主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ[ルカ3:1-20]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

新約時代の幕開けです。

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ[ルカ3:1-20]

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ[ルカ3:1-20]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
バプテスマのヨハネが活動を開始したときは、時代の転換点だった。ルカはそれがどういう時期だったのかということをその時期の6種類の支配者たちによって説明している。新約聖書の事件というのは世界史であり、私たちの世界で起こったことなのだということもわかる。これからあげる支配者たちはイエス様の十字架の死と復活に至るまで変わらないので、福音書の時代背景を知る鍵となる。

1-2節。第一にそれは二代目皇帝のティベリウスの治世。帝政はちゃんと二代目に引き継がれたパクス・ロマーナ、ローマによる平和は安泰だった。しかし、ローマによる平和は単に戦争がないということ。人々の心には平和がなかった。なぜなら、世の中が平和になって、個々人の人間は変わらないからだ。罪の問題は解決されていなかった。日本の状況と似ている。日本も長年平和主義の恩恵を受けているが、人間の心の中は相変わらず怒り、嫉妬、高ぶり、欲求不満などで荒れ狂っている。罪の問題の解決による平和が必要だ。

第二と三と四に、それはポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、フィリピがイトラヤとトラコンの領主のときだ。これよりも前の時代、エドム人のヘロデ大王がローマに盟友としてイスラエル全体を統治していた。あのベツレヘムで二歳以下の子供を虐殺したひどい王だ。その残虐な性質を受け継いだ子供たちが領土を3分割して統治した。ヘロデ・アルケラオスがエルサレムのあるユダヤと北イスラエルの中心地だったサマリアを、ここで単にヘロデとだけ書いてあるヘロデ・アンティパスがイエス様の育ったナザレのあるガリラヤとヨルダン川東部のペリアを、ヘロデ・フィリポがヨルダン川北東部のイトラヤとトラコンを受け継いだ。しかし、アルケラオスが暴君で問題ばかり起こしたので、ローマからやめさせられて、代わりにローマの総督が統治することになった。異邦人であるエドム人とローマ人がイスラエルを統治していた。神の民は政治的には世の支配下にあったのだ。誰が世を支配していても、神の国が力強く侵入してくる上では問題にならない。政治家たちがクリスチャンでなくても、神は私たちを通してご計画を進めることがおできなる。

第五に、リサニアがアビレネの領主だった。アビレネはダマスコ近郊だ。リサニアはここ以外に全く登場しない。歴史的な資料も聖書以外にほとんど見つかっていなかった。それで、リサニアがアビレネの領主というのは間違いだとする学者たちがいたが、後になってティベリウス帝の時代の碑文が見つかってアビレネの領主は確かにリサニアだったということがわかった。聖書はこんな細かい記述に至るまで真実なのだ。聖書は何もかも真実を書いている。

第六に、アンナスとカイアファが大祭司だった。大祭司が一度に二人立てられることはない。当時の大祭司はカイアファであって、アンナスは過去の大祭司経験者だった。それなのにここで大祭司として書かれているのは、院政をしいて、いまだに政治的な影響力を持っていたからだ。大祭司はサドカイ派に属していてローマにとりいって、自分たちの利権を維持しようとしていた。神に仕える霊的な指導者としての役職が、世俗的な政治ゲームの道具になってしまっていた。それで、新しい時代を迎えるにあたってこの古い大祭司が積極的に用いられることはなかった。むしろ、新しい大祭司として来られるイエス様に敵対してしまったのだ。

このように6種類の方法でその時期を特定しているのは、それだけヨハネの活動開始というのは重要な節目だということ。これが新約時代の始まりだ。預言者マラキを最後に400年間神の御言葉が人々に臨むことがなくなっていた。その空白の中間時代を経て400年ぶりに神が公に語りだした。私たちの人生が新約に入ったのはいつだろうか?そのときはどんな時期で、日本や世界では何が起きていたか?主への感謝をこめていくつかの出来事によって記憶しておくとよい。

神の御言葉が降ったのは、荒れ野だった。先にあげた6種類の支配者たちが君臨している豪華な宮殿や神殿とはかけ離れた場所だ。不毛で、人間の目にあまり価値のないところ。住みたくない場所だ。荒れ野の利点は何か?世のものが何もないこと。世の汚れにそまることも、世の雑音で神の御言葉が聞こえなくなることもない。世のものでいっぱいになって心がにぶくなることもない。そこに御言葉が降った。世のものが何もないところで霊的なものの満たしを受けることができるのだ。私たちはどうしても世に住むものだが、世のものに心を奪われることを避けなければならない。一日のうちにいくらかの時間は、パソコンやスマートフォンから手を離して、ただ神にのみ心を向ける時間を持とう。そうすれば、そこが私たちの荒れ野となり主が御言葉をもって臨んでくださる。メッセージを聞けば、豊かに実るようになる。

3節。水のバプテスマとは、全身を水で浸るもの。水のバプテスマはバプテスマのヨハネよりも前からあった。水のバプテスマというものはもともと、異邦人がユダヤ人になるために受けるものだった。「異邦人は汚れているので、バプテスマを受けて清められなければならない」とユダヤ人は考えたのだ。ところが、バプテスマのヨハネは「ユダヤ人も罪の赦しを受けるために、悔い改めて水のバプテスマを受けなければならない」と説いた。特別に罪深い者が悔い改めなければならないと考えるのは間違いなのだ。ある人々は刑務所に入っている犯罪者やテレビ・インターネットで叩かれている人、マナーの悪い人などが悔い改めなければならないと考える。そして、自分はそれにあたらないと考える。それは間違いだ。悔い改めなければ、すべての人が神の御前に有罪だ。神の基準はどこまでも高いからだ。いかにも悪そうな人々と比較するのではなく、神と神の御言葉と比較しよう。そうすれば、自分がいかに罪深い者であるかがわかるようになる。

4-6節。古代の世界では王が道を行くとき、その前に使者が遣わされて大声で王が来られることを触れ回り、沿道の人々に道の整備と歓迎の準備をさせた。バプテスマのヨハネがしたのはその使者としての働きだ。王であるメシアが来るための道備えをしていた。それが、悔い改めさせる働きだ。悔い改めさせることは、人々がメシアを迎えるにあたって必要な備えなのだ。バプテスマのヨハネがするのは叫ぶこと。実際に悔い改めなければならないのは、その声を聞いた人々であり、私たちだ。ただし、ここでは「谷は埋め立てられなければならない」ではなく、「谷は埋め立てられる」と宣言されている。全部私たちの努力によって行われるのではなく、御言葉が宣言されているので、御言葉の力によってその通りになるということ。谷は埋められると書いてある。貧しい者は満たされ、弱い者は強められ、へりくだる者は高められるということ。山と丘は低くされるとある。高ぶりを捨てて、御前にへりくだるということ。曲がった道をまっすぐにと書いてある。曲がったというのは、心がひねくれていて、嘘偽りに満ちていること。主のまっすぐな教えに従わず、御言葉をうがった目で見て、いつも抜け道や言い訳を探す。そういう心を正して御言葉に従う。御言葉についてああだこうだというのでなく、従順する。でこぼこの道は平らになると書いてある。いつも状況によって浮き沈みする定まらない不信仰な心を改めて、主によって満足し、平安を得る。そのことがイエス様が来られるのを迎えるにあたって、私たちが常に備えていなければならないことだ。そのように悔い改める人々のもとに主は来てくださる。すべての人が主の救いをイエス・キリストに見ることになる。

7-9節。群衆たちはバプテスマを授けてもらおうと荒れ野に殺到した。神の御言葉に飢え渇いていたからだ。サドカイ派のやっている政治ゲームにも、ファリサイ派の人々の説いている律法を杓子定規に守るだけの宗教にもうんざりしていた。主よ、私たちに語ってください!わざわざ荒れ野に行くのは大変だ。しかし、主がそこで語ってくださるなら距離は問題にならない。毎週の礼拝に教会まで2時間かけて通う人がいるのは、主が語ってくださるからだ。その価値はある。しかし、バプテスマのヨハネはせっかく犠牲を払って来た群衆たちに心をえぐるようなことを語っている。蝮の子らよ!これは悪魔の子孫たちよという意味だ。ヨハネがこのようにストレートに言うことができたのは、宗教指導者たちと違って、人々の人気を得ることに全く無関心だったからだ。
人々のご機嫌をうかがう気はなし!嫌われてもいいし、来なくなってもいい。ヨハネはただ主の道を備えること、真の悔い改めに至らせることにだけ関心があった。

ヨハネは人々の心に甘い考えがあることを見抜いていた。「水のバプテスマさえ受ければ救われる」と。ただ、ヨハネのもとに行って、水のバプテスマを授けてもらえさえすれば救われるなら、しめたものだ。ファリサイ派の律法学者が教えていることは形式的なことばかりだった。彼らはそういう形式的な宗教にうんざりしつつも、抜け出せてはいなかった。とりあえず水のバプテスマを受ければいいと。自分の生活を変える覚悟までしていなかったのだ。そんな不十分な悔い改めでは水のバプテスマを受けたところで何の意味もない。悔い改めというのは、具体的に生活を変えていくことを覚悟するもの、献身を表明するものでなければならない。悔い改める前と後で何か違っていなければならない。そして、私たちは悔い改めを先延ばしにはできない。なぜなら、神の裁きは差し迫っているからだ。斧はすでに木の根元に置かれていると書いてある。これは木こりが木を切る直前の状態だ。私たちは今、変わることを決断しなければならないのだ。

群衆たちはヨハネのメッセージを喜んで聞いた。そういう厳しい御言葉を聞くことを望んでいたからだ。そういう御言葉を聞きたくても聞けなかった。10-14節。群衆たちはおのおの、自分たちがどうすればいいのか聞いている。時々、こういうふうに人からの指示を求めることは良いこと。しかし、今は私たちには聖霊様が与えられている。全部人に聞くのではなく、聖霊様にも尋ねよう。聖霊様がどうすればよいのかを、人間の教師よりももっと適格に教えてくださる。ヨハネが群衆全体に言ったのは、持ち物を分け与え続けることだ。神が私たちに求めておられることは、ただ犯罪を犯さず、善良な市民として生きること以上のことなのだ。プラスアルファで社会から要求されていないこと、自分のものを他人に与えるということまでしなければならない。ここでは下着二枚と書いてある。下着二枚を持っていない人はいない。ということはどんなに貧しい人であっても何かしら与えることができるものを持っているということだ。惜しみなく人に分け与える者となろう。
徴税人と兵士に対しては、「転職しろ」と命じていない。徴税人はローマ帝国の手先となって同胞から税金をまきあげる。ユダヤ人からは蛇蝎のように嫌われていた。兵士はローマの兵士だろう。戦争で人を殺傷することもある仕事だ。世の中には明らかに罪にあたる仕事もある。しかし、税金Gメンと軍人のどちらについても、主の目から見れば全うな仕事なのだ。ただ、その職権を乱用してはならないと命じられている。主は私たちが置かれている場所で忠実に職務を遂行することを望んでおられる。

15-17節。民衆はヨハネこそメシアではないかと期待していた。しかし、ヨハネは民衆の期待に全然答えようとしていない。人の無茶な期待に答えようとしないのは楽な生き方だ。もし人々から過大な期待をかけられたら、私たちははねのけてもいい。「それは私の召しではない」と。そしてただ神から召されていることに取り組めばよい。ヨハネは自分が完全に期待はずれだと言っている。ヨハネは自分がイエス・キリストの履き物のひもをとく値打ちもないと言った。当時、履き物のひもをとくのは奴隷の仕事だった。バプテスマのヨハネは自分がイエス・キリストの奴隷にも満たないと言っている。ヨハネの水のバプテスマはイエス・キリストのなさる聖霊と火のバプテスマの足元にも及ばないということ。聖霊のバプテスマは聖霊様にすっかり浸るもの。使徒言行録を見るとペンテコステの時を初めに、人々が聖霊のバプテスマを受けている。そのしるしは異言だ。異言というのは聖霊様が語らせる言語だ。人間が理解できない言葉のこともあれば、当人が知らないはずの外国語のこともある。今でも誰でも求めるなら、イエス・キリストはその人に聖霊のバプテスマを授けてくださる。聖霊のバプテスマの効果は何か?その一つがここに書いてある。清めだ。
箕というのは穀物をふるって、殻やごみをふりわけるための農具だ。聖霊様は火のバプテスマにより私たちのうちにある清められていない性質を焼き尽くしてくださる。特に異言の場合は、舌を聖霊様の支配にゆだねる。舌は不義の世界であり、疲れを知らない悪だとヤコブの手紙には書いてある。悪い言葉をノンストップで口に出すのが舌だ。

17節では、消えることのない火で焼き払われると書いてある。聖霊様の火力は十分であり、永遠に燃え尽きないので、どんな罪性をも焼き払うことができる。それと同時に、消えることのない火というと地獄が暗示されている。もし、私たちがこの世で聖霊様から罪性を焼き尽くしていただくことをためらうなら、後になって神の御前にたったときに裁かれるということだ。私たちはどちらが良いか?今罪性を焼き尽くして清めていただくことか、裁きの時になってはじめて火の中を通るか?私たちは今聖霊のバプテスマを受けて清められて、御前に出る備えをしよう。
18節。ヨハネの語った内容は非常に厳しく、恐ろしいものだった。それでもここでは福音、Good Newsと書いてある。そこには罪の赦しがあるからだ。そこには私よりも優れた方とヨハネが言ったイエス・キリストを指し示すものがあるからだ。厳しい御言葉は私たちを救い主による罪の赦しと清めに追い立てるのだ。

19-20節。へロディアは自分の叔父であるヘロデ・アンティパスの異母兄弟と結婚してローマに住んでいた。ヘロデ・アンティパスにとっては義理の姉妹にあたり、さらには姪でもあった。非常に複雑な関係だった。とにかくヘロデ・アンティパスにとって、へロディアは人妻であり、自分の異母兄弟の妻だった。それをヘロデ・アンティパスはローマを訪問した際に誘惑して奪ってしまったのだ。略奪婚だ。これは十戒の第十の戒めを破っている。出エジプト20:17。ヘロデ・アンティパスにはそのほかにもたくさんの悪行があった。抑止力のない権力者はとことん堕落してしまうのだ。それで、バプテスマのヨハネは、ヘロデ・アンティパスを責めた。このことによって、ヨハネのメッセージが本物だということがはっきりとわかる。専制君主の罪を責めたらどうなるか?相手が悔い改めるのでなければ、ひどい目にあうことは目に見えている。リスクがなければ、誰でも好き勝手なことを語ることはできる。大きなリスクを覚悟してでも語ることができるメッセージは本物だ。ヨハネは牢に捕らえられたが、彼からバプテスマを受けた人々は、ヨハネは確かに預言者であり、自分たちが聞いたメッセージが真実だったという確信を深めただろう。悔い改めを求めることを躊躇している相手がいないか?あからさまに性的な罪や金銭的な罪などを犯していると知っていながら、放っておいてしまっている相手はいないか?もしそういう人がいれば、ヨハネに倣ってその人に悔い改めを求める者となろう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました