ベニヤミン族に対する制裁[士師記19-20章]

士師記
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大事件を通してやっとイスラエルは一枚岩になりました。

ベニヤミン族に対する制裁[士師記19-20章]

ベニヤミン族に対する制裁[士師記19-20章]

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【ノート】
1節。主なる神はイスラエルが御自分を王として従うことを望んでおられた。しかし、イスラエルは主なる神を王として従おうとせずに、自分勝手な生き方を邁進していた。本来はレビ人が中心になって主の律法を教えてイスラエルを教育しなければならなかった。しかし、このレビ人も、イスラエルに律法を教えるどころか、自らが律法を破ってしまっていた。側女を迎え入れたと書いてある。正式に結婚した奥さん以外に内縁の妻がいたのだ。これは律法に違反することだ。律法では、未婚の女性と性的な関係を持つのはそもそも良くないことだが、もし関係を持ったらその女性の父親に罰金を払った上で妻として迎え入れなければならないと書いてある。側女ということは予定されていない!これは異教の習慣を導入したものだ。当人はそれを悪いとも思っていない。現代でも、結婚せずに同棲したり、性的な関係を持ったりする人々が大勢いる。それが今風だと思っている。本当に今風か?数千年前からある古臭い悪習だ。律法を破って悪習を行うレビ人がイスラエル分裂の引き金となった。

2-3節。主人を裏切ったというのは、姦淫の罪を犯したということ。側女はレビ人を恐れて実家に逃げた。しばらくたってレビ人は側女が恋しくなったので、側女の父の家まで後を追った。側女の父は喜んでレビ人を迎えた。一見すると和解の話のようだが、よく見ると側女を持つレビ人と姦淫をする側女のどろどろとした話だ。どちらも罪を悔い改めるというよりは場当たり的な対応をしているに過ぎない。

4-9節。ここでレビ人は側女の父の家での滞在はのびのびになり、5日間も食べたり飲んだりして滞在している。ほかに何をするでもなく、ひたすら食べたり飲んだりしたのだ。カナンの地に移住してからのイスラエルの生活ぶりがこれだ。ひたすら食べて飲むだけのゆっくりとした生活、これでは人間駄目になってしまう。神がご覧になって戦いを学ばせようと思われた理由が良くわかる。緊張感がなく、ビジョンもないなら、時間を持て余した怠惰な生活をするしかない。私たちは食べて飲む以上の何かをもって生きているか。戦いに勝利し、御国の夢を実現する者となろう。

10-15節。日が暮れかけてからどこに泊まるかも決めずに出発してしまった。出発まで5日間もあったのに危険が伴う旅について祈りもしないし、計画も立てていない。怠惰で行き当たりばったりな生き方だ。レビ人は、エブス人の町で泊まるのを避けた。「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい」と言うのがその理由だ。イスラエルではない異邦人を軽蔑していたのだ。イスラエルであるというだけで、異邦人とは全然違うのだという思いがあった。そう期待していた。しかし、イスラエルを異邦人とは違う特別なものとしていたのは、主なる神への信仰だ。イスラエルはその信仰が後退し、霊的にも道徳的にも異邦人と変わらない状態になりつつあった。特にレビ人が期待していたベニヤミン族はひどかった。クリスチャンも、もし信仰が後退するならノンクリスチャンと何ら変わりがない!地の塩に塩気がなくなったら踏みにじられるだけだ!私たちはクリスチャンとして神と人とに期待される通りの存在になろう。恵みと信仰によって実際的な違いのある者となろう。

当時、町にはホテルがなかった。旅人がいれば、みんな自ら進んで気前よく自分の家に泊めてあげ、もてなしてあげるものだった。ところが、ギブアには泊めてくれる人が誰もいなかった。同胞が困っているのに誰も泊めてあげない。ギブアの人々の冷たい態度は、同胞愛がすっかり冷えてしまったイスラエル現状を映していた。

16-21節。同じエフライム山地出身ということで、老人はレビ人に親切にしてあげた。レビ人は必要なものは何もかもあるからそこまで困っていないと言ったが老人は「広場で夜を過ごしてはいけません」と強く勧めている。その町の治安が悪いことを知っていたからだ。そして、寝床と食事を提供した。ヘブライ13:2。旅人、一時的にしか会わない人々、そういう人々を喜んでもてなす者となろう。同性であれば、家に泊めてあげたり、食事をごちそうしたりすることくらいはしよう。

22節。知りたいというのは、性的な関係を持ちたいということ。ならず者たちは、男性に対して大勢で力づくで無理矢理性的関係を持とうとしたのだ。誰も泊めてあげないどころか、後ろ盾のない旅人という弱い立場をいいことにとんでもないことをしようとしている! ソドムをみ使いが滅ぼそうとしたときと同じことがここで起こっている。イスラエルはとうとうソドムと同じレベルまで霊的にも道徳的にも後退してしまったのだ!ギブアのならず者たちが組織的な犯行をしたということは、ほかにも余罪がたくさんあったことだろう。主はソドムに対してそうであったように、ベニヤミン族の犯行を見過ごしはせず、裁きを降すことを決めておられた。裁きは20章にかけて行われる。ソドムの滅亡のときと違うのは、助けてくれるみ使いがいないことだ。被害にあったレビ人はみ使いがあえて助けるに値しなかった。敬虔な信仰がなく、アブラハムのように執り成してくれる親類もいなかった。23-24節。レビ人を助けるためではあるが、どんな理由があれどならず者に自分の娘や側女を差し出すというのは明らかに悪いことだ。これは異教の影響を強く受けた結果の間違った判断だ。老人は男性の客人の命の方が女性の命よりも大事だから、女性を犠牲にしてでも男性を守らなければならないと考えた。しかし、イエス・キリストは女性だからという理由で人を軽く見るということはなさらなかった。イエス・キリスト以後の私たちはこのように教えられている。ガラテヤ3:28。25-28節。女性は大勢に辱められた上で死んでしまった。レビ人は探しにいったはずの側女を犠牲にして自分が助かった。これは自分の命の危険にさらされたときに自然の反応、非常に世の中的な普通のことであり、誰も強く責めることはできないが、何ら感動も感銘もない。そんなものか、と。キリストがしてくださったのは逆だ。自分を犠牲にして私たちを救ってくださった。ここに愛がある。感動がある。私たちは究極的な選択を迫られるときに、キリストがそうなさったように自分の命を他の人のために喜んで犠牲にする者となろう。そのためにこそ、私たちはキリストにあって新しい命を得たのだ。

29-30節。死体というのは、抜け殻であって、もうその人の本体である霊はそこにはない。それでも、古今東西、死者の体をぞんざいに扱ってはならないというのは常識だ。それが故人に対する最低限の敬意を払うことだ。このレビ人は、側女の体をバラバラにしてしまい、十二の部分をイスラエルの十二部族に届けたのだ。まともな神経ではできない。各部族には手や足や頭が届いたので、イスラエルは衝撃を受けた。

20:1-11節。ダンからベエル・シェバ、ギレアドと書いてある。イスラエル全体という意味だ。士師の時代には、イスラエルはどれだけ外敵の侵入に苦しめられても、一つとなって迎え撃つということができなかった。士師を中心として一部の部族だけが立ち上がって敵を倒した。部族の違いや地理的な隔たりを埋められず、一枚岩になれなかった。主への信仰が後退していたからだ。イスラエルの十二部族の結びつきは、血筋もさることながら、主なる神への信仰だ。信仰が後退していたら一つになれない。士師記全体を通してこの内紛の時だけ、ベニヤミン族を除いてイスラエルが一つとなってことにあたることができた。もともとイスラエルは自分たちの信仰が大きく後退しているということに全然気づいていなかった。それがこの事件をきっかけに自分たちのうちにひどい悪が生じているということに衝撃を受けて、霊的に目を覚ました。へりくだって主に立ち帰ろうとしていた。それで一つになってことにあたることができたのだ。
クリスチャンを一つにするのも信仰だ。私たちの信仰はいまどういう状態か?後退というのは非常にわかりにくい。明らかに凶悪な犯罪やとんでもない事件が教会内部で起こることで初めて気づくこともある。そういうことになる前にへりくだろう。クリスチャンがへりくだるなら、国や身分や性別を超えて信仰によって、キリストの十字架によって一つになることができる。

12-16節。イスラエルの諸部族の提案は無理のないものだ。ベニヤミン全体に攻撃をしかけようとするものではなく、犯罪を犯した人々だけを断罪しようとした。ところがベニヤミン族は犯罪者の引き渡しを拒否した。正義をなそうとはしなかった。悪を行った者を罰するというのは、どんな社会でも必須の基本的なことだ。それすらしないというのはどういうことか?ベニヤミン族は、内政干渉を嫌ったのかもしれない。同じイスラエルの十二部族といえども、他の部族が自分たちの部族の人間を裁くことについて圧力をかけるのを我慢ならなかった。ベニヤミン族のことはベニヤミン族の中だけで解決する。それができないから干渉が必要なのだ。神の共同体には不義に対して干渉をする権利がある。私たちは、自分が罪を犯すとき、教会の人々がその罪を指摘して、悔い改めるように干渉する権利があることを認めよう。そうすれば、私たちは守られる。頑なになってベニヤミン族のように滅びる者となってはならない。

同じような罪がベニヤミン族の指導者たちを含む多くの人々によって行われていたのかもしれない。もし犯罪を犯した人々を罰する、正義をなすということになれば、無事ではすまない人が大勢いた。すっかり悪に染まっていたのだ。また、ベニヤミン族はイスラエルの他の11部族を相手にしても何とかなるという自信があった。それだけ強かった。武装した兵士が2万6千人いて、特にギブアの700人の兵士が精鋭だったのだ。左利きの非常に正確な投擲ができる人々だった。この人々の中にも犯罪を犯したならず者が含まれていたに違いない。強力な力を間違ったことのために使っていたのだ。ベニヤミン族の人々が犯罪人の断罪を拒否して戦いに発展したのは、主の計らい。主が他の部族を通してすっかり悪に染まったベニヤミン族を裁くためだろう。
17-25節。主はイスラエルにベニヤミンと戦うように指示し、どの部族が最初に上っていくべきかまで教えてくださった。ということは、罪を悔い改めないベニヤミン族を相手に戦うことをよしとされていたということだ。それなのに、なぜ1回目と2回目の戦いで負けてしまったのか?兵士全体の10%にあたる4万人も戦死している。もちろん主は勝てると約束しておられたわけではない。でも、普通主の言われる通りに戦えば勝てる。士師記のほかの戦いでも全部圧勝している。聖書全体でも主が言われた通りにして勝たなかった唯一の例だ。はっきりとその理由は書いていないので、正確なことはわからない。考えられる可能性をあげてみよう。イスラエルでおかしくなってしまっていたのは何もベニヤミン族に限った話ではない。17-18章で移動したダン族も、レビ人も、ほかの部族も、問題だらけだった。単純な正義対悪という構図ではなかったのだ。だから、主は簡単には勝利を与えず、ベニヤミン族以外の部族も痛みを負って主の御前にもっとへりくだるようにしたのだろう。

もう一つ言えることがある。外敵との戦いでは一部の部族だけでも勝てたのに、内部の敵との戦いでは全部族が総力をあげても苦戦した。神の共同体は、外敵な要因による問題よりも、内側の問題の方がもっと深刻で、清められるためには苦戦を強いられるものだということ。教会が成長しない理由について、「日本は神道や仏教が強いから」「悪い教育がなされているから」もちろんそういうことは多少あるが、福音が広まる前はどの国でもそんなものだ。使徒言行録でパウロが宣教した場所は、今の日本のような問題を抱えたところばかりだった。問題はむしろ教会内部にある。クリスチャンにある。もっといえば私自身の心にある。私の信仰が薄いことにある。クリスチャン一人一人の信仰が燃え上がれば日本を福音化することはできる。内部の問題の解決することは手こずることもあるが、避けては通れない。イエス・キリストはいつも外の問題よりも内の問題に焦点をあてておられた。マルコ7:20-23。このようなものに信仰によって勝利する私たちになろう。
26-28節。イスラエルは二度の敗戦を経験してもあきらめなかった。イスラエルは最初の戦いのときにはしなかったことをした。主の御前でへりくだり、断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。つまり、血肉の戦いには負けることで、心は主の御前に正しいものへと整えられていったのだ。それで、主ははっきりと「明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す」と約束してくださった。内側の問題の解決のために、何度も戦っても、負け続けてしまうということはある。もしそれであきらめてしまうなら、全部無駄になってしまう。負けたことを祈りに変えてへりくだるなら、負けすらも最終的な勝利のための備えとなる。

29-48節はイスラエルの勝利について。イスラエルは伏兵を配置するという策略を用いた。イスラエルは容赦なく攻めたので、ベニヤミン族は男が600人しか残らないまでになった。こうして、主の裁きはなされた。イスラエルから悪が取り除かれた。

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