イスラエルには王がなかった[士師記21章]

士師記
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神の民が存続していくことは主の御心に適うことです。

イスラエルには王がなかった[士師記21章]

イスラエルには王がなかった[士師記21章]

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【ノート】
ベニヤミン族のギブアのならず者たちが女性を暴行した上で殺害するという罪を犯した。イスラエルは一体となって、ベニヤミン族に対して制裁を加え、ベニヤミン族の男性600人を除いて全員後先考えずに滅ぼし尽くしてしまった。21章はその戦後処理だ。

1節。聖書に出てくる誓いの多くが軽率の誓いであって、自分の首をしめるものばかりだ。エフタの誓いもそうだった。家の戸口から最初に迎えに出てくるものを焼き尽くす献げ物にすると誓ってしまった。主はそういう誓いを求めてはおられない。この誓いも罠となった。

2-3節。イスラエルはベニヤミン族のことを悔やんでいる。「なぜベニヤミン族が欠けることになったのか?」と。ベニヤミン族の罪に対して制裁を加えることは主の御心だった。しかし、主はベニヤミン族を絶滅させることまでは望んでおられなかった。イスラエルは男性600人以外みんな滅ぼしてしまったが、そこまでするべきだったかは疑問だ。そして、イスラエルはさっそくベニヤミンについて悔やみだしている。人間は悲惨な事態を前に、神に「なぜこんなことになってしまったのか?」と聞く。なぜか?「なぜ戦争が起きたのか?」「なぜ凶悪な犯罪が起きたのか?」人間がそれをしたというのが答えだ。戦争を起こすのは人間、犯罪を犯すのも人間。人間が悔い改めなければならない。

4節。これは主への献身の決意と恵みを願い求めるもの。イスラエルはこの戦争の責任が自分たちにあるということを悟って主の御前にへりくだっている。これ自体はすばらしいことだが、主の御心に適った方法で戦後処理をしようとするのではなく、相変わらず思い付きで行動してしまっている。大きな戦争を経験したにもかかわらず、真の悔い改めには至らなかったのだ。

5節。集会に出席しなければ死刑だ。神の民は集会に出席することを大事にする必要があるというのは本当だ。しかし、これまた軽率な誓いだと言わざるを得ない。

6-7節。イスラエルはなんとかベニヤミン族を存続させようとしている。そのために、生き残ったベニヤミン族に妻を与えようとしている。イスラエルはベニヤミン族に妻を与えるために、滅茶苦茶なことをしている。そこまでしてでもベニヤミン族を存続させようとしたのだ。そのやり方は良くないが、なんとしてもベニヤミン族を存続させようとしたことは、主の御心に適ったことだ。主は神の民が続いていくことを望んでおられる。主は主を崇めるクリスチャンが代々続いていくことを望んでおられる。主は十戒の中で、「私を愛し、私の戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われた。主の慈しみは幾千代、世の終わりまで子孫に及ぶのだ。だから、独身の方で、結婚適齢期にある人は、独身の賜物がある人でなければ、結婚をして子供を作り、主への信仰を代々受け継ぐようにするというのは御心に適うことだ。結婚をすることは、現代の日本のクリスチャンにとって難しいように思えるかもしれない。そもそも結婚の対象となるクリスチャンが少ないと。しかし、絶滅寸前だったベニヤミン族が全員妻を得て存続することができたように、本気になって探せば結婚相手を見つける方法はいくらでもある。自分の教会や周りに対象となる人がいなくても、クリスチャン向けの結婚相談所があるし、婚活のサービスもある。そういうものを利用するのは悪いことではない。本腰をあげて、そういうものを利用してみることをおすすめする。昨今では結婚しない人も増えている。それはこの世の流れであって、クリスチャンがそういうものに流される必要はない。

ベニヤミン族存続のための解決策1が8-14節。イスラエルは軽率な誓いという過ちをリカバリーするために、もっと大きな過ちを犯した。ギレアドのヤベシュを滅ぼして処女400人をとらえてベニヤミン族の男性の妻とした。集会に出席しなかったのが悪いとはいえやりすぎだ。
そもそもベニヤミン族の制裁は何がきっかけだったか?一人の女性を暴行して殺害したことだ。それはもちろんひどい犯罪であり、そのままにしてはならない。しかし、イスラエルがしたのは一つの街全体を皆殺しにして女性たちをさらってくるということだ。どっちの方がもっと悪いことをしているか?戦後処理でしたことは戦いのきっかけよりももっと悪いことだった。

ベニヤミン族存続のための解決策2が15-24節。シロの主の祭りでの出来事だ。つまり、集まって主に特別な礼拝をささげている最中だ。いまでいえば、礼拝の最中にワーシップのダンスチームの人々が誘拐されてしまったのだ。誘拐というのは、主の律法の中でもひときわ重い罪とされている。出エジプト21:16。死刑、と書いてある。最高刑だ。それを、あろうことかイスラエルの指導者たちが容認してしまっている!

こうして方法は滅茶苦茶ではあったが、ベニヤミン族が絶えてしまわずにすんだ。ベニヤミン族はたったの600人にまで減った。イスラエルは「一つの部族が欠けた」とまで言い、ベニヤミン族はもはや無きに等しい状態だった。それにもかかわらず、なんとこの数世代後にはイスラエルの初代王であるサウルを輩出する部族になっている。そして、ベニヤミン族はさらに千年後までも残り続け、サウル王にちなんだ名前のサウロ、ギリシャ語ではパウロという世界宣教に用いられる使徒を輩出している。神は人間の目になきに等しいくらい小さなものでも、そこから御自分の計画で中心的に用いられるものを起こすことができる。

ひどいやりかたであっても、ベニヤミン族は存続することができるようになった。しかし、その結果の不十分な点について着目するなら、イスラエルは外面的な部分についてだけ治療している。つまり、ベニヤミン族の血筋が絶えてしまわないことだけに着目している。もっと重要なのは、信仰の復興だ。ベニヤミン族が絶滅寸前までいったのは、信仰がなくなり、霊的に瀕死の状態だったからだ。霊的な状態が肉的な状態にも反映された結果、絶滅寸前に至った。イスラエルは主への信仰をしっかりと建て上げることに注力しなければならなかった。しかし、そういうケアは一切なされていない。

主はクリスチャンが絶えないこと、クリスチャンが存続し続け、教会が存続し続けることを望んでおられる。私たちはそのために、ただ次世代を生むだけではいけない。次世代に信仰を継承すべく、しっかりと教えていかなければならない。子供たちの手を引いて教会に連れていくだけでは不十分だ。それは外面的なことに過ぎない。家庭礼拝を持ち、御言葉を教え、生活を通しても証しをし、生き生きとした信仰者に建て上げなければならない。自分の子供や孫が地獄に落ちても良いか?自主性を重んじると言いながら、何もしてあげないのは無責任で冷たいことだ。主は子供たちにも信仰が燃え上がることを望んでおられる。家庭でリバイバルを起こそう。

これらの解決策は決して主から出たものではない。それだけでなく、士師記でよしとされていることの多くも主から出たものではない。その証拠が25節。この節から、イスラエルがとった二つの方法は主の目に正しいことではなく、ただ彼らが自分の目に正しいと思った通りにしたに過ぎないということがよくわかる。士師の時代、イスラエルは一つの部族が絶滅寸前にまでなっても真実な悔い改めをしなかったのだ。イスラエルは最後まで主を王とせず、自己中心な生き方をし続けた。「自分の人生なのだから自分で自分のしたいように生きる」という人がいる。士師記を読むなら、自己中心に生きるなら人間はどんどん獣以下のレベルまで落ちていってしまうということがわかる。私たちの人生は主から与えられたものだ。自分勝手に生きてはならない。私たちの王は誰か?最後の審判で羊と山羊に分ける王は誰か?すべての舌がその御名を賛美する王は誰か?私たちは主イエス・キリストを王としよう。自分の目に正しいことではなく、主の御言葉を基準としよう。主と主の御言葉への信仰によって生きよう。それこそ人間を人間らしくする。主なる神を王として抱いて生きる私たちなろう。アーメン。

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