イエス様の帰省[ルカ2:41-52]

ルカによる福音書
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イエス様から目を離してはいけません。

イエス様の帰省[ルカ2:41-52]

イエス様の帰省[ルカ2:41-52]

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【ノート】
今回の箇所はイエス様の少年時代についての唯一の記事だ。福音書は福音について書いた書物。イエス様がキリストであって、私たちを救ってくださるお方であることが中心。だから、イエス様のキリストとしての活動、特に十字架の死と復活に焦点があてられている。少年時代のイエス様がどうであったかは興味深いことではあるが、福音とは直接関係ない。

また、偉大な人物の少年時代を知りたいと思う動機というのは、その人がどのように過ごしたことによって偉大な人物になっていったのか、優れた経験や成長の軌跡を知りたいというのがある。その点、イエス様の偉大さは、少年時代の経験によらない。イエス様の偉大さについて、成長の軌跡を見ることができない。なぜなら、イエス様は生まれた時から偉大だったからだ。イエス様の偉大さというのは、主に神としての性質によるものだ。だから、イエス様の偉大さは、神の御子が聖霊様を通して人間として誕生したことにある。その出生にある。その神性にある。イエス様の神性は、生まれたときから成長も発展もない。最初から完成している!少年時代のイエス様を観察することによって得られるのは、イエス様の人間としての性質の成長のみだ。今回の箇所を読むことによってそのことがますます浮き彫りになる。

41節。過越祭、五旬祭、仮庵祭がイスラエルの三大祭り。エルサレム近郊のユダヤ人たちは必ずこれらの祭りを祝う義務があった。遠方のユダヤ人たちはこれらの祭りにあこがれ、エルサレムで祝いたいと思っても、頻繁にエルサレムに行くことが難しく、一生に一度、巡礼の旅をして祝うことができるくらいのものだった。エルサレムからそこまで距離が離れていないガリラヤのナザレに住んでいたイエス様の両親は、三大祭りのうちの最大の祭りである過越祭だけ、毎年祝った。

42節。ユダヤ人男性は13歳で成人を迎える。このときは社会的な責任の薄い子供時代の最後の時期ということ。
43-44節。果たして、自分の子供がいないことに気づかないまま1日分の距離を進むということがあるのか?十分ありうること。当時の旅行は男性と女性は歩く速度が違うため、女性のグループが先に出発して、男性のグループが後から追いつき、一日の終わりに合流する。先を行くマリアは、イエス様がヨセフと一緒にいるだろうと思った。後から追いつこうとしていたヨセフはイエス様がマリアと一緒にいると思った。ところが、1日分進んだ後に合流してみるとどちらの一団にもいなかった!
そういう理由があるといえども、やはりイエス様が共におられないのに気づかずにどんどん進んでしまうというのはうかつではないか。エルサレムで主を礼拝して、イエス様を置いて帰路に着いた。礼拝が終わった!もう後は帰るだけ!そうは当たり前のこと!だから、イエス様も当然一緒に帰るに違いない、ついてきているに違いない、一緒に一向の中にいるに違いない、そう思い込んで、イエス様から目を離してしまっていた。それで、イエス様からどんどん離れていたのだ。私たちはイエス様から目を離してはならない!自分の計画、自分の道を進むときにイエス様が当然一緒にいると思い込んで突っ走っていないか?イエス様からどんどん離れてしまっていないか?私たちのいるべきところはイエス様のおられるところだ。イエス様に心の目を注ぎ、イエス様の御心はどうなのか、イエス様は何を考えておられるのか、どこに行きたいのか、そのことをイエス様に確認しなければならない。これはイエス様が喜ばれることか吟味し、祈り、御言葉を開いて示されることがないか確認する。詩編123:2。私たちは自分の心に従うのではなく、イエス様に従うのだ。イエス様についてきていただくのではなく、イエス様に従うのだ。イエス様から目を離さない者になろう。礼拝に出席した後に、イエス様を教会に残して家に帰るのではなく、次に教会に出席するまで、イエス様に目を注ぎ、ずっとイエス様についていくのだ。

45-47節。イエス様を見失った両親は探すのに時間がかかった。探しながら戻ったので、イエス様から離れるよりも3倍時間がかかった。イエス様から離れた後、悔い改めて主に立ち帰るのはインスタントではいかない。「はい、はいわかった。罪を告白すればいいんでしょ?罪を犯しました。はい、悔い改めた!」もっと誠実な悔い改めをしよう。どこから離れたのか、丁寧に確認し、離れる前の状態に立ち戻らなければならないからだ。黙示録2:4-5。
12歳の少年が両親とはぐれて4日もたったらどうなるか?危機的な状況だ。非常に心細い。食べるもの、寝る場所にも困る。つらくて泣くこともあるかもしれない。精神的にも肉体的にも追い詰められ、道に座り込み、途方に暮れてしまうだろう。最悪、悪い人につかまって奴隷にされてしまうこともありうる。しかし、私たちがいま見ているのはただの少年ではない。神の子だ。イエス様は父なる神様から必要なものをすべて与えられ、満たされていた。
イエス様は神殿の境内で学者たちの真ん中に座っていた。ここでは、イエス様が学者たちに何かを教えたわけではない。まだそのときは来ていない。イエス様は聞き手に回っていた。それでも、学者たちは、少年ながらイエス様の質問から優れた知恵とただならぬ権威を感じとり、驚いた。それで、学者たちが大勢いてもその真ん中にいたのは、イエス様だったのだ。みんなが、親とはぐれて迷子になった少年に注目していた。その受けごたえにあまりのすばらしさに誰も迷子センターに連れていこうと思わなかった。イエス様はどんなときでも真ん中におられるべきお方なのだ。

両親は心配してイエス様を探していたのに、イエス様は全然心配せずに、両親を探していなかった。イエス様は平安そのもの、シャロームそのものだった。状況がよく分かっていない息子に対してマリアは叱った。48節。「お父さんも私も心配して捜していたのです」と書いてある。

49節。これが聖書に記録されたイエス様の御言葉の中で、イエス様が最初に口にした御言葉だ。イエス様はやさしくではあるけれども、きっぱりとヨセフが自分の父親であるということを否定している。そして、イエス様は今自分の父の家にいると言っている。イエス様がそのときいたのは神殿だ。つまり、イエス様は今父なる神の家にいると言っておられるのだ。イエス様が最初に口にした記録された御言葉は、自分が神の子であるという確固たるアイデンティティを示す御言葉だった。イエス様は最初から自分が神の子であるということを認識していたことがわかる。
ヨセフとマリアは過越祭が終わったからエルサレムの神殿を後にしてナザレの家に帰ろうと思っていた。ところが、イエス様はもう帰っていた。イエス様の本当の家は神殿だった。イエス様は父なる神の家にまさに帰省中だったのだ。何も心配しないのは当たり前だ。愛に満ちた父親と一緒に自分の家にいて、食べ物や寝る場所の心配をする子供がいるだろうか?そんな心配はいらない。イエス様は親子水入らずのときを4日間過ごしていたのだ。地方から東京に出てくる人たちは、夏休みや年末年始に里帰りをする。自分の両親のいる実家にいく。そうすると、自分の本来の家で、自分の故郷で、親子でゆっくりとした時間を過ごすことができるのだ。私たちもこの世に一時的に出てきている身だ。ヘブライ11:16。天国は故郷だ。私たちはやがて見ず知らずの場所に行くのではなく、主の臨在の中でかすかに体験したどこか懐かしい場所、自分がずっとつながっていた場所、その場所にやがて行くことになるのだ。

50-51節。両親にはイエス様の言われたことが全然わからなかった。私の息子はエルサレムに4日間も取り残されて気が変になったのか?両親は主に従う人たちだったが、預言者ではなく、普通の人だったのだ。主は普通の人たちを用いる。マリアはこれらの出来事を心にとめた。主の御言葉と主のなさったことを心にとめて反芻すれば、主はあるときに急に理解させてくださったり、必要なときに思い出させてくださったりする。御言葉を心にとめよう。イエス様を心にとめよう。思い巡らそう。
イエス様のこのときの言動は両親を困惑させるものだった。しかし、イエス様はこの後もずっと両親の目に奇妙に見える行動をとったわけではない。また、イエス様の真の父は確かに父なる神様だが、かといってずっと神殿に残ろうとせずに、両親と一緒にナザレに帰った。そして、自分が神の子だからといってそれを誇ったり、両親を見下したりすることもなかった。イエス様は両親に仕えてお暮しになった。神の子であるということは、偉そうにするものではなく、両親に対しても完璧な息子にするものなのだ。
イエス様について間違ったことを言う人がいる。「イエスは自分の家族を捨てた」という人がいる。私は自分の耳でそう聞いた。それは完全な間違いである。イエス様についてのこの次の記述は、30歳でメシアとしての公の生涯を始める時点だ。そして、ヨセフはこれ以後出て来なくなる。ヨセフは早くに亡くなり、イエス様が一家の大黒柱となった。大工として働き、マリアと弟たちを養ったのだ。弟たちが自立するころまで、イエス様は大工として家族に仕え続けた。神の子が人間となって来られたのに、その生涯の大部分は自分の家族に対して献身することだけに費やされたのだ。メシアとしての活動よりも家族に対する奉仕の方がずっと長い!イエス様がいかに家族を大事にされたのか、ということがわかる。誰もメシアであるイエス様以上に重大なミニストリーを持っているという人はいない。最大のミニスターであるイエス様が長年家族に仕えられたからには、私たちもそれぞれどんな召しを受けていたとしても、家族を愛して仕えるということをないがしろにしてはならない。Ⅰテモテ5:4,8。忙しいとか、余裕がないとか、立場があるとか、そういう言い訳はやめよう。イエス様は「世界を救わなければならないから家族に仕える暇はない」とは言わなかった。家族に仕える者となろう。

30歳までの期間は家族に仕えること以外に、イエス様の人間としての性質の成長のために必要だった。52節。知恵が増しと書いてある。真理に対する洞察と理解が深くなっていったのだ。それは学者たちのように人間の教えを覚え込んでいったからではなく、父なる神との交わりの中で身についていったからだ。それで、イエス様が真理を手にとるようにわかっていたので、様々なたとえで教えることができた。そして、肉体的にも成長していった。枕するところもないという、イエス様がなさったような過酷な宣教に耐えるためには肉体も強くならなければならない。最後に、イエス様は、神と人とに愛されたからだ。愛が健全な成長をうながす。愛された人が愛するようになり、さらに愛される。愛され、愛しで成長する。私たちは両手を伸ばして祈り父なる神の愛を一身に受けよう。神の家族の中で互いに愛し合い、成長していく者となろう。

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