今の時代のしるしはヨナのしるし[ルカ11:24-36]

ルカによる福音書
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イエス様を信じる根拠はいっぱいあります。
聖書を読めば、十分です。

今の時代のしるしはヨナのしるし[ルカ11:24-36]

今の時代のしるしはヨナのしるし[ルカ11:24-36]

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【ノート】
イエス様は悪霊を追い出すことについて、人々からベルゼブルの力で悪霊を追い出していると中傷された。それは、イエス様の能力と人気に対する嫉妬だった。実際には、イエス様は当時のどんなエクソシストよりもずっと悪霊の追い出しに長けているエキスパートだった。イエス様はエキスパートの観点から、なぜほかのエクソシストはあまりうまくいっていないのか、効果的に悪霊を追い出すにはどうすればいいのか、そして悪霊から解放された人はその後どうすればいいのかを解説してくださる。無数の悪霊が現代社会に溶け込んで存在している。ほとんどの人が悪霊から攻撃されているのが当たり前の状態になってしまっていて、逆に悪霊の攻撃に無感覚になっている。多くの人が神から遠く離れていたり、心身が病んでいたりするのは、少なからず悪霊の攻撃によるものだ。私たちは戦う術を身に着け、自分と周りの人々を守れるようにしよう。

24-26節。この箇所からは悪霊の生態について様々なことを知ることができる。第一に、悪霊は人間の体を家として住み着く。ここでは人間の体が家となっている。レギオンという悪霊は豚の中に乗り移ることもできた。人間以外の生き物を家とすることもできる。ただし、悪霊の標的は人間であり、人間を滅ぼすことを目的として存在しているから、人間の体に住み着くことを好む。しかし、悪霊は人間の体の中にずっといるとは限らず、何らかの原因によって出ていくことがある。エクソシストによって追い出されたのかもしれない。人間から追い出された悪霊はいわばホームレスの状態だ。休む場所を求めて次の家を探そうとする。家を見つけるまで休めないので、何が何でも家を見つけようとする。悪霊の追い出しをするときは、追い出された後、周りの人や家族、関係者に乗り移らないように、あらかじめイエス様の血潮によって御守りを宣言しよう。

第二に、悪霊はもとの宿主のことを覚えていて、戻ろうとする。別の家が見つからないとき、最も手っ取り早く家を手に入れる方法は、元いた家に戻ることだ。悪霊はもとの宿主がどこに住み、どういう人間関係を持っていて、どんな仕事をしているかなど何もかも知っているので、もとの宿主を見つけるのは簡単だ。悪霊が戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。つまり、その人は悪霊が出ていったあと、人の中が霊的に空っぽの状態のままにしていたのだ。一見、心が掃除されて整えられているといえば、何だか聞こえが良い。そういう状態を目指して、煩悩を消そう、無我の境地に至ろうと瞑想する人々がいる。しかし、そんなことをすれば、悪霊共に対して「私の中に住んでください!住みやすい家ですよ!」と言っているようなものだ。煩悩を消そう、消そうと思えば思うほど、かえって煩悩だらけになってしまい、前よりも悪くなるのはそのためだ。ユダヤ教のエクソシストたちがあまりうまくいっていなかった理由は、悪霊が出ていった後に何の対処もしなかったことにある。人の中が霊的に真空状態であってはならない。それはあらゆる悪霊を引き付けることになる。悪霊が出ていった後は、別の方に住んでいただかなければならない。聖霊様だ。Ⅰコリント3:16。イエス様を信じると、その人のうちに聖霊様が住まわれるようになる。聖霊様がおられるなら、悪霊がもとの家に戻ろうとして訪ねてくると、聖霊様が応対することになる。悪霊は「家を間違えました」と言って一目散に逃げていかねばならない。悪霊の追い出しを受けた人は、その人がクリスチャンでないなら、また悪霊が戻ってこないようにイエス様を信じて受け入れなければならない。その人がクリスチャンなら、聖霊様に自分のすべてを明け渡し、治めていただくようにしなければならない。聖霊様で満たされていない領域が罪の温床となり、悪霊に対して扉を開いてしまうことになるのだ。イエス様を信じて、聖霊様で満たされよう。

イエス様のすばらしい話を聞いて熱狂した人が、思わず一時的な感情の高まりから迷信的な発言した。27-28節。女性は興奮のあまり感情に酔っている状態だった。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房」が幸いということは、マリアが幸いということだ。
マリアは確かに優れた信仰の持ち主であり、「お言葉通りこの身に成りますように」とガブリエルの言葉を信じて受け入れた。それゆえにマリアは祝福されたものとなった。しかし、この女性の話によるなら、マリアがただイエス様の母親であるという理由だけで祝福されていて、特権的な地位にあり、聖人として普通の人間よりも一段上の存在とされ、その果ては偶像のように崇められてしまうことになる。イエス様はぴしゃりと否定した。あくまでも信仰によって御言葉に従順することだけが祝福の道だ。イエス様は確かに私たちの感情を高揚させるお方である。御言葉を聞いていると心が燃える。しかし、興奮のあまり私たちの考えがあらぬ方向にさまよい出てしまいそうになることがあるかもしれない。そういうときは、このイエス様の断固とした御言葉を思い出そう。感情的な高揚は、むしろ御言葉を実践する原動力として与えられているものだ。燃えるものを感じたら、そのエネルギーでとことん信じ、とことん従順しよう。

29-30節。16節でイエス様を試そうとして天からのしるしを求める者がいた。モーセが紅海を割ったような、天からマナが降ってくるようなしるしを想像していたのだ。それは、「自分が納得できる形で神が奇跡を行ってくれないと信じない!」という不信仰に根差したものだ。イエス様は、すごいしるしによらなければ信じない今の時代の人々のことをよこしまだと言われた。「今の時代」とはどの時代のことか?イエス様が再臨するまでの時代のことだ。つまり、今も含まれる。今の時代に、イエス様はすべての人が納得できる形でしるしを行うことは決してないが、ただヨナのしるしだけを与えてくださる。ヨナのしるしとは何か?ヨナはニネベで預言することを主なる神様から命じられた。しかし、ニネベといえば敵であるアッシリア帝国の首都だ。ヨナはニネベの人々が救われてほしくなかったので、船に乗って主なる神様から逃げようとした。ところが、主はすべてをご存知で、船は大嵐となった。ヨナは船員たちに自分が嵐の原因なので、自分を嵐の海に投げ込めば嵐はおさまると説明した。そこで、ヨナは荒れ狂う海に投げ落とされて、大魚に飲み込まれた。そこで三日三晩過ごした。普通は魚に丸のみにされたら、当然すぐに死んでしまう。しかし、ヨナは大魚の腹の中で悔い改めたので、主なる神様によって胃酸で溶けてしまうことから守られ、三日後に陸地に吐き出された。まるでヨナは死んで三日目に復活したかのように、大魚の腹から救われたのだ。ヨナは有名人だったので、ニネベの人々は預言者ヨナが嵐の海に投げ落とされて死んだというニュースを聞いていただろう。ところが、ニネベの人々は死んだはずのヨナが復活して自分たちの前に現れたことを知ったのだ。ヨナ自身がニネベの人々のしるしとなった。同じように「人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」とイエス様は言われた。人の子とはイエス様のことだ。人々は天からのしるしを求めた。それはきっとモーセのときのような奇跡だろうと勝手に想像した。ところが、イエス様は御自分が天からのしるしだと言われるのだ。イエス様は十字架にかけられて苦しんで死んだ後、ヨナのように三日目に復活された。このイエス様の復活については大勢の目撃者がおり、それを目撃した弟子たちが命をかけて真実であることを証明した。この復活によって教会が誕生し、力強く成長し、ローマの迫害によっても、イスラム教の侵攻によっても、自由主義による堕落にも耐え忍んだ。復活して今も生きておられるイエス様が教会におられることは教会の歴史も証明している。ある出来事が歴史的な真実かどうかを見分けるためのテストがいくつかあるが、イエス様の復活はそのいずれにおいても余裕でパスしてしまうほど確かな真実だ。そして、私たちも信じるなら、イエス様の十字架の死と復活をこの人生で体験できる。罪に支配された古い人がイエス様と共に十字架につけられ、罪から解放されて神の愛に満たされて生きる新しい人として生まれるのだ。今の時代の私たちには、イエス様の十字架の死と復活が天からのしるしとして与えられている。十字架の死と復活、ただこのしるしによってイエス様を信じよう。

十字架の死と復活はまだこの時点では起きていない出来事だ。まだそのしるしは与えられていない。しかし、しるしなしでも、イエス様を信じるべき理由は十分にあった。大きく二つの理由があげられている。31節。しるしなしでイエス様を信ずべき理由の第一は、知恵だ。ソロモンは主なる神様から最高の知恵が与えられた人物だった。列王記上5:9-14。ソロモンは当時のどんな知識人よりも優れていて、人生の生きる道や国の運営についての知恵があるだけでなく、抜群の芸術的センスを持った詩人として多くの歌を残し、動植物に関する学術的な知識までも豊富だった。シェバの女王はそんなソロモンの知恵を聞くために遠くからやってきて、あらゆる質問を浴びせたが、ソロモンに答えられないことは何一つなかった。イエス様はそんなソロモンよりもはるかに知恵のある人物だ。イエス様は神の知恵そのものであられる。ソロモンには人間が死後どうなるかという核心的問題にはっきりとした答えを出すことはできなかった。イエス様は人間の永遠について、神の国や地獄について誰よりもはっきりと語られた。その神と人間についての心に響く真理の教えは、とても専門的な教育を受けたことのない田舎の大工が語ることができるものではなかった。また、その知恵を試すためにシェバの女王よりも手強い律法学者やサドカイ派の人々などから質問を浴びせられたが、どれひとつとして答えられないことはなかった。シェバの女王は裁きのときにクリスチャンと共に立ちあがって言うだろう。「ソロモンよりも優れた知恵を持つイエス様の御言葉を聞いても信じないのは有罪だ!」と。私たちは聖書を通してイエス様の知恵に触れている。信じるに十分である。イエス様の知恵によって、イエス様を信じよう。

32節。しるしなしで信じるべき理由の第二は、説教だ。ヨナは旧約聖書の人物の中で最高の説教の賜物が与えられた人だ。ニネベの人々を悔い改めさせたくなかった。彼らは敵だったので、悔い改めずに滅びてほしかったのだ。しかし、主なる神様が命じるので、仕方なくニネベに行って、不承不承、滅びの宣告をした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる!」それは滅びの宣告であって、悔い改めたら救われるというものですらなかった。そして、ヨナはたった一日だけしか活動しなかった。ところが、ニネベの人々は身分の高い人低い人問わず、あらゆる人々が粗布をまとって断食し、罪を悔い改め、悪から離れたのだ。それをご覧になって、主は災いを降すのをやめられた。仕方なく一日働いただけで、12万人以上の人々が悔い改めて救われるに至ったのだ。イエス様の説教はヨナにまさる。イエス様は神御自身だ。イエス様だけが神様の御心を何の混じり気もなく、直接語ることができる。天国の道を説く山上の説教は史上最高の倫理道徳の教えであり、これ以上の道徳的教えは存在しない。それは明らかに普通の人間の口から出てくる教えではない。その説教を聞くなら、誰もが自分の罪を悟らされ、救いを求めるようになる。ニネベの人々は裁きのとき、クリスチャンと共に立ちあがって言うだろう。「私たちはヨナの説教で悔い改めた。ヨナにまさるイエス様の最高の説教を聞いても信じないのは有罪だ!」と。私たちは聖書を通してイエス様の説教を聞いている。信じるに十分である。イエス様の説教によって、イエス様を信じよう。

33節。ともし火は、御言葉だ。その御言葉のともし火を輝かすのは信仰だ。ともし火を隠す人はいないように、信仰は隠すものではなく、表すもの、告白するもの、宣べ伝えるものだ。そうすることによって、ともし火を持たず、霊的な真っ暗闇の中にいる人々を照らし、救いに導くことができる。私たちも、イエス様がそうであるように、人々が信じることを助けられるのだ。
34-36節。信仰と目が関連付けられている。目とは意図のこと。目が身体に対する関係は、意図が魂に対する関係だ。目が身体のあらゆる運動を導く。同じように、意図は魂の運動を導く。目が澄んでいるとは、心の目が信仰によって純粋に神だけを見るときだ。つまり、神を知ること、神の御心を心とすること、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること、これ以外に何も目的を持たないのが、澄んだ目だ。そうすれば、全身が明るい。
あなたの心の欲求、気質、感情、思考は心の目に導かれ、その結果、行動も導かれる。あなたは理解力が与えられ、神の栄光の知識に富んだ者となる。その輝きはほかの人々にも及ぶ。しかし、御言葉への信仰によらない不純な意図がそこにあるなら、つまり、心の目がにごっているなら、たちまち全身が暗くなってしまう。疑いや恐れが出てきて、何をすれば良いかわからなくなる。だから、「光が消えていないか調べなさい」とある。心の目の状態を点検する必要があるのだ。私たちの意図が、純粋に御言葉への信仰によってただ神に向けられているか?もしそうでないなら、ただ神だけを求めよう。そうすれば、にごりが消え去り、全身が明るくなる。

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