神はどのようなお方か?

福音&主題メッセージ
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このメッセージを聞いてイエス様を受け入れたいと思われた方は、次の祈りをささげてください。

<受け入れの祈り>
主イエス様、私は罪人です。
あなたが、私の罪のために、十字架で死なれ、
三日目に復活されたことを感謝します。
私は今、あなたを私の罪からの救い主、主として
心にお迎えします。
私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださったことを感謝します。
私の心の中心で、私の人生を導いてください。
私をあなたが望んでおられる者に変えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをささげます。アーメン。

神はどのようなお方か?

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【ノート】
新しい年が始まった。あなたは新しい年をどのように過ごしたいか?1年の初めにいろいろな目標を立てることは良いことだ。漫然と生活するよりも、高い目標を意識して歩む方が充実した1年になるだろう。しかし、より重要なことは具体的に何をするかではなく、誰と共に歩むかということだ。人は関わりによって生きる。どれだけすばらしいことをしても、そこに愛の関係がなければむなしいものとなる。そして、最も大事な関係は神との関係だ。365日神と共に歩むことだ。神と共に歩むというのは、神を愛し、神を全面的に信頼し、神により頼み、神の御心を心として、神に従って行動するということだ。神と共に歩むならば、何をするにしても有益なものとなる。そこで、私たちが共に歩むべき神がどのようなお方かを考えてみよう。神がどのようなお方かを正しく知れば、神への信仰が増し加えられる。世の中では、神についての間違った情報で満ちている。正確な情報はただ聖書によってのみ、得られる。聖書を通して、私たちが365日共に歩むべきお方がどのような方かを正確に知ろう。

第一に、神は霊。ヨハネ4:24。霊は目に見えない。神は目に見えない方。目に見えない存在をどうやって信じるのか?空気は目に見えない。しかし、私たちが生きていく上で空気は不可欠。同じように、私たちは神なしでは生きていけない。霊とは人格を持つということでもある。人格も目に見えない。私たちは相手の顔や外見を見ることはできても、人格は見えない。顔が見えたとして、その人の言うことを信用するかどうかは別問題。すべての人格は見えないからこそ、信じることもできれば、信じないこともできる。人を信じるためには、その人のことをよく知らなければならない。神を信じるのも同じこと。聖書を通して、特にイエス・キリストを通して神をよく知れば、神を信じられるようになる。イエス・キリストは神がどのような方かを体現されるお方だからだ。

第二に、神は永遠。創世記21:33。神は永遠の神。永遠とは、何か?始まりも終わりもないということ。ずっと続いているということ。神が永遠ということは、神には始まりも終わりもなく、ずっと存在しておられるということ。神は天地万物を創造されたが、御自分は何によっても造られずに、最初から存在しておられるのだ。人は永遠ではない。人の人生は空しい。詩編90:10。今年は長かった?あっという間に感じたかもしれない。そのように、私たちの人生もあっという間に終わりが来る。それは多くの人にとって恐ろしいことであり、考えたくないこと。だから、人は永遠にあこがれる。どうすれば、永遠を手に入れることができるのか?イエス・キリストは言われた。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」ヨハネ3:16。神は空しい人間が永遠を手に入れられるようにするために、イエス・キリストを与えてくださったのだ。

第三に、神は不変。ヤコブ1:17。神が不変であるということは、神は信頼できる方だということだ。ころころ考えや言うことや性格が変わる人は絶対信用できない。約束を破られるかもしれない。今は優しくても後で性格が急に豹変するかもしれない。そして、人というものは一般的に変わりやすいものだ。世の中の価値観も変わりやすい。人間や世の中の価値観を信仰をおくことは「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」と聖書に書いてある。不安定な人生だ。しかし、神は変わらない。なぜ、聖書がそんなに大事な書物なのか?神は変わらないからだ。聖書が書かれた当時と今とで神は変わらない。聖書に書いてある神の性質は今もその通りだ。聖書に書いてある神の約束は今も有効だ。神と神の御言葉を信じる者は、決して失望することがない。神に信仰を置く者は揺り動かされることのない人生を歩むことができる。

第四に、神は無限。神はどこにでもおられ、宇宙全体を満たしておられる。罪を犯した人々にとっては神は恐ろしい存在だ。神はあまりにも偉大で力強く、正しい方なので、ちっぽけな罪人は神を恐れて逃げたくなることがある。ダビデもそういう時があった。詩編139:7-10。神から逃げることは決してできない。神について考えることをやめることはできる。それも一つの逃げだ。しかし、その人は以前として神の中にいて、神の視線はその人に注がれているのだ。賢明なのは、逃げるのではなく、神と向き合うことだ。神に対して正しい態度をとろう。そうすれば、神を恐ろしい存在ではなく、頼もしい存在として頼ることができるようになる。偉大な神がいつも私と共にいる。これほど頼もしいことはない。あなたは神と向き合っているか?逃げずにとことん向き合い、全面的に神を頼る者となろう。

第五に、神は全知全能。神はすべてのことをご存知で、何でもおできになる。私たちには、知らないことがあまりにも多い。過去に起きたこともほとんど知らず、今何も起きているかもほとんど把握できず、未来に関して知識は無に等しい。だから、どのように生きれば良いのかわからずにまよってしまう。神がすべてをご存知だということは、神は完璧な計画を立てることができるということ。そして、神を愛する者は神の完璧なご計画に与ることができる。ローマ8:28。何が起きても神の完璧な計画は進行中だ。だから、あなたが神を愛する者であれば、神の計画の中におり、何もかもが益となる。そして、神に頼る者は、神の全能の力にあやかることができる。フィリピ4:13。主にあってできないことはない。新しいことに挑戦することは主にあって可能だ。罪を断ち切ることは主にあって可能だ。試練を耐え忍ぶことは主にあって可能だ。

第六に、神は正しい方。神はいつも正しい方だ。ネヘミヤ9:33。神が正しいからこそ、私たちは神を信頼できる。神はこの世界に道徳を打ち立て、道徳に統治をなさり、秩序をもたらしている。神はその正しさによって正しい者に報酬を与え、悪い者には刑罰を与える。神は正しい方であり、人間を正す方でもあるのだ。しかし、問題は、人間が悪いことばかりすることである。神が正義に基づいて人間を裁くのであれば、すべての人が有罪であり、罪に応じて罰を受けなければならない。すべての人は滅びなければならないのだ。すばらしいことに、神の正しさとは、ただ罪人を掟に則って徹底的に裁くということで終わらない。神は正しい方であるがゆえに、罪人の救いを願われる。神は人間が罪人であり、自分の力では罪から救われることが決してできないことをご存知だ。そこで、神はイエス・キリストを信じる者を救うことによって、神の義を示されたのだ。ローマ3:25。神の義は、私たちに正しさを示し、正しく生きることを励まし、さらには私たちを罪から救うものでもあるのだ。

第七に、神は愛だ。神はあなたをこの上なく愛しておられる。無限の愛で愛しておられる。神は愛それ自体であられる。神のすべての御心、御言葉、行動の背後には愛の動機がある。神の愛は特に何によって示されているのか?十字架だ。十字架によってキリストの愛が示されている。Ⅰヨハネ4:7-10。神はイエス・キリストをあなたの罪の身代わりに犠牲になさるほどにあなたを愛しておられる。神は知性、感情、意思に基づいて人格的にあなたを愛しておられる。神は永遠の愛であなたを愛し、決して変わらない愛であなたを愛し、無限の愛であなたを愛しておられる。神は何でもご存知で何でもおできになる偉大な方であるにもかかわらず、あなたを愛しておられる。神の正しさは、愛に基づいている。この方がいつもあなたと共におられる。この神と共に歩もう。何をするにしても神を愛し、神を全面的に信頼し、神により頼み、神の御心を心として、神の御言葉に従って行動しよう。

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