まず腰を据えて費用を計算する[ルカ14:25-35]

ルカによる福音書
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恵みの福音と共に献身の覚悟が必要です。

まず腰を据えて費用を計算する[ルカ14:25-35]

まず腰を据えて費用を計算する[ルカ14:25-35]

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【ノート】
イエス様の福音は恵みの福音だ。私たちはただ神様からの一方的な愛のご好意によって救われる。恵みによって救われる。イエス様を信じるだけで救われる。救われるというのは、ただ精神的に楽になるとか、救われた気がするという話ではない。もちろん心も満たされ、解放される。救われたことがわかる。しかし、それだけではなく、その人のすべての罪が赦される。永遠の命が与えられる。神の子となる。天国に行ける。新しいものとなり、神様に導かれた新たな人生がスタートする。これらのことが、ただイエス様を信頼して主人として心にお迎えする信仰を表明するだけで得ることができる。行いは全く救いに要求されていない。そのことを感謝しよう。これらのことを知ることがあまりにも重要なので、伝道者たちは日夜恵みの福音を語る。一人でも多くの人がこの事実を知って、救われるようになるためだ。私も同じ理由から路傍伝道をしたし、YouTubeで福音を語り続けている。

しかし、福音を信じたら、ゴールに到達するわけではない。むしろ、それは神様と共にある新しい人生のスタートだ。そこには、喜びがある。ただし、クリスチャンライフとは、ただイエス様を一度受け入れただけで自動的何をやってもうまくいく、順風満帆、大変なことは一つもなく、ひたすら楽しいだけというものではない。別に伝道者は福音を伝えるとき、騙しているわけではない。そんなことは約束していない。物事には順序があり、伝道者がまず福音を伝えるのは当然のことだ。それでも、もしかしたら、甘い恵みの福音だけが語られて、その後のクリスチャンとしての献身が必要な歩みについては誰からも全然語られないということがあるかもしれない。それではさすがにバランスが良くない。あなたは福音と献身の両方について聞いているか。イエス様は福音の恵みとクリスチャンとして必要な覚悟の両方を語られた。今回はイエス様から覚悟の方を聞いてみよう。

25-27節。イエス様が爆弾発言をしているように見えるが、誰に対して何が語られているのか、注意深くみていこう。イエス様は御自分について来ようとしていた大勢の群衆たちに対して語られた。彼らはイエス様の恵みに少なからずあずかった人々だ。言ってみれば恵みの福音を聞いた人々だ。彼らはイエス様について行こうとした。イエス様の弟子になりたいと思っていた。彼らはイエス様の恵みにあずかったので、イエス様についていけば、ひたすら良いことがいっぱいあると想像していた。イエス様はローマを倒して皇帝になり、自分たちは家来になれるだろう。しかし、実際にはイエス様が向かっていたのは十字架への道だ。そこで、イエス様は群衆たちの間違った幻想を打ち砕き、弟子の条件を提示される。その条件は十字架を背負うことだ。具体的には、イエス様ゆえに自分の家族や命を憎むことだ。家族を憎むということはどういうことか?家族を目の敵にするということか?自分の命を憎むとはどういうことか?自殺しろということか?決してそうではない。聖書には「隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあるし、「家族を捨てる者は信仰を捨てたも同然」とも書いてある。また、わが身をやしない、いたわることを当然のこととして書いてある。特にクリスチャンの体は神の神殿だから、自殺は神殿を破壊する大きな罪にあたる。家族も、自分の命も大事にしなければならない。ユダヤ人には、言葉の表現として、一つのことを強調するために、もう一つのことを完全に否定するということがある。たとえば、マラキ書には「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてある。それは、実際には神がエサウを憎んでおられるのではなく、ヤコブを愛することが強調されているのだ。
26節の憎むということもそれと同じで、イエス様を愛することに比べたら、家族や命への愛は全然及ばないくらい、イエス様を強く愛し、イエス様を第一優先にしなさいということ。イエス様、家族、命、いずれも大事だが、もしイエス様か家族か、イエス様か命かという選択を迫られることがあれば、イエス様を選ぶことが弟子には求められている。では、ここでいう弟子とは現代でいうところのどういう人々にあたるか?今はイエス様は天にあげられているが、弟子とは結局誰をさすのか?使徒11:26。弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになったとある。キリスト者というのは、クリスチャンのことだ。弟子=クリスチャン、イエス様を信じて受け入れた人。クリスチャンには、イエス様を第一とすることが求められている。イエス様を第一としていなかったら即クリスチャン失格ということまではいえない。あくまでも恵みによる救いだ。しかし、すべてのクリスチャンが、イエス様の弟子としてイエス様を第一として生きるように求められているということは明らかだ。イエス様はどうしてそんなことを私たちに要求するのだろうか?イエス様にはそれを私たちに要求する権利はある。なぜなら、イエス様は私たちを肉親よりも愛し、私たちを御自分の命よりも愛して、十字架で死なれたからだ。イエス様はそれをなさった。主が言われているのはこういうことだ。「私はあなたを愛して命を捨てた。だから、あなたも私を愛して命を捨てる覚悟を持ちなさい。」このイエス様に対してアーメンと応答する者となろう。

イエス様が群衆たちに献身の必要性を説かれたのは、群衆たちをふるいにかけるためではない。あくまでもイエス様は群衆たちが弟子として従ってくることを望んでおられる。イエス様があらかじめ大変なことがあるというのを語られたのは、中途半端な状態で、覚悟を決めていないばかりに途中で脱落してしまうことのないようにするためだ。イエス様は覚悟を決めるべきことを二つのたとえを通して語られる。28-33節。これらの二つのたとえからわかることは、第一に、無為無策でとりあえず飛び込んだら大失敗することになるということ。一つ目のたとえは、塔を建てられるか。ここでいう塔は、ぶどう園の塔のことだろう。ぶどう園では、泥棒が来ないか監視するための監視塔が作られることがあった。資金が足りなくて未完成になった建物ほどみじめなものはない。日本でも完成しなかった建物の例がいくつかある。琵琶湖湖畔の木の岡レイクサイドビル(このおか)は1968年に大阪万博による観光客をあてにして着工されたホテルだが、資金難で完成せず、廃墟と化して暴走族のたまり場となって問題となった。結局1992年に爆破解体された。また、東京都町田市のお化けマンションというものがある。100部屋の分譲マンションを想定して1967年に建築を開始し、基礎工事まで完了した。しかし、なんと土地について許可を得ないまま造られていることが判明し、工事が中断された。その後、裁判になり、建築基準法違犯まで明らかになって、工事が再開されることがなく、裁判中は現状維持のために解体もできない。24年がたち、裁判が終わって1991年にやっと解体された。お粗末な話だ。物笑いの種にされてしまう。

二つ目のたとえは、戦いに勝てるか。1万の兵で敵の2万の兵を倒せるかどうか。普通、戦いは数が多い方がかつ。兵法を説いた孫氏は敵より数が少ない場合は退却することを勧めている。だから、この戦いは非常に不利だとわかる。例外としては、攻城戦で籠城する側であれば10倍の兵力を相手にも持ちこたえられることがあるし、画期的な戦術があれば合戦でも数的に優位な相手に勝つことはある。もしそういう考えもなしに戦うならまず負けるだろう。古代の戦争で負けたら悲惨だ。戦死するか、見せしめにむごたらしく処刑されるか、奴隷として売られたり、剣闘士として殺し合いをさせられたりする。
これらの二つのたとえからわかることの第二は、まず腰を据えて計算するなら失敗を免れるということ。クリスチャンとして生きていく上でどの程度の犠牲が必要かをあらかじめ考慮するのだ。あるいは、イエス様への献身に関する重要なことを始めるにあたっても同じことが言える。新しく奉仕を始めるとか、神学校に通うとか、誰かと結婚するとかを決める場合にも、思いついたから御心だといっていきなり飛び込むのではなく、あらかじめどのくらい大変なのかを計算しておく。それをするために、毎日朝早く起きなければならない。お金が必要かもしれない。自己否定が必要かもしれない。大変な労力が必要かもしれない。計算しておけば、しっかりと覚悟を決めることができ、後になって「こんなに大変だと思わなかった」として投げ出してしまうことがなくなる。しっかりとコストを計算しよう。
でも、コストのことばかりで頭がいっぱいになることがそんなに良いことか?コストばかり考えたら、途中でやめることはなくなるかもしれないが、そもそも何も始められなくなるのではないか。それは良くない。
腰を据えて計算するという言葉は、ヘブライ語になおすと特殊なニュアンスを持つ。腰を据えては、ヘブライ語にすると座るという意味のほかに主のうちに住むとか、主のうちにとどまるという意味がある。また、計算するはヘブライ語にすると、思い巡らすという意味がある。さらには、31節の「考える」は、ヘブライ語にすると、「ともに相談する」という意味になる。主のうちにとどまって思い巡らす、主のうちにとどまって相談するといえば、何か?ディボーションだ。ディボーションをして神様の御心を知り、励ましを受け、信仰を深める。その結果、献身の覚悟を決められるようになるのだ。ディボーションを通して神様からの御言葉を受けとっているか?御心を悟っているか?私の知っている兄弟で、ディボーションをしていないのにディボーションをしていると勘違いしている人がいた。その人はとあるディボーション冊子に関するメッセージを毎日聞いていた。それでディボーションしていると思っていた。しかし、彼がしているのは、ただメッセージを聞いているだけだ。神様が自分ではない誰かに語ったことを間接的に聞いているだけだ。ディボーションは自分で神様から聞くことだ。人を通してでなく、自分で神様と会話をしなければ信仰は深まらない。ディボーションで恵みを受けて、恵みで前進するクリスチャンライフとしよう。
主のうちにとどまって思い巡らし、献身の覚悟を決めるクリスチャンはどのような存在か?34-35節。クリスチャンは塩のような存在だ。その塩としての性質はイエス様によってつけられる。塩には大きく3つの作用がある。第一に防腐作用。塩を食品にまぜると長く保存できるようになる。クリスチャンは堕落した世に対して強力な防腐剤となる。クリスチャンが存在することによってその人の周り、所属するグループ、社会が清められる。クリスチャンは人々の良心を表す存在。みだらな行い、陰口、オカルトなどについての腐敗した言葉は決して語らないし、同調しないし、その悪を指摘し、注意することができる。嘘をつかず、裏表がない。道徳が要求されている場、悪の是正が必要とされている場で最も頼られる。人を恐れず、悪におもねらずに善を大胆に支持する。
第二に味付け。どんな料理にも塩は必ず使われているというくらい味のためになくてはならない。塩のない食べ物は、まずくて食べられたものではない。クリスチャンは無味乾燥とした世界に味をもたらす。クリスチャンはその存在によって空気を明るくし、希望を保つことができるようにし、前を向いて歩めるように後ろを押される。
第三に肥料として畑に蒔かれる。塩を蒔く農法は現在でもつかわれていて、収穫量が1.5倍増したり糖度が2度上がったりと、良い作物ができるようになる。そして、除草効果もある。クリスチャンは塩のように、悪いものを枯らして良いものを育てる存在。
その人と一緒にいれば、その良い影響によって周りの人々がイエス様を信じるようになる。聖霊様の9つの実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の性質も伝播していく。肉の性質は十字架にくぎ付けにされるようになる。

このように塩は有用であり、違いをもたらす。では、クリスチャンに塩気がなくなったら、つまり、キリストに由来する性質がなくなったらどうなるか?その存在意義が全くなくなる。キリストに全然似ていないクリスチャン、それは全く役に立たず、投げ捨てられることになる。聞く耳を持ってディボーションをしよう。イエス様のご性質にあずかろう。イエス様を第一としよう。アーメン。

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