神と共に歩む

福音&主題メッセージ
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神は私たちと共に生きることを望んでおられます。

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【ノート】
たった一度の大事な人生をどのような歩むべきか?惰性で生きるのではなく、はっきりとしたコンセプトをもって生きることが大切だ。モデル的な人生をエノクに見出すことができる。創世記5:22-24。エノクの特徴は二つ、神と共に歩んだことと、神がとられたのでいなくなったことだ。エノクは自分を造った創造主なる神様と共に歩んだ。それら創造主なる神様に喜ばれることだった。主なる神は私たちと共に歩むことを望んでおられる。主は、私たちを愛しておられ、私たちと共に生きることを望んでおられるのだ。しかも、主は私たち一人ひとりと一時的に共に歩むことではなく、エノクがそうだったのようにずっと共に歩むことを望んでおられる。神と共に歩むということは、ただ神様を信じていたということにとどまらない。エノクの時代、他にも大勢の人々がいた。神を信じている人々もほかにいただろう。しかし、エノクのように300年間絶えず神と共に歩み続けた人は他にいなかった。その点でエノクは優れていた。神はエノクを愛するあまり、エノクを「とられたのでいなくなった」。死んだということではない。いなくなった。神はエノクを生きたまま天に引き上げたのだ。これはクリスチャンが終わりのときに体験すべきこと、携挙を予表している。Ⅰテサロニケ4:17。クリスチャンが生きたまま天に引き上げられることを携挙という。クリスチャンは携挙されるにあたって、エノクのように神と共に歩む生き方をしなければならない。あなたは神と共に歩んでいるか?

「エノクのように神と共に歩むなんて無理だ。そんなのは理想に過ぎない」ということを言ってはならない。なぜなら、神と共に歩むことはすべての信仰者に対して、求めていることでもあるからだ。ミカ6:6-8。とにかく献げ物をたくさんささげれば、献金をすれば神が喜ばれるということではない。献金はそれ自体良いことだが、お金で神を買収することはできない。主はお金を必要とされないお方だ。主は実のところ何も必要とはされない。主は無から有を生み出すことができ、石ころからアブラハムの子孫を造り、水を葡萄酒に変え、パンや魚を増やせるお方だ。しかし、そんな主があえて私たちに望んでおられることがある。それは、新しいことではなく、ずっと昔から神が私たちの心に語り続けておられることだ。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことだ。このことを神が求めておられることを私たちはずっと前から知っている。神は無理なことを要求されるお方ではない。私たちは正しい生き方をすることができる。神と共に歩むことができる。

それでは、神と共に歩むというのは、具体的にどういう生き方をすることなのか?神と共に歩むというのは、神と人間の共同作業。神の側と人間の側、両方の働きが不可欠だ。どちらか一方の働きが欠けていたら成り立たない。そして、神はいつも御自分がなすべきことをしてくださる正しいお方だ。神の側がしてくださることは、信仰者と共にいてくださることだ。神が共にいてくださらなければ神と共に歩むことは不可能だ。神は信仰者を愛して、共にいてくださる。あなたは信仰者か?クリスチャンか?そうであれば、神はあなたと共にいてくださる。ヘブライ13:5。私たちが調子が良いときも悪いときも、主は共にいてくださる。主は御言葉でそのことを繰り返し繰り返し約束してくださっている。主が繰り返し語られるのは、クリスチャンが「神が共におられる」ということに気づくことによって信仰が強められるからだ。神が共におられるということ、そしてそのことがどんなにすばらしいことなのかということを私たちはわかっていなければならない。神が共におられるので、恐れることはない。主はよく「恐れることはない」という御言葉と共に「私があなたと共にいる」と約束してくださる。イサクに対してした主の約束の御言葉を読んでみよう。創世記26:24。主が共におられるので、万事大丈夫だ!恐れは消え去る。神が共におられるので、戦いに勝利することができる。申命記20:4。主はどんな敵よりも強い。主が共におられるということは必勝だということ。神が共におられるので、することなすことみな成功することができる。創世記39:2-3、21-23。ヨセフは奴隷にされ、さらには濡れ衣を着せられ囚人にされた。そういう試練はある。しかし、主がヨセフと共におられ、ヨセフが信仰をもって働くと、奴隷の家でも監獄でも何もかもうまくいった。

そして、神が共におられるので、私たちは神から特別なご好意をいただいていることがわかる。出エジプト33:16-17。大勢の人がいる中で、神がただ御自分の民である私たちにだけ共にいてくださるということによって、神は私たちにご好意を示してくださっている!愛を示してくださっている!そして、このご好意という言葉は、「恵み」と訳すこともできる言葉だ。神が共におられることは恵みなのだ!イスラエルはこのとき、神が共におられるのにふさわしかった状態だったから、神に喜ばれることばかりしていたから神が共におられたのではない。この直前に金の子牛を造ってひれ伏すというとんでもない罪を犯していた。ただモーセの執り成しの祈りを神が聞いてくださり、この恵みを受けることができた。同じように、神に背いて生きていた私たちはイエス・キリストの十字架による執り成しで、あらゆる罪を赦していただき、神が共にいてくださるという恵みを受けることができるようになった。神が共におられるという恵みは、それを受けるに値しないものに与えられるものなのだ。これが神の側がしてくださっている働きだ。神が共におられる、このことを自覚して、信仰を奮い立たせる者となろう。

神と共に歩むにあたって、神と人間両方がする働きがある。コミュニケーションをとることだ。アモス書3:3。人生は神と共に歩む長い旅だと言える。旅行に行くとき、どこで待ち合わせしてどこに旅行にどうやって行くか、行って何をするか、全く打ち合わせせずに、一緒に旅をすることができるか?そんなことはありえない。二人の人が共に行くからには打ち合わせが必要だ。コミュニケーションが必要だ。祈りと御言葉によってコミュニケーションをとるのだ。祈りは神に話すこと、御言葉は神の話を聞くこと。神と打ち合わせをするときは神に祈って、聖書の御言葉を開き、神の御心を確認すれば良い。そうすれば、神と共に歩む上でどうすればよいのかがわかる。こういうコミュニケーションを毎日とることだ。それは、何も打ち合わせに限ったことではない。何か特別な用件がなくても、主は私たちとコミュニケーションをとりたいと望んでおられる。主は私たちを愛しておられるからだ。もし主は私たちと話したいのに、私たちの方が全然コミュニケーションをとろうとしないなら、主を無視していることになる。旅行中ずっと同じ車に乗って移動しているのに、同じ場所に行き、同じ部屋に寝るのに、無視し続ける。それは神に対して大変失礼なことではないか。黙示録3:20。主が私たちと共にいてしたいのは、食事だ。豊かな交わりだ。主との交わりが私たちの霊的な糧となるのだ。クリスチャンは毎日祈ることなしに、主との交わりなしにクリスチャンとして生きていくことはできない。全然祈らない日々が続けば、霊的に枯渇し、干からびてしまう。食事をするのが当たり前のように、私たちは毎日祈りと御言葉によって主と交わろう。短い時間から始めるのでも良い。毎日必ず祈りと御言葉によって主とコミュニケーションをとる者となってほしい。ほかのことをしている時でも、ことあるごとに心の中で主に話しかけたり、暗唱している御言葉を反芻したりしてみてほしい。義務感にかられて始めたとしても、それは後で喜びの時間となる。大きな力となる。

神と共に歩むにあたって人間の側で必要なことがある。それは、神に従順すること。神と人間がどういう関係にあるのか間違ってはいけない。神が主人であり、私たちは僕だ。神と共に歩むにあたって、私たちが進みたい道に神についてきてもらおうとするのではなく、神の示される道に私たちが従わなければならない。神と共に歩んだ人物としてエノク以外にもう一人書かれているのは、ノアだ。創世記6:9。「神に従う無垢な人であった」と書いてある。ノアの特徴は従順だ。ノアは雨を見たことがなかったにもかかわらず、神から「箱舟を造りなさい」と命じられたとき、神に信じて従った。箱舟は大きく、造るのは簡単ではなかったが、ノアは音を上げず、すべて神が命じられた通りに従った。一部だけ従うとか、ところどころ命令と違う自分なりのアレンジを加えるということはなかった。ノアはすべて神が命じられたとおりに果たした。部分的な従順は不従順と変わらない。私たちは神に対して徹底的に従順する者となろう。

聖書を開けば、神が何を命じておられるかがすぐにわかる。聖書で命じられていることというのは幸い、読めばわかることばかりだ。何かの呪文や暗号ではない。はっきりと命じられているので、読んでわかる通りに従えば良い。どうしてもよくわからなければ、調べたり、他の人に聞いたりすれば良い。それらについて、いろいろな言い訳を見つけて従順しないようにするのではなく、すべての命令について従順することを目指そう。「この御言葉については、私は実践しなくていい」と勝手に除外するのではなく、従順しよう。従順する気さえあれば、主の恵みによってノアが箱舟を造ることができたように、主は従うための力をも与えてくださる。従順しようとして足りないところがあるなら、主は憐れんでくださる。しかし、最初から言い訳をして部分的にしか御言葉に従順しようとしないならば、問題だ。

すべての御言葉について従順すれば良いが、もし一つだけあげるとするなら何か?「箱舟を造りなさい」という命令だ。箱舟を造るとは結局、神の裁きからの救いのための働きだ。つまり福音宣教だ。福音を宣べ伝える者と共に主が働いてくださるということはイエス・キリストが約束してくださっている。マタイ28:19-20。主は特に、大宣教命令を遂行する弟子たちと共にいてくださる!マルコ16:20。イエス・キリストは弟子たちと共に働き、共に福音を広められた。使徒言行録の内容はその具体的な内容を指している。クリスチャンを通してのイエス・キリストの働きはいまも続いている。今なお主イエス・キリストは私たちと共に福音を宣べ伝えられるのだ。神と共に歩むというのは、福音宣教の使命を忠実に果たしていく歩みなのだ。エノクも、ユダの手紙によると預言者として、人々に預言をするという歩みをしていた。ユダ14-15。不信心な生き方、行い、言葉を主が裁きのときに責めるというメッセージだ。福音がまだ啓示されていないエノクの時代には裁きのメッセージしかできなかった。私たちには恵みの福音が与えられている。私たちはなおさら熱心にイエス様と共に福音を宣べ伝える歩みをする者となろう。神にとられることになる日まで、神と共に歩もう。

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