教会の疲弊の原因です。
エフライムとの抗争[士師記12章]
【ノート】
エフタはアンモン人との戦いでギレアドの人々を率いて大勝利をおさめた。主がエフタに勝利を与えてくださったのだ。それはイスラエル全体の勝利だった。だから、イスラエル全体が喜ぶべきだった。しかし、喜ぶべきエフタの勝利を喜ばない人々がイスラエルにいた。
1-3節。エフライムはアンモン人との戦いのときに、自分たちにお呼びがかからなかったということで怒った。エフタとエフタのものを全部焼き払ってしまおうとするくらい怒った。実際はどうだったのか?エフタいわくエフライムに助けを求めたのに、エフタは救援に来てくれなかったから、ギレアドの人々だけで戦ったという。非常にまじめな性格のエフタが言うことだから間違いないだろう。だから、エフライムの人々の言うことはただの言いがかりだった。エフライムはなぜそんなに怒ったのか?なぜ言いがかりをしたのか?
まず、エフライムにはプライドがあった。十二部族の長子の部族としてプライドだ。長子権を持つ自分たちが常に一番でなければならない、偉くなければならないという思いが強かった。特権は、それ自体でその者を偉くするのではない。特権は責任と共に与えられる責任を果たしてこそ、その人を偉い者にする。イエス様は、偉くなりたい者は皆に仕える者となりなさいと命じられた。エフライムが本当に長子として一番になりたいのであれば、アンモン人の侵略に対して、エフタよりも先に立ち上がるべきだった。少なくとも、エフタの救援要請に応じる必要があった。何もしなかったからには、何も要求する資格はない。責任を果たさずに、自分の地位ばかり主張する人々が神の共同体の繁栄を妨げてしまう。
そして、エフライムにはエフタに対する妬みがあった。アンモン人との戦いで、自分たちではなく、エフタが活躍したという妬みだ。その妬みが、エフタの勝利をイスラエルの勝利として喜べないようにした。神の教会の中にもこの妬みの問題がある。ほかの教会、ほかの教団、ほかの国でリバイバルが起きた、大きく成長した、祝福を豊かに受けたということについて、私たちはそれをどうとらえるか?私たちはそれを神の教会の勝利として、喜ぶべきだ。それは教会の勝利なのだから、私たちの勝利でもある。もしそれを喜べないのであれば、妬みがそこにある。妬みは怒りと分裂を引き起こし、教会を衰弱させてしまう。
ギデオンはエフライムの妬みに対して、エフライムをほめちぎってうまくいなすことができた。エフタにはそれができなかった。エフライムに対して、真向からぶつかった。4節。「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」というのは、ギレアドに対する侮辱だ。アンモン人にやられてエフライムやマナセの中に逃げた臆病者だという意味だ。エフライムはこれによりエフタの怒りをあおってしまった。ギレアドの頭となったエフタとしては、こういうことを言われて捨てておくことはできなかった。
5-6節。エフタはイスラエルに属するエフライムを討つときも徹底的にしたので、エフライム人が42000人も戦死するほどの戦いとなった。ギレアドがエフライムを討った方法はヨルダンの渡しをおさえて、通ろうとした者にシイボレトと言わせることだ。ギレアドの人々も、エフライムの人々も、外見上の違いはほとんどなく区別がつかなかった。だから、ちょっとした言葉のなまりによって判断しようとした。シイボレトというのは、川の流れという意味。しかし、エフライムには独特のなまりがあって、シイボレトと言えず、シボレトと言ってしまった。二つの部族は外見上そっくりだった。二つの部族をわける特徴はほんのちょっとした言葉の違いだけだったのだ。にもかかわらず、彼らは争った。クリスチャンの間に見られる醜い争いも、似た者同士なのに行われる。違いと言えば、ほんの一つの言葉や用語の使い方と違いとか、そういう小さな違いしかないかもしれない。育った教会によって文化や言葉の使い方は若干違うものだ。私たちはそんなつまらない特徴から自分と「違う」と思うのではなく、十字架の下で「一致」する者となろう。
現代でもこのことはシイボレトならぬシボレスといって、ある社会集団の構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語として使われている。いろいろな国々で主に、虐殺を行うときに、相手がその対象かどうかを選別するために行われた。関東大震災のときに混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を行うという噂が広まり、朝鮮人やそれと間違われた人が殺傷されたことがあった。人々は朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いた。国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した。そういう黒い歴史が日本にもある。
7節。エフタはアンモン人に勝利したが、士師として裁きは、6年間しか続かなかった。それまでは、80年、40年、23年、22年と、長い期間に渡って平和な時期が続いたのに、エフタの裁きは極端に短命に終わってしまった。エフタ後の3人の士師の裁きの期間もイブツァンが7年、エロンが10年、アブドンが8年と全部短い。エフタの時期から部族間の争いが深刻なものとなっていったのだろう。外からの敵よりも内輪揉めがもっと問題だった。同じように、教会が不安定なものとなり、疲弊し、ダメージを受けるのは、内輪揉めによるところが大きいだろう。イエス様はどんな団体であれ、内輪で争えば成り立たないと言われた。教会同士が内輪で争えば、教会は成り立たない。サタンの思うつぼだ。私たちは戦う相手を間違えてはならない。
8-10節はイブツァンについて。イブツァンとは、「有名」という意味。イブツァンは自分の有名人としての立場を利用してイスラエルを裁いた。イブツァンが自分の知名度を利用してしたことは親族関係を結ぶことだ。また、イブツァンは自分の30人ずついた息子と娘を一族以外の者に嫁がせた。ということは、イブツァンはイスラエル中の部族の人々と親戚になったのだ。イブツァンは家族としての結びつきによって平和を維持しようとした。人は自分と無関係だと思う人には冷淡になるが、自分と深く関係のある人、たとえば家族に対してはあたたかい態度で接するものだ。教会も、家族としての結びつきを強めなければならない。教会は結婚によって家族としての関係を強める必要はない。なぜならもともと家族だからだ。エフェソ2:19。教会は神の家族。クリスチャンはみんな互いに一つの家族だ。しかも血縁や結婚ではなく、神がキリストの血によって結び合わせたという点でその絆は何よりも大きい。神の家族を大切にする私たちになろう。
11-12節はエロンについて。エロンとは、「樫の木」という意味。樫は力、長寿、誇り、堂々とした様子を象徴する。困難な時代を信仰によってどっしりかまえ、樫の木のようにたくましく生きた人だということだろう。あなたはいま困難な時にいるか?そうであれば、樫の木のような力強い信仰によってゆるぎないものとなろう。主があなたを支えてくださる。
13-15節はアブドンについて。アブドンとは、「しもべ」という意味。ピルアトンというのは、エフライムの地名なので、アブドンはエフライム族だった。エフライムといえば、高慢で問題ばかり起こした部族だが、そのアブドンはしもべという意味。アブドンは息子40人、孫30人、ろば70頭をもっていたということは、富と地位を持っていた人だということがわかるが、高慢になることなく、へりくだってしもべとしてイスラエルに仕えた人だったのだろう。それで主に士師として用いられた。特権に伴う責任をわきまえた人だったのだ。私たちも、私の家族が、友人が、職場が、教会が、もっとこうしてくれたらいいのに、とお客様気分で仕えてくれないことについての不満をもらすのではなく、むしろ自分から積極的に仕えることを求める者となろう。私たちの人生というのは、自分をささげつくすためのものなのだ。
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