これと同じところを通ることになる。災いは長引き、次の災いが来る。災いの中に神の良い目的はあるが、災いが短期間で終わることを求めるのは御心に適っている。マタイ24:22。

18節ではイスラエルでは苦しい状況にあって、牧草を食べられない牛が祈るようにうめき声をあげていることが書いてある。しかし、その祈りは聞かれない。祈りというのは地上の被造物の中でも、人間にだけ与えられた特権だからだ。イスラエルは祈らなかった。牛だけが祈りのようなうめき声をあげていた。災いの中に遭って、私たちは聖霊様を通してうめきをもって祈ろう。ローマ8:26。異言の祈りだ。祈るとき、どういう言葉で祈ればいいかわからないことがある。理性の祈りが難しいときは異言で祈るなら、神様につながることができる。理性の祈りも自然に出てくるようになる。私たちは災いが終息し、もっと大きな災いが襲ってこないように、祈ろう。逆にすべての人が聖霊様を受けることができるようにと断食して祈り、異言で祈ろう。

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