エフタの誓い[士師記10-11章]

士師記
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主はそんなこと望んではいませんでした。

エフタの誓い[士師記10-11章]

エフタの誓い[士師記10-11章]

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【ノート】
アビメレクのときは主が直接治め、裁いておられた。アビメレクの後は、また人間の士師がイスラエルを裁く状況に戻る。士師は世襲ではなく、主が立てるものだが、主は必要なときに必ず士師を立ててくださり、そうでないときは主が直接治め、裁いた。こうして、主による統治は切れ目なく続く。しかし、イスラエルはギデオンに王になるように願ったように、どちらかという王を立てることを願った。王政であれば、王の子である王子が自動的に次の王になるので、指導者がいなくなる心配が少ない。士師の時代には、必要なときに主が治めてくださることや必ず次の士師を立ててくださるということを信じる信仰が必要だ。イスラエルにはその信仰が欠けていたので、不安になり、王を立てることに安定を求めた。私たちは主が指導者を立ててくださるという信仰を持とう。教会の指導者もたいてい世襲ではない。イエス様は「収穫は多いが働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい」と言われた。私たちは主が働き手を送ってくださると信じて願い求めよう。

1-2節。士師のトラが出てくる。トラというのは、エンジムシという意味。トラはイサカル族出身で、イスラエルを裁いた。イサカル族といえば、イスラエル全体を俯瞰する目を持っていた部族だ。ダビデを王とするために集まったイサカル族の人々の特徴がそうだった。歴代誌上12:33。トラが住んでいたシャミルはエフライムの真ん中あたり、イスラエルの全体でも中心に位置する。そこ拠点として、イスラエル全体を見渡し、何をなすべきかを見分けて、大きな事件や部族間の紛争の仲裁をしたのだろう。
3-5節はヤイルについて。ヤイルは「彼は輝かす」という意味。ヤイルはヨルダン川の東側のギレアドを拠点とした。ヤイルについても戦いが出てこない。30人の息子、30頭のろば、30の街というのは、ヤイルの富と権勢の大きさを示している。ヤイルは富と権勢によって平和を維持した。トラとヤイルはどういう敵と戦ったということが書いていない。だから、おそらくこの二人の時代には外敵の侵入で悩まされることがなく、彼らは主に平和を維持するために用いられたのだろう。地味ではあるが、自分の持っている賜物を生かして平和を保つというのは立派なことであり、すばらしいことだ。
6節。またも!しかもイスラエルが崇める神は増えている。カナン人が崇めていたバアルとアシュトレトだけでなく、諸外国の神々を導入した。一度バアル崇拝に陥ってしまえば、もう歯止めが聞かない。そのときの必要に応じた神を導入してしまうようになる。罪というのは一つも犯さないようにしなければならず、一つ犯したらどんどん増え広がってしまうのだ。アラムの神々にはナアマン将軍が主君と一緒に拝んでいたリモンがいる。リモンは嵐と雷の偶像だ。イスラエルは天候が悪くなるとリモンを拝んで静まるように願っただろう。シドンの神々としては先に名前が出た情欲の女神アシュトレト。偶像崇拝と共にイスラエルは性的に堕落したのだ。モアブ人の神々はケモシュ。この偶像は人間の命をささげものとして要求した。人身御供といって日本でも広く行われていた。アンモン人の神々はミルコム。モレクともいう。ミルコムの偶像に対しては、自分の子供を生け贄としてささげるという忌まわしい儀式が行われた。ケモシュとミルコムのように、偶像が命を要求するというおぞましい風習はカナンの地も含めて古代社会にかなり広まっていた。結局のところはそれは悪魔に生け贄にささげているに等しい。イスラエルは人の命を悪魔にささげるという罪まで犯した。悪魔は命を要求するが、主イエス・キリストはまず御自分の命を与えてくださる。そして、命を与えられた人は、主に感謝して命をかけて主に仕えるのだ。そして、ペリシテ人の神々は農業の神のダゴンだ。このようにイスラエルは偶像と罪を増やした。日本も似た状況で、偶像と罪を増やし続けた国だ。八百万の悪霊どもの大群の住処になってしまっている。そういう日本では、主だけを信じるクリスチャンが最後の砦なのだ。私たちが不忠実なら日本はおしまいだ。私たちは世の終わりまで信仰を貫こう。そして、悪霊ども駆逐して、日本中に主の御名を宣べ伝えよう。
7節。ペリシテ人がサムソンの敵で、アンモン人がエフタの敵だ。8節以降はアンモン人の侵略について。8-14節。士師記をずっと読んでいくと、最初のころは、イスラエルが主に助けを求めて叫ぶと、主はすぐに士師を送って救ってくださった。しかし、イスラエルは叫ぶは叫ぶが、それはただ助かりたいからというだけで、しっかりとした悔い改めをしなかったし、救ってくださった主に対しての感謝も薄かったのですぐに主を捨ててしまった。イスラエルは時代を経るごとに信仰がどんどん後退していたのだ。それで、ギデオンを送る前には、まず預言者を送ってイスラエルの罪を責めている。このエフタを送る前の時期に至っては、主はもう救わないと宣言する。自分たちの選んだ神々に助けを求めて叫ぶが良いと。
主からこう言われて、「わかりました。ではバアルのもとに言って助けを求めます」という人は誰もいなかった。ケモシュのもとに行く人もミルコムのもとに行く人もダゴンのもとに行く人もいなかった。15節。みんなあくまでも主に助けを求めた。偶像崇拝したイスラエルも薄々、主こそが真の神であるということを知っていたのだ。ただ罪深い生活を改めたくないばかりに偶像崇拝を続けていたのだ。多くの未信者がいろいろな理由をつけて主イエス・キリストをすぐに信じようとしないが、本当の理由は、理屈ではなく、罪深い生活を続けたいからだ。本人の口から正直に認めることは少ない。
16節。ここにきて初めてイスラエルがはっきりと悔い改めたのを見ることができる。私たちは真剣に悔い改めなければならない。自分の所有物の中に偶像やお札やお守りやお経があれば、全部ちゅうちょなく捨てなければならない。それが、主からの祝福を受けることの妨げとなっている。主と深くつながる上での邪魔になっている。全部捨てよう。占いやオカルトにかかわった罪をひざまずき、ひれふして悔い改めよう。頭を地につけて悔い改めよう。また、性的な罪を犯している相手がいれば、不倫であれば即縁を切り、お互い未婚者であれば別れるかちゃんと結婚をしなければならない。罪に誘う友人がいれば離れる。ビジネスで不正行為をしていればやめて、いじめている相手がいれば謝って二度と手出しせず、憎んでいる相手がいれば徹底的に許し、礼拝を休んでいれば欠かさず出席するようにし、主との交わりが疎遠になっていれば祈りと御言葉に熱中するようにする。そうすれば、主があなたを救わない理由は何もない。主は憐れみ深い方であり、あなたを赦さないではいられない、救わないではいられない、祝福しないではいられない。中途半端な悔い改めしかせずに、主に助けを求めて祈ることはないか?それではいけない。主は甘いお方ではない。見くびられるお方ではない。罪をかなぐり捨てて、主に助けを求める者となろう。主は憐れんでくださる。

17-18節。ギレアドには指導者たちがいた。しかし、誰も先頭に立ってアンモン人と戦えるほどの信仰と勇気がある者はいなかった。指導者たちはいても誰もリーダーシップを発揮できなかった。グループがあればその数だけ指導者はいる。しかし、それは名目的なもので、本当に指導力を発揮できる人というのは、常に不足しているのだ。私たちは世の光として用いられることを主から期待されている。誰かが立ちあがることが求められているときに、あなたが二番手であってはならない。一番に立ち上がって行動を起こす者となろう。

11:1-3節。エフタは「彼は開く」という意味。エフタは「勇者」だったと書いてある。ということは、ギレアドでその強さが評判になるくらい、戦いで実績を残していたのだ。イスラエルを守ることに心を燃やしていた。しかし、ただ遊女の子だったというだけで、正妻の子供たちから家を追い出されてしまった。実力があるのに、自分ではどうしようもできないことのためにのけ者にされてしまったのだ。アビメレクと非常によく似ている境遇だ。しかし、アビメレクは暴君になり、エフタは士師になった。私たちはどんなに不遇な環境で育ったとしても、それを呪うこともできれば、それをバネにして生きることもできるのだ。特に、主への信仰は過去の痛みを強さに変えることができる。
エフタの心は、エフタが身を落ち着けた地の名前を見てもわかる。トブの地と書いてある。イスラエルとアンモン人の領土の境目近くにあるラモト・ギレアドよりもさらに東に25kmくらいいったところにあるアラムの都市だ。トブは良いというという意味。創世記1章で神が「良しとされた」のと同じ言葉。エフタの心はくすんでしまうことなく、主の目に良しとされていたのだ。イスラエルではない地に逃れたのはイスラエルの主からの嗣業の地を荒らしたくなかったからだろう。あくまでも異邦人の土地にいて、そこでいろいろな理由から同じように逃れてきたならず者の頭領となった。エフタは強くて、リーダーシップもあり、どこにいってもすぐにリーダーとなったのだ。
4-10節。捨てられたエフタがイスラエルを救うための士師として用いられる。エフタは家を建てる者が捨てた石でありながら隅の親石となったイエス・キリストの型だ。イエス・キリストは人々に捨てられて十字架にかけられたが、そのことによって、御自分を信じる人すべてを罪から救われた。そして、イエス・キリストは誰も見捨てない。捨てられても、見捨てない、ハレルヤ!
エフタもまたイスラエルを助けてあげたい心はあったが、一度裏切られているので、困ったときだけ呼ばれて、使い捨てにされたくはなかった。そこで、エフタはギレアドの長老たちと慎重に交渉した。それで、エフタがアンモン人と戦う指揮官になる場合、エフタはギレアドの全住民の頭になるということが確認された。つまり、エフタは臨時の指揮官となるだけでなく、平和な時にもギレアドのトップの指導者となるという約束を交わしたのだ。ここで、ギレアドの長老たちはエフタに対してちゃんと誠意を見せている。それはイスラエルが偶像を離れて真実な悔い改めたことに通じるものがある。実はエフタとギレアドの長老たちの間にあったことは、主とイスラエルの間で起こったことと非常によく似ている。主はイスラエルに何度も裏切られたので、困ったときの神頼みをされて、また捨てられたくなかったので、いったんイスラエルを救うことを断った。しかし、イスラエルが真実な悔い改めをしたので、エフタを送って救うことにされたのだ。主がエフタを用いられたのは、御自分と似ていたからではないか。
11節。エフタは自分の言葉の重みを知っている人だ。エフタが人々に何かを語るとき、主御自身に語るかのように確実なことを語った。自分の口から出る言葉に全面的に責任を持ち、約束したことを必ず果たそうとした。約束したからには、イスラエルのためにアンモン人と全力を尽くして戦おうとしたのだ。私たちはどうか?人々に「あれをする、これをする」と口にしておきながら、果たしておらず、忘れてしまっていることはないか?それは主に対して不忠実であることに通じる。主の御前で口にしたこととして、何事もいい加減にせず、しっかりと果たしていこう。

12-28節でエフタはアンモン人と戦う前に外交交渉をしている。これはほかの士師たちには見られないことだ。エフタは戦いを回避できる可能性が少しでもあれば、外交交渉で回避したいと思ったのだ。また、戦う理由を確認しておきたかった。12-28節。アンモンの王がイスラエルに攻めてきたのは、間違った歴史認識によるものだ。ほとんど言いがかりに近いものだった。アンモンの王としては大義名分はどうでもよかったのだろう。だから、エフタと歴史問題について議論を尽くそうとはせず、とにかく戦って領土をぶんどろうとした。エフタにとっては、正しいということは非常に重要なことだった。アンモンの王がイスラエルを攻める理由をひとことで伝えているのに対して、エフタはイスラエルの正しさを正確な歴史の流れをたどってしっかりと説明している。父の家にいたときに学んだのだろう。そして、「私は何も間違ったことをしていない。不当なことをしているのはアンモン人の王の方だと結論づけている」。エフタがこのように正しいにこだわったのは、戦いを左右するのは時の運でも、軍隊の強さでもなく、審判者である主だと確信していたからだ。エフタはアンモン人の王との議論を通して、自分たちが正しいので、審判者である主が勝利を与えてくださるという信仰を強めることができた。それで、聖霊様の力を受けた。29節。エフタはただギレアドの長老からその力が買われただけでなく、聖霊様が臨んだことにより、主からの認証をはっきりと受けていることがわかる。あなたは正しい生き方をしているか?
自分には主にあって何の後ろめたいこともないという状態が、私たちの信仰を強め、聖霊様の力を受け、勝利することができるようにする。エフタのように、後ろ暗いところのない生き方をする者となろう。

30-31節。主は一言も勝利のためには何かの誓いが必要だということをおっしゃっていない。ただ、エフタの方が、誓いをしている。一見信仰的な誓いだ。しかし、実はエフタが誓ったことというのは、モアブ人のケモシュやアンモン人のミルコムら偶像の神々が要求した異教の習慣であって、主なる神様が忌み嫌われることだ。エフタはこの異教の習慣に染まってしまっていたのだ。エフタがこの誓いをしたのは、「神のご好意を得て戦いに勝つためには、私の方でも何らかの犠牲を払わなければならない」という考えがあったからだ。そうではない。神は恵みにより、信仰によって私たちを救ってくださる。恵みは値なしにいただける神のご好意。エフタは誓いなどしなくても、主がイスラエルを愛して勝利を与えてくださると信じて戦いに臨むべきだった。この誓いがエフタにとって罠となる。

エフタはアンモン人と戦い勝利をおさめた。32-33節。徹底的に撃ったと書いてある。やるときには徹底的にやることが大事。

34-35節。エフタはまさか自分の一人娘が出てくるとは思わなかった。おそらくは自分の家の使用人のうちの誰かが迎えに来ると思っていた。エフタは家族から家を追い出された人だ。その数少ない家族で、たった一人の娘だ。その娘を自分の誓いのために失わなければならなかったというのは、とんでもない苦しみだっただろう。しかし、エフタはその誓いを取り消すことは全く考えていない。もしエフタが「主は人間の命をささげることを忌み嫌われる」ということを知っていたら、償いをした上でその誓いを取り消すべきだっただろう。律法には償いをして誓いを取り下げる場合について規定されている。しかし、エフタは主に喜ばれないということを知らなかったので、自分の都合で誓いを取り消そうとはしなかった。
36節。この名前も書かれていないエフタの娘の方も、自分が誓ったわけでもないのに、自分の命を失うことになるにもかかわらず、健気に父がした主への誓いを重んじている。それだけ、主の御前での誓いという厳しいものなのだ。絶対に守らなければならない。バプテスマを受けるとき、私たちは主に従うことを誓う。私たちはその誓いを一生涯貫かなければならない。結婚をするときにも、主の御前で誓う。その誓いも死が二人を分かつまで、守らなければならない。後でなかったことにすることはできない。もし誓いを忘れてしまっている人がいれば、あの神聖な主への誓いを思い出そう。悔い改めて主に立ち帰ろう。主への誓いを重んじる私たちになろう。
ちなみに、キリストが一切誓ったはならないと言われたのは、軽々しい誓いをなくすためであり、特別な誓いが必要のないくらい自分の言葉に忠実で、信頼される人間になれということだ。

37-40節。この習慣は聖書のほかの箇所には書いていないため、一時的なものにとどまったのだろう。主は、私たちが自分の一人娘の命を焼き尽くす献げ物としてささげることを望んではおられない。逆に主の方が、私たちを愛して、私たちを罪から救うために、御自分の独り子イエス・キリストを十字架で死なさせてくださったのだ。主が私たちに望んでおられる焼き尽くす献げ物とは、罪に死んで、自分の人生で主に完全に献身することだ。ローマ12:1。生ける生け贄だ。自分の生活を通して神の栄光を現す私たちになろう。

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