決して黙らない男[ルカ18:31-43]

ルカによる福音書
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お行儀よくすることよりも救いの方が大事です。

決して黙らない男[ルカ18:31-43]


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【ノート】
31-34節。イエス様はこれから向かおうとしているエルサレムで、何が待っているか、明確に理解していた。しかし、弟子たちは全然理解していなかった。34節に「理解できなかったのである」と書いてある。ペトロを始め、弟子たちは自分たちの献身に自信を持っていた。私たちは金持ちの議員とは違うと。ペトロは弟子たちを代表して、「この通り、私たちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と豪語した。その献身は確かに立派である。弟子たちはどこまでもイエス様につき従っていた。しかし、そんな弟子たちすら、イエス様が十字架にかかられるとき、つまずいてしまうことになる。イエス様を見捨てて逃げてしまい、イエス様に死によって絶望してしまうことになる。なぜ弟子たちはつまずいてしまったのか?エルサレムでイエス様の身に何が起こるか、「理解していなかった」からだ。イエス様からこの話を聞くのはもう三度目だ。それなのに弟子たちは理解していなかった。私たちは理解しているだろうか?イエス様の福音とイエス様を信じる者が通るところを理解しているだろうか?確かに何度も聞いていて耳タコかもしれないが、本当に理解しているだろうか?真理の御霊によって教えられただろうか?理解していなかったら、私たちも弟子たちのようにつまずいてしまうことだろう。すべてを捨ててイエス様に従っていた弟子たちすらつまずいたのだから、私たちも当然つまずいてしまうだろう。私たちは理解する者となろう。

イエス様はこれから向かおうとしているエルサレムで、何が待っているか、はっきりと理解していた。その内容とは、最悪の受難と最高の栄光だ。まず、先に受難がある。十字架の道は苦しみの道だ。イエス様はその受難の内容を事細かにわかっていた。異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をはきかけられ、鞭打ってから殺す。最大の精神的苦痛と最大の肉体的苦痛だ。イエス様はこれらが御自分の前に待っていると知っていながら、エルサレムへの道を力強く前進しておられた。なぜか?受難は、旧約聖書の預言の成就であり、決して避けることはできなかったからだ。31節に「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と書いてある。つまり、イエス様がエルサレムに向かって前進されたのは、神の御言葉への従順だ。聖書に書いてあることへの従順だ。十字架の道は従順の道だ。聖書に書いてあることを文字通りに行おうとすれば、大変なこともある。誘惑との戦いがある。犠牲が必要である。人から馬鹿にされることもある。すぐに目に見えた成果が得られないこともある。それでも私たちは聖書の御言葉に従順しよう。イエス様もそうだった。イエス様は最悪の受難が待っているとわかっていながら勇敢にエルサレムに向かって歩を進め続けた。十字架の道は勇者の道だ。私たちも、たとえ大変なことがあるとわかっていても、イエス様に倣って、恐れずに、勇敢に従順の道を前進する者となろう。アーメン。

私たちの従順を支えるものがある。イエス様の前には最悪の受難の向こうに、最高の栄光があった。つまり、復活があった。十字架の道は栄光への道だ。イエス様はそのことも知っておられた。三度受難について語られるとき、いつも受難と復活をセットで語られた。復活によって、受難で受けたすべての精神的苦痛と肉体的苦痛はぬぐい去られる。イエス様は散々侮辱を受けたが、復活された主は栄光を受けた。主はやがてすべての舌によって「イエス・キリストは主である」という告白を受けることになる。肉体の苦しみも終わり、決して朽ちず、滅びず、力強く、制限のない栄光の体を主は手に入れられた。私たちにもそれが待っている。究極的には永遠の御国で復活の体を楽しむことができる。
この世にあっても、主が打たれた傷によって私たちは癒しと平和を、精神と肉体の回復を体験できる。私たちの前にも永遠の栄光が待っている。だから、永遠の栄光を見据えて、この世での一時の患難を耐え忍び、御言葉にどこまでも従順する者となろう。

35節。イエス様はエリコに近づいておられた。エリコといえば、イスラエルがカナンの地を占領するにあたって最初に陥落させた都市だ。ヨシュアが町の城壁の周りをまわり、鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ちた。約束の地での最初の勝利だ。その勝利はその後に続く破竹の勢いでの勝利の前兆だ。イエス様はエルサレムに向かうときにそのエリコを通られた。ここでのイエス様の御業は、エルサレムでの栄光の前兆だ。

盲人がいた。彼は道端で物乞いをしていた。当時、働きたくても目の見えない人ができる仕事は限られていたので、物乞いするほかなかったのだ。今では、視覚障害者であっても電話応対の仕事など、就労先がある環境にいることはすばらしいことだ。私の知人の中でも働いている方がいる。そういう世の中になっているのはきっと神がこのときのように盲人のことを気にかけておられるからだろう。神が盲人のことを特に気にかけていることはどのようなことからわかるか?申命記27:18。神は弱い者を特に気にかけておられる。あなたは自分が弱いと思うか?それであれば、神はあなたを特別に心にかけてくださる。

盲人は盲人だったが、彼には希望の光が見えていた。彼は目が見えないかわりに耳がよかった。それで、人々がイエス様について噂しているのを何度も聞いたのだ。何でもイエス様の手にかかれば、どんな病気や患いもたちどころに癒されるという。それを聞いて盲人はイエス様について繰り返し黙想した。「イエス様なら私の目を見えるようにしてくださるに違いない。イエス様については、預言者だとか、エリヤだとかいう人もいるが、そんな奇跡を行うことができるなら、イエス様はきっとイスラエルが待望している方、メシアに違いない。どうかイエス様、エリコに来て私を癒してください。」彼は目が見えなくても、重大な真理が見えていたのだ。ヘブライ11:1。盲人には見えない事実が良く見えていた。目が見えない者にだって、イエス様にあって希望を見ることができる。私たちは私たちの救い主イエス・キリストにあって、いつも救いの希望をありありと見る者となろう。

盲人は自力でイエス様を探しに行くことはできないので、そのようにイエス様に黙想し祈る日々だった。36-39節。そして、この日、いつになく大勢の人々が通っていく雑踏が聞こえた。そこで、「これは、いったい何事ですか?」と尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」という。そう聞くや否や、盲人は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。この叫びには盲人の信仰を見ることができる。
他の人は盲人に対してイエス様のことを「ナザレのイエス」と言ったが、盲人はイエス様のことを「ダビデの子イエスよ」と叫んだ。ナザレのイエスというのはちょっとした疑惑や軽蔑の意味を込めた呼び方だ。メシアはベツレヘムで生まれると預言されているのだから、ナザレから出るはずがないし、ナザレはガリラヤの田舎の町だ。メシアではまずない、ナザレの田舎者の得体の知れない人物という意味あいがそこにある。それに対してダビデの子ははっきりしている。メシアの別の呼び方だ。この盲人はイエス様がメシアであるという信仰をはっきりと持っていたのだ。
そして、盲人は自分でイエス様のもとに行くことができないので、ただただ大声で叫んだ。盲人の叫びは38節と39節では違う。38節は人の注意をうながす普通の大声で、39節は感情まるだしの絶叫だ。つまり、周りの人々がだまらせようとしたにもかかわらず、盲人はますます大声でイエス様の御名を呼んだのだ。盲人はイエス様から救っていただくチャンスを絶対に逃すつもりはなかった。このことは私たちにもできることだ。盲人の叫びは、私たちにもできることだ。なぜなら、主の御名を呼び求める者は皆救われると書いてあるからだ。(ヨエル3:5)イエス様をメシア、私を救ってくださる。私をあらゆる罪から、悪から、病から、災いから救ってくださると信じる。私たちがどこにいたとしても、その方に呼び求めるならば、その方から救っていただくことができる。私たちはそのチャンスを逃してはならない。人々は私たちをだまらせようとだろう。救いよりも行儀よくすることの方を優先しようとする人々が多い。サタンは私たちを沈黙させようとするだろう。不信仰に陥らせ、途中で祈りをあきらめさせようとするのだ。しかし、そのような妨害があったとしても、私たちはますます大声で御名を叫ぼう。主よ、憐れんでください!と。「主よ、憐れんでください」は、ギリシャ語では、キリエ・エレイソンといって、東方教会、カトリック、ルーテルなど一部の教会では祈りの中でよく用いられている。

40節。祈りは聞かれる。叫び求めるなら、私たちは主に近づくことができる。祈りは主なる神様との距離を縮め、その方との交わりを密なものにするのだ。
41節。イエス様は盲人が何を求めているかをよく知っておられた。主の祈りの説明でもイエス様は、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われた。それでもあえて「何をしてほしいのか」を尋ねるのは、私たちが主に願い求める内容を具体化して、はっきりと言葉に出して願う必要があるからだ。私たちの祈りは具体性があるだろうか?言葉に出せない内容というのは曖昧なものだ。祈りの内容が具体的でないなら、自分でも何を願っているかよくわかっていないということだ。そんな内容であれば祈ったところで答えられたのか答えられていないのかよくわからない。私たちは神に何かを願うなら、具体的に神に何をしてほしいのか、内容を言葉に出してはっきりとさせて願うようにしよう。

盲人ははっきりと願った。「見えるようになりたいのです」と。42-43節。盲人は癒された。この癒しには意味がある。旧約の預言にはメシアが盲人の目を見えるようにするというものがある。イザヤ35:1-6。この預言の通りに、盲人がイエス様によって癒された。これは、イエス様こそが旧約で預言されているメシアにほかならないということだ。盲人は信仰によって救われた。たちまち見えるようになった。その後、彼は神を賛美した。救われたら神に感謝と賛美をささげ、神を続けて礼拝することが当然だ。また、彼はイエス様に従った。イエス様の弟子になり、イエス様と共に十字架の道を歩む者とされたのだ。救われた者は、イエス様に献身する者となるのだ。私たちもこの人のように、信仰によって罪から救われた後は、教会に出席してイエス様を礼拝する者となろう。イエス様に従って十字架の道を歩む主の弟子となろう。

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