第7課 聖霊に満たされることについて

リバイバル講演集
スポンサーリンク

「—むしろ、霊に満たされ―」(エフェソ5:18)

 私の直近の講義のいくつかは、祈りが主題であり、祈りの霊を持つことと聖霊の執り成しの重要性についてでした。聖霊の影響の必要性と重要性が取り上げられるときはいつでも、教義を乱用し、歪めてしまうことによって自分で自分を害してしまう危険にさらされることは間違いありません。たとえば、聖霊なしでは人は悔い改めないということを罪人に伝えると、彼らは真理を歪めてしまう傾向にあります。人は悔い改めることができないのだから、聖霊を感じられるまでは、悔い改める義務がないと解釈するのです。多くの場合、すべての「できない」ことはしようとしないことによるのであり、不可能ではないのだということを彼らに説明することのは困難です。繰り返しになりますが、私たちがクリスチャンに祈りには聖霊の助けが必要だと言うとき、彼らは聖霊の影響を感じるまでは、信仰の祈りをささげる義務がないと考える傾向があります。彼らは、聖霊に満たされるために必要な義務を見落として、ただ祈りの霊が自分たちの上に降ってくるのを待つだけで、願い求めないことによって、神を試みています。
 リバイバルを促進するための他の手段、つまり罪人に対して使用する手段を検討する前に、あなたが聖霊なしで生きているなら、あなたにはそのことについて弁明の余地がないということを示したいと思います。義務を遂行すべきことは、まず聖霊の影響を受けなければならないという先行条件に基づくわけではなく、道徳によるものです。私たちは、道徳的な存在として、神に従う力を持ち、完全に従わなければならず、そうしない理由は、ただの意思の欠如です。聖霊の影響は完全に恵みに関することです。もし聖霊の影響が私たちが義務を果たすことを可能にするために不可欠であれば、聖霊の影響の授与は恩恵の行為ではなく、ただ当然すべき正しいことをしたということになってしまいます。罪人は、聖霊の影響力を受けているか、それを手に入れることができるから悔い改めなければならないのではなく、彼らが道徳的な存在であり、神が彼らに悔い改めることを要求する権能を持っているため、悔い改めなければならないのです。クリスチャンの場合も同様です。クリスチャンは聖霊を持っているから信仰の祈りをしなければならないのではありません(願望を生むことについての聖霊の影響自体が、願望の対象を与えることが神の御心であるという根拠となる場合を除きます)。信仰の祈りをささげる根拠があるからささげなければならないのです。クリスチャンは信仰の土台となる根拠を持っている場合を除いては、まったく信仰の祈りをささげるように拘束されていません。クリスチャンは、約束、または原則、あるいは預言、もしくは摂理による根拠を持っている必要があります。そして、クリスチャンが聖霊の影響とは無関係に信仰の祈りをささげる根拠を持っている場合、聖霊の影響を受けているかどうかにかかわらず、信仰を行使することに縛られています。彼らは証拠を見て、信じなければならないのです。聖霊は、クリスチャンが見ることや信じることを可能にするために与えられるのではありません。聖霊が与えられなければ、クリスチャンは見るべきものを見ることも、感じるべきものを感じることも、行動すべきことを行うこともしないからです。私は今晩、聖書の本文から次のことを示そうと思います。
1.クリスチャンは神の霊で満たされることができる
2.聖霊に満たされることがクリスチャンの義務であること
3.なぜクリスチャンは聖霊に満たされていないのか
4.神の霊を持っていない人々の罪悪感はその心を義務と祈りへと導く
5.彼らが霊に満たされている場合に伴う結果
6.そうでない場合の結果

1.クリスチャンは神の霊で満たされることができる

 私は、あなたが聖霊を持つことができることを示します。神があなたにその霊を与えるのは、それが正しいことだからではなく、求める人々にそれを与えることを約束したからです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)あなたが聖霊を求めるなら、神はそれを与えることを約束しました。
しかし、繰り返しになりますが、神はあなたに聖霊を持つように命じられました。神は本文で「聖霊に満たされなさい」と言われます。神が私たちに何かをするように命じるとき、それは私たちがそれをすることができるという最大の証拠です。神が命令することは、私たちにそれができるという誓約と同等です。私たちに従う力がない限り、神には命令する権利がありません。神が実行不可能なことを命じる場合、神はとんでもない暴君であるという結論づけざるを得なくなります。

2.聖霊に満たされることはクリスチャンの義務である

 第二に、聖霊充満があなたの義務であることを示します。
 1.あなたが約束を与えられているからです。
 2.神がそう命じたからです。
 3.あなたの恵みにおける成長に不可欠だから、聖霊に満たされなければなりません。
 4.聖霊に満たされることは、聖化されることと同じくらい重要です。
 5.聖霊に満たされることは、あなたが有用な者となり、世で良いことをすることと同じくらい必要なことです。
 6.もしあなたが自分の中に神の霊を持っていないなら、あなたは神を冒瀆し、教会の汚点となり、死んで地獄に行くことになります。

3.なぜ多くの人は聖霊を持っていないのか

 信徒の中にさえ、「私はこれについて何も知りません。私はそのような経験をしたことはありません。それは、真実ではないか、私が完全に間違っているのでしょう」と言う人がいます。もしあなたが聖霊の影響について何も知らないなら、あなたは疑いなく完全に間違っています。あなたが聖霊に満たされることを妨げるいくつかの原因をあなたに提示したいと思います。
 1.あなたは偽善的な生活を送っているのかもしれません。あなたの祈りは、真剣でなく、誠実でもありません。あなたの信仰生活は、心の伴わない外面だけの見世物であるだけでなく、他の人との交わりについても不誠実です。つまり、あなたが聖霊を悲しませることをたくさん行っているので、聖霊はあなたの内に住むことができないのです。
牧師はかつてある家族のもとに下宿していました。その家の女性の一人はいつも、心に神による喜びがなく、誰も自分を助けてくれないと感じることについて、不平をつぶやいていました。ある日、何人かの女性が彼女に会おうと呼び出すと、彼女は前には誘いがなかったので非常に気分を害したと抗議し、女性たちに一日中自分と家で一緒に過ごすように強要し、絶対にどこにも行かせないと宣言しました。しかし、女性たちはそれぞれ言い訳をして、家から出ていきました。女性たちがいなくなると、すぐに彼女は牧師に、この人たちがいつも彼女を悩ませて時間を無駄にしていることを全然自覚していないと思うことを話しました。牧師はそれを聞いて、すぐに彼女を叱責し、彼女がなぜ信仰生活を楽しんでいないのかがこのことからわかると彼女に言いました。それは、彼女が嘘ばかりつく不誠実な生き方をしていたからです。そして、真理の霊は、そのような心に住むことができませんでした。
 2.他の人たちは非常に軽薄なため、聖霊は彼らと一緒に住むことはありません。神の霊は厳粛な方であり、真面目なので、無思慮で軽薄な状態に陥っている人々と住むことはありません。
 3.他の人たちは非常に傲慢なため、聖霊を持つことができません。彼らは衣服、セレブな生活、アクセサリー、ファッションなどがとても好きなので、聖霊に満たされていないのは何ら不思議ではありません。それでも、そのような人たちは、なぜ彼らが信仰生活を楽しんでいないのかがわからないふりをすることでしょう!
 4.ある人たちはとても世俗的で、財産をこよなく愛し、金持ちになるために必死に努力しているので、聖霊を持つことができません。彼らの考えがすべてこの世のもので占められていて、彼らのすべての力が富を獲得することに費やされているのに、どうして聖霊は彼らと一緒に住むことができるでしょうか。さらに、彼らは求めていた世のものを手に入れたとき、それを握りしめ続け、世界の回心のために何かをするように良心によって促されると苦痛を覚えます。彼らは、すべての人との交際で、世俗的なものをどれだけ愛しているかを示しています。ちょっとしたことがそれを示しています。彼らは、自分のために少しの仕事をする貧しい人を、最低の賃金で搾取します。彼らが大規模な取引している場合、彼らはたいていの場合、寛容で公平になるでしょう。なぜなら、そうすることが彼らの利益になるからです。しかし、相手が、彼らが気にもとめない部類の人、労働者、機械工、あるいは召使いである場合、彼らはその仕事に本当に価値があるとしても、とことん安値で働かせます。実際には、彼らは良心的なふりをして、これ以上与えることは不可能なのだ見せかけます。ところが、自分と同じランクの人々に対しては、そのように対処することを恥ずかしく思います。なぜなら、そのことが人々に知られると彼らの評判を傷つけるからです。しかし、神はすべてを知っており、すべてが書き留められています。彼らは取引において貪欲で不公平です。自分の利益になる場合にしか、正しい行動をとりません。さて、そのような信徒はどうして神の霊を持つことができますか。それは不可能です。
 そのようなことがたくさんあるので、神の霊が悲しんでいます。人々はそれらを小さな罪と呼びますが、神は決して小さいとはみなしません。ある伝道に関する雑誌の小さな通知によって、私はこの考えに打たれました。その雑誌の出版社は、支払期限が過ぎても未払いの購読者が何千ドル分もいて、代金を徴収するために人員を雇って派遣するだけの価値があると述べました。私は、他のすべての信仰関連の情報誌も同様であり、加入者が出版社に代金を徴収するために人員を派遣する手間と費用をかけているか、そうでなければ踏み倒してしまっていると思います。疑いの余地なく、このような信徒たちは、単にほんの少しの金額であり訴えられることもないだろうからという理由で、合計何千ドルもの代金を未払いにしているに違いありません。それでも、これらの人々は祈り、非常に敬虔そうに見せかけ、なぜ信仰生活を楽しむことができず、神の霊を持つことができないのだろうかと不思議に思うのです!道徳的原則がたるんでしまっていて、小さな問題についての良心の欠落が教会に広まっているので、聖霊は嘆いておられます。なぜなら、神にとって、気軽にできて恥とも感じないからといって会費を未払いにして得をしようとするような人の内に住んだり、交わりをもったりすることは、恥ずべきことだからです。
 5.他の人たちは罪を完全に告白して捨て去らないので、聖霊の臨在を楽しむことができません。彼らはおそらく罪全般を告白し、いつも自分たちが罪人であることをわかっています。あるいは、彼らは部分的に特定の罪を告白します。しかし、彼らは、必要以上に罪を告白することを恐れているかのように、控えめに、尊大に、用心深くに罪を告白します。これは誰かを傷つけたことを告白する場合にも当てはまります。彼らは、素直に心を吐露するのではなく、良心によって無理矢理しぼりだされるように告白します。彼らは誰かを傷つけた場合、かたくなで、冷酷で、偽善的な調子で発言の一部を撤回し、「さあ、これで満足しましたか」と尋ねます。こう言われてしまったら、たとえその告白が冷やかで心のこもっていないものであったとしても、「満足していません」と答えるのは非常に難しいことです。しかし、はっきり言っておきます。神は満足していません。神は、あなたが全部の罪について、正直に告白したかどうかを知っており、あなたの責任を追及します。もし、あなたの罪の告白が無理矢理絞り出したものなら、神をだますことができると思いますか。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28:13)あなたが完全にへりくだって、罪を正直に告白し、しかるべき償いをしない限り、祈りの霊を期待する権利はありません。
 6.他の人たちはいくつかの義務を知っていながら無視しており、それが理由で聖霊を持つことができません。ある人は家族で祈らなければならないと知っていながら祈りません。にもかかわらず、その人は祈りの霊を得られると思っています!ミニストリーの準備をするべきだと心に感じている若者が大勢います。しかし、彼は、祈りの霊を持っていません。なぜなら、彼が神からの仕事に専念するのを妨げる世俗的な考えを持っているからです。彼は自分の義務を知っており、それを果たすことを拒否していながら、神の霊の導きを求めて祈っています。彼が聖霊の導きを得ることはできません。ある人は、信仰を公にすることを怠っています。彼は自分の義務を知っていますが、教会に加わることを拒否します。彼はかつて祈りの霊を持っていましたが、義務を無視したので、聖霊を悲しませ、去らせてしまいました。そして今、彼は、もし再び神の御顔の光を楽しみ、神がおられる証拠を新たにしてもらうことができれば、義務を果たし、教会に加わろうと考えています。そして、彼は再びそれを祈り、神の存在を認める上で自分で決めた条件を神に満たしてもらおうとします。その祈りが答えられると期待してはなりません。神があなたと和解すべく御自身を表してくださる前に、まずあなたがあなたの義務を進んで果たさない限り、あなたは暗闇の中で生き、そして死ぬでしょう。まず神の方が御顔の光で照らしてくださるなら、御前に進み出るのに、というのは無駄です。神はあなたが死ぬまで決してそうしません。あなたがあなたの義務を果たすことを拒否した場合、神は臨在を示すことなしにあなたを死なせます。
私は、回心していない夫に伝道し、祈るべきだと感じながらも、それを無視したので、暗闇の中に入ってしまった女性たちを知っています。女性たちは自分の義務を知っていながら、それを拒否してしまいました。義務を避けようとした結果、女性たちは祈りの霊を失いました。
 義務を知っていながら無視した結果、祈りの霊を失った場合、あなたはまずへりくだらなければなりません。神はあなたと争っています。あなたは神への服従を拒否しました。だから、あなたはそれを撤回しなければなりません。あなたはそれを忘れたかもしれませんが、神はそうではありません。あなたは心を入れ替えて、服従を拒否したことを思い起こして、悔い改めなければなりません。あなたが悔い改めるまで、神は決してあなたに御自身の霊を譲ることも付与することもありません。もし、私が今、全知の目を持っていたら、私はこの会衆の中で、義務を無視しているか、罪を犯しておきながら悔い改めていないのに、今祈り霊を求めている個々人の名前を呼ぶことができるでしょう。その人たちは祈りの霊を得ることに成功することはありません。
 別件と関連付けて、このことを説明します。この州の西部に善良な男がいました。彼は長い間献身的なクリスチャンでした。彼は長老であり、所属していた霊的に眠った教会の人々に対して語り掛けることを常としていました。次第に、その教会は気分を害し、忍耐を切らし、多くの人が放っておいてほしいと彼に頼みました。教会は、彼が自分たちに良いことができるとは思えないと言いました。彼は、教会の言葉に従いました。そして、教会はすべて一緒に眠りにつき、2、3年のそのままでした。しばらくして、ある牧師が彼らのもとにやって来て、リバイバルが始まりました。しかし、この長老はかつての霊性を失ってしまったようでした。彼は、かつて良い仕事に邁進していましたが、今ではやめてしまっています。誰もが、そのことを不可解に思いました。ついに、彼がある夜、家に帰ると、彼の状況に関する真実が彼の心にひらめき、彼は数分間完全に絶望しました。ある時、彼の考えは、教会を罪の中に放置しようという罪深い決意に向けられたのでした。彼は、その罪のどす黒さを説明する言葉もないと感じました。その瞬間に、彼の霊性が失われてしまったのであり、神が彼と争うようになったことに気付きました。彼は、悪霊がその決意を引き起こしたことに気づきました。それは、モーセがメリバの水のところで、「反逆する者らよ、聞け」と言ったときと同じです。彼がその場でへりくだったので、神は彼に御自分の霊を注ぎました。おそらく、私の言葉を聞いているあなたがたの何人かは、まさにこの状況にいることでしょう。あなたがたは、何人かの人にいらだたるようなことや不親切なことを言ったことがあります。おそらく、それはクリスチャンの召し使いに対する意地悪な発言かもしれません。あるいは、牧師や他の人に対して批判的に話したかもしれません。おそらく、あなたの意見が取り入れられていないとか、あなたの尊厳が侵害されたという理由で、あなたは怒っていたのでしょう。徹底的に自分を吟味し、罪を見つけることができないかどうかを確認してください。おそらく、あなたはそれを忘れてしまったことでしょう。しかし、神はそれを忘れておらず、あなたが悔い改めるまであなたの非キリスト教的行為を決して許しません。神はそれを見過ごすことはできません。仮に神が見過ごすなら、それは良くないことです。罪があなたの心の中に深々と食い込んでいるのに、それを赦すことは全く良くないことです。
 7.おそらく、あなたは神の霊に抵抗したことがあるでしょう。ことによると、あなたは聖霊に抵抗する習慣すらあります。あなたは罪を認めることに抵抗します。説教の中で、何かあなたにあてはまる罪について語られるとき、あなたの心はそれに立ち向かい、抵抗しました。多くの人は、自分以外の人に罪をすべて適用できる限り、はっきりと語られて心探られる説教を喜んで聞きます。人間不信の霊がその人たちに働いて、他人が探られて叱責されることを聞くことに満足感を与えます。しかし、ひとたび真実が彼ら自身に触れるとき、彼らはそれが個人的なことに立ち入りすぎていてひどいと大騒ぎします。これはあなたにあてはまりますか。
 8.実際のところ、あなたは全体的に見て、聖霊を望んでいないということです。このことは、あなたが聖霊を持てないすべての場合に当てはまります。誤解のないようにしましょう。慎重に区別する必要があります。人々が、いくらかの部分では何かを望むけれども、全面的にではないということほど一般的なことはありません。ある人が、店に購入したいと望む品物がおいてあるのを見つけるとします。彼は店に入って行って値段を尋ね、どうするか少し考え、全体的に考えてそれを購入しないと結論付けます。彼はこの品物が欲しいですが、値段が気に入らないか、出費をしたくないので、全体として、彼はそれを購入しないことを選びます。それが、彼が品物を購入しない理由です。同じように、人はいくつかの部分において神の霊を望むかもしれません。神の霊が心にもたらす慰めや喜びなどにおいてです。もしあなたが以前、神と交わりをもった経験があり、悔い改めて聖霊に満たされることがどれほど甘美なものかを知っているなら、あなたはそれらの喜びを再び味わうことを切望せずにはいられません。そして、あなたはそれを真剣に祈り、信仰のリバイバルを祈り求めるように決心するかもしれません。しかし、全体としては、あなたはリバイバルが起きてほしくありません。あなたはやらなければならないことが多すぎて、リバイバルに関心を持つことができません。あるいは、リバイバルには非常に多くの犠牲を必要とするので、あなたはそれに耐えることができません。あなたには、あきらめたくないことがいろいろとあります。もしあなたが神の霊と一緒に住みたいなら、次のことに気づかなければなりません。あなたは別の人生を送らなければなりません。あなたは世のものをあきらめなければなりません。あなたは犠牲を払わなければなりません。あなたは世俗的な友人から離れなければなりません。そして、あなたの罪を告白する必要があります。そのため、全体として、聖霊があなたと一緒に住むとき、あなたを好きなように生きさせない限り、聖霊が来ることを望みません。しかし、聖霊は決してあなたを気ままにさせません。
 9.おそらく、あなたは聖霊を求めて祈らないでしょう。または、あなたは祈るだけで何もしないか、祈っても、祈ったことと矛盾する行動をとります。あるいは、犠牲を伴う行動をとることを避けるべく計算された手段を使用します。あるいは、あなたは聖霊を求めて、実際に聖霊が来てあなたの心に影響を与え始めたらすぐに、聖霊を悲しませ、聖霊と共に歩もうとしません。

4.神の霊を持っていないことは大きな罪である

 私は神の霊を持っていないことが大きな罪であることを示します。
 1.あなたの罪は、あなたに御霊に満たされなさいと命じられた神の権威に匹敵するくらい大きいと言えます。神は聖霊に満たされるように命じられました。だから、それを破ることは、偽りの誓いや盗み、姦淫を犯すこと、安息日を破ることと同じ、神の命令に対する不従順です。そのことをよく考えてください。それでも、多くの人々が聖霊を持っていないことについて自責の念を感じません。それどころか、彼らは神の霊なしで毎年生きているにもかかわらず、自分自身を敬虔なクリスチャンだとさえ考えています。なぜなら、祈り会に出席し、聖礼典にあずかるといった宗教活動をしているからです。さて、あなたは聖書で神が「酒に酔いしれてはなりません」と言われると同時に、「聖霊に満たされなさい」と言われるのを見ることができます。あなたがたは皆、ある人が習慣的な人殺し、あるいは泥棒である場合、その人はクリスチャンではないと言います。なぜでしょうか。その人は神に習慣的に不従順して生きているからです。だから、彼が正しく生きていると誓ったとしても、あなたは彼に同情しないでしょう。彼が自分の心が正しいと嘆願しても耳を貸さないでしょう。そのような言葉には何の意味もありません。神もそのような言葉に御心を留めません。あなたは、教会にそのような人がいたり、そのような人々が集まって自分たちのことをキリストの教会と呼んだりすることはとんでもないと思うでしょう。それでも、彼らは、祈りの霊も神の臨在もなしに生きているあなたよりも神に対して不従順だとは決して言えません。
 2.あなたの罪は、あなた が聖霊を持つ責任を果たしていれば行うことができたであろうすべての善と同じ重さです。この教会の長老たちよ!あなたが聖霊を持っていたら、どれだけ良いことができることでしょう。そして、日曜学校の教師よ、あなたが聖霊を持っていたら、どれだけ良いことができることでしょう。そして、教会員であるあなたもそうです。あなたが聖霊に満たされていたなら、あなたは莫大な善、無限の善をすることができるはずなのです。そう、あなたの罪は同じくらい重いのです。ここに約束された祝福があり、あなたはあなたの義務を果たすことによってそれを得ることができます。あなたは、あなたがすることができるはずのすべての善について、教会と神に対して全面的に責任を負っています。人間は、行うことができるすべての善について、責任があるのです。
 3.あなたの罪は、聖霊を持っていない結果としてあなたがするすべての悪によっても、測ることができます。あなたはキリスト教信仰にとって不名誉です。あなたは教会と世のつまずき石です。そして、あなたの罪は、あなたが及ぼすすべての様々な影響によって増し加えられます。そして、それは裁きの日に明らかになるでしょう。

5.聖霊に満たされた結果

 1.あなたは変人よばわりされます。そして、おそらくあなたはそれに値するでしょう。おそらくあなたは本当に変わった人になるでしょう。私は聖霊に満たされた人で、変人よばわりされない人を知りません。その理由は、彼らが他の人とは違っているからです。変わっているというのは常に、比較の問題です。聖霊に満たされた人が、他の人と比較して風変わりに見えるべきであるもっともな理由がいろいろとあります。彼らは他の人と異なる影響の下で行動し、異なる見解を持ち、異なる動機で行動し、異なる霊に導かれています。あなたは変人よばわりすることを予期していなければなりません。なんと頻繁にそのような人についての発言を聞いたことでしょう。「彼は非常に良い人ですが、かなり変わっています。」私は時々、詳しく話すように求めました。彼が変わっているのはどんなところですか、と。その内容と度合を聞いたところ、結局のところ彼が霊的であるということでした。変人になることを覚悟してください。本当におかしな変人もいます。それは最悪です!しかし、神の霊が深く染み込んでいるので、あなたは、あなたの行動の理由を理解できない人々には奇妙で変わっているように見えるように意図的に行動しなければならないこともあります。
 2.あなたが神の霊の豊かに持っているなら、多くの人から気が狂っていると思われることも往々にしてあるでしょう。私たちは、ある人が賢明だと考えられる行動や常識に従った行動とは異なった行動をとり、その人に正当な理由を見出すことができないという結論に達すると、その人のことを狂っていると判断します。パウロは、彼の行動の理由を理解できない人々に狂っていると非難されました。フェストゥスはパウロのことを学問のし過ぎで気が狂ったに違いないと決めつけました。しかし、パウロは「フェストゥス閣下、私は狂っていません」と言いました。パウロの行動がとても奇妙で、とても斬新だったので、フェストゥスはそれが狂気に違いないと思ったのです。しかし、実際には、パウロはその主題を非常にはっきりと認識していたので、彼の全身全霊を注いだだけでした。フェストゥスたちはパウロの行動の動機について、全然わからなかったのです。これは決して珍しいことではありません。多くのクリスチャンたちが、霊的でない人々の目に、まるで狂っているかのように見えました。しかし、彼らは彼らの行動に正当な理由を持っていました。神は、霊的ではない人々には理由がわからないような方法で行動するように、彼らの心を導いていました。あなたは、このことを覚悟しなければなりません。さらに、世よりも高い水準で神と共に歩むことを固く決心しなければなりません。
 3.あなたが神の霊を持っているなら、教会と世のことを憂いて、大きな苦痛を感じるに違いないでしょう。霊的な美食家の中には、完全な幸せが手に入ると思って、聖霊を求める人がいます。ある人々は、霊的なクリスチャンはいつもとても幸せで、悲しみから解放されていると考えています。
 これほど大きな間違いはありません。聖書を読んで、教会と世の状態を憂いて、いかに預言者と使徒たちが常にうめき、苦しんでいたかを見てください。使徒パウロは、自分の体の中で主イエスの死を常に抱えていたと言っています。言っておきますが、彼は、「私は日々死んでいる」と言います。あなたは、主イエス・キリストに同調するとはどういうことかを知り、イエスが受けた洗礼を洗礼として受けます。ああ、彼が罪人の状態を考えてどれほど苦しんだことでしょうか!彼が罪人の救いのために、どれほど魂の苦しみを味わったことでしょうか!あなたが神の霊を持っていれば持っているほど、あなたはより明確に罪人の状態を知ることでしょう。そして、あなたは彼らのためにより深く苦しむでしょう。多くの場合、あなたは彼らの状況を考えると、生きていけないと感じるでしょう。あなたの苦痛は、言葉にならないほどになります。パウロは言います。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:1-3)
 4.あなたはしばしばミニストリーの状態を嘆き悲しむでしょう。何年か前に、私はこの都市の教会の一つに属する女性に会いました。私は彼女に、この都市の信仰の状態を尋ねました。彼女はそれについて多くのことを語りたくないように見え、いくつかの言葉を発してから口ごもりました。そして、彼女の目が大きく見開かれ、「ああ、私たちの牧師の心はとても暗いようだ」と言いました。霊的なクリスチャンはしばしばこのように感じ、泣きます。私は、信仰に関する暗闇に閉ざされ、地上的であり、神よりも人を恐れる牧師たちの心を見て、密かに涙を流し、うめき声を上げるクリスチャンを多く見てきました。しかし、彼らはあえてそれについて口にしません。非難され、脅迫され、教会から追い出されてしまわないためです。私がこういうことを言うのは、その兄弟たちの言動をとりあげて非難するためではなく、それらが真実だからです。そして、牧師は、霊的なクリスチャンがミニストリーの状態に重荷と苦痛を感じることほど一般的なことは何もないと知るべきです。私は牧師たちに対して何も悪い感情を抱いていません。ただ、今やこのことを知るべきです。クリスチャンはしばしば物事の霊的な悟りを得て、その魂が燃え上がっているのに、彼らの牧師が同じ思いを抱いていないことに気づくことがあります。牧師が、本来あるべき霊的な水準をはるかに下回っており、彼の教会のメンバーの何人かをはるかに下回る霊性しか持っていないのです。これは、今日最も顕著で根深い嘆かわしい悪の一つです。ミニストリーの敬虔さは、現実では、多くの場合非常に表面的なため、教会の中の特に霊的な人々は、牧師たちが彼らと同じ思いを持つことができず、持とうともしていないと感じています。牧師の説教は彼らの欲求を満たすものではなく、彼らを養うことはなく、彼らの経験と一致しません。牧師は、深い信仰体験を持っていないので、教会を調べて目を覚まさせる方法が知りません。それで、牧師は誘惑を受けている人々を助けることも、弱者を支援することも、強い人を指導することもできず、彼らが悩まされているあらゆる迷いの道から彼らを正しい道に導くこともできないのです。牧師は、自分の霊的な実践経験の及ぶ範囲までしか教会を導けません。牧師が新たな体験をするまで、再び回心するまで、その心が再び打ち砕かれ、神聖な生き方とキリスト者として経験において前進するまで、それ以上誰も助けられません。彼は健全な教義を説教するかもしれませんが、回心していない牧師でも同じことができるでしょう。しかし、結局のところ、彼の説教には、魂を探る鋭さも、実用的な教えもありません。そして、霊的なクリスチャンだけがわかる油注ぎもありません。若い献身者たちの敬虔さは、神学校での教育の過程で非常に損なわれてしまいます。彼らが宣教に入るときには、多くの知識を習得しているにもかかわらず、霊的に赤ん坊の状態にあるという事実に、教会はうめいています。彼らは、神の教会を引き受けて養うよりも、むしろ教会から乳を飲ませてもらうことを望んでおり、食べさせてもらう必要があります。
 5.あなたが神の霊の多くを持っているなら、あなたは教会と世の両方から多くの反対を受けることを覚悟しなければなりません。おそらく、教会の主要な指導者があなたに反対するでしょう。教会には常に反対がありました。それは、キリストが地上におられたときも同様でした。あなたが彼らの霊性をはるかに上回っているなら、教会のメンバーはあなたに反対します。キリスト・イエスにあって敬虔に生きるなら、迫害を期待しなければなりません。あなたが神の霊に満たされているなら、しばしば長老が、そして牧師までもが、あなたに反対します。
 6.サタンとの非常に頻繁で、苦痛を伴う霊的戦いを予期する必要があります。サタンにとって、霊的ではなく、生ぬるく、怠惰で、そして世的な心を抱いているクリスチャンについては、ほとんど問題になりません。そのようなクリスチャンは、霊的戦いとは何のことか理解できません。おそらく、霊的戦いのことが言及されるとき、彼らは嘲笑うでしょう。だから、悪魔は彼らを放っておきます。生ぬるいクリスチャンたちはサタンの邪魔をしないし、サタンも彼らを邪魔しません。しかし、霊的なクリスチャンは、非常に霊的戦いのことよく理解しており、サタンに大怪我を負わせているので、サタンは彼らに対抗します。そのようなクリスチャンは、しばしば過酷な霊的戦いを経験します。彼らは以前には考えたこともない冒涜的な考え、無神論、邪悪な行為をすること、自分の人生を破壊することなどといった誘惑に遭います。そして、もしあなたが霊的な人であるなら、あなたはこれらの恐ろしい霊的戦いが待ち受けているかもしれません。
 7.あなたは、今まで考えていたよりも大きな自分自身との闘いを経験するでしょう。あなたは時々、自分自身の腐敗が、霊に反する不可解な方向に進ませようとするのを発見するでしょう。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:17)そのようなクリスチャンは、しばしば自分自身の腐敗の力に驚かされます。米国の同胞の一人は、聞くところによると霊的な人でした。そして、彼の牧師は、彼が床に横たわって、自分の腐敗と戦って夜の大部分をうめき、苦悩の中で誘惑の力を打ち破ってくださるように神に泣き叫んでいたと言いました。悪魔が、彼を破滅させることを決意しているようでした。そして、彼の感情は、当面の間、ほとんど悪魔と共にしていました。
 8.しかし、あなたは神との平和を持つでしょう。もし、教会、罪人、そして悪魔があなたに反対するなら、平和はあなたと共にあります。これらの苦難、戦い、誘惑、そしてうめき、祈り、涙、心を砕かれるように召されている人は、このことを忘れないでください。あなたの平和は、神に対するあなたの感情の分だけ、川のように流れるでしょう。
 9. 同様に、あなたが聖霊に導かれているなら、良心の平和を持っているでしょう。あなたは絶えず罪の意識に駆り立てられたり、気が動転したりすることはありません。あなたの良心は穏やかで静かで、夏の湖のように波が立ちません。
 10.聖霊に満たされているなら、あなたは有用な者になります。役に立たないことはありえません。あなたが病気で、部屋から出ることも人と会話することもできず、誰とも会うことができなかったとしても、あなたは霊性を持っていない普通のクリスチャンの100人よりも10倍有用になるでしょう。このことについてわかっていただくために、私はある逸話についてお話します。この州の西部にいたある敬虔な男は、病気で消耗していました。彼は貧しい人で、何年も病気でした。その場所にいたある回心していない商人は、優しい人で、時々、何か貧しい男やその家族の慰めになるものを送っていました。貧しい男は商人の優しさに感謝しましたが、何かお返しをしたくても、何もすることができませんでした。やがて彼は、彼ができる最高のお返しは、商人の救いのために祈ることだと判断しました。彼が祈り始めると、彼の魂は燃え上がり、神を握りしめました。そこではリバイバルが起こっていませんでしたが、この商人がすぐに主に立ち帰ったので、すべての人が驚きました。火はあちこちに燃え広がり、強力なリバイバルが続き、大勢の人々が回心しました。
 この貧しい男は数年後に、死にました。彼の死後、私がその場所を訪れると、彼の未亡人が彼の日記を手渡しました。彼は日記のある個所で、次のように述べています。「私は約30人の牧師とその教会のことを知っています。」それから、彼は、これらの牧師と教会それぞれのために祈るべく、毎日毎週一定の時間を確保しました。また、ある時期には、さまざまな宣教団体のために祈りました。さらに、ほかの日付の箇所で、次のようなことが書いてありました。「今日、〇月×日、私は聖霊が教会に注がれるのために信仰の祈りをささげることができました。私はすぐにそこで神がリバイバルを起こしてくださると信じます。」別の日付では、「私は今日、私が教会のために信仰の祈りと呼ばれているものをささげることができました。すぐにリバイバルが起こると信じます。」つまり、彼は多くの教会について、信仰の祈りをささげたのでまもなくリバイバルが起こるということを記録したのです。私の記憶が正しければ、宣教団体のうち、彼は特にセイロンでの宣教に言及しています。彼の日記で言及された信仰の祈りをささげた最後の場所は、彼が住んでいた場所だと思います。彼の日記でこれらの事実に触れて間もなく、リバイバルが始まり、国や地域を越えて起こりました。リバイバルが起こった順番は、ほとんど日記で言及した順番の通りだったと信じます。そして、やがてセイロンから、信仰のリバイバルが起こったというニュースが来ました。彼自身の町でのリバイバルは、彼が死んでから始まりました。その始まりは、彼の未亡人が私に日記を手渡したときでした。彼女は、彼が病気の間にあまりに激しく祈っていたので、彼が死ぬまで祈るのではないかとよく恐れたと言いました。それらのリバイバルは、すべての地域で非常に大きく強力でした。そして、それが起ころうとしているという事実は、この主の僕から隠されてはいませんでした。彼の言葉によれば、主の奥義は主を畏れる者と共にあるとのことです。したがって、この男は、家から出ることもできないくらい病弱でしたが、この国のすべての無感覚な信徒たちよりもずっと世と神の教会にとっては有用でした。神とシオンの荒廃の間に立って、信仰の祈りをささげることに心を注ぎ、彼は王のように神と力を持って勝利しました。
 11.もしあなたが聖霊に満たされているなら、人々があなたに反対しても、あなたは苦しんだり、いらだったり、心配したりしないでしょう。私は、人々が自分の遭遇するほんの小さなことでいらいらし、心配しているのを見ると、彼らがキリストの霊を持っていないと確信します。イエス・キリストは、あらゆる悪口をあびせられましたが、少しも動揺することがありませんでした。あなたが迫害の下でも柔和であろうとし、救い主の品性に倣おうとし、その信仰を尊ぶなら、あなたは聖霊に満たされる必要があります。
 12.罪人の回心のために様々な手段を使用するのは賢明です。神の霊があなたの中におられるなら、彼は失敗を避けるべく目的に合わせた手段を使用するようにあなたを賢明に導いてくださいます。神の霊に満たされていない人で、リバイバルに適した手段を使用するように指導する上で用いられるのにふさわしい人は誰もいませんです。彼らの手はすべて親指であるかのように物をにぎることができず、彼らはあたかも常識がないかのように振る舞います。しかし、神の霊に導かれている人は、時宜に適った対処をし、神の真理を伝える術を知っているので、最大限効果的に伝えることができます。
 13.あなたは苦しみの下で落ち着いていられるでしょう。嵐があなたの上に来るのを見ても、混乱したり、驚愕したりしません。周りの人々は、聖霊に満たされた人々が得られる内面についての御助けを知らないので、苦難に際してのあなたの冷静さと陽気さに驚かされます。
 14.あなたは死を受け入れるでしょう。あなたは常に死ぬ準備ができていると感じ、死ぬことを恐れず、死後、あなたは天国で永遠にもっと幸せになるでしょう。

6.聖霊に満たされない結果

 1.あなたはしばしば、自分がクリスチャンであるかどうかを合理的に疑うでしょう。あなたは疑いを持ちますし、疑いを持つべきです。神の子たちは、神の霊に導かれています。そして、もしあなたが聖霊に導かれていないなら、あなたが神の子だとする理由は何ですか。あなたは、希望を強めるために確信を得るためのすばらしい方法がないか探しますが、あなたの良心が熱い鉄のように焼かれない限り、そうすることはできません。あなたはしばしば、自分の状態について、痛みを伴う疑いや不信仰に陥るのをどうすることもできません。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」(ローマ8:9)「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」(Ⅱコリント13:5)
 2. あなたは、信仰の祈りについての見方が常に不安定になるでしょう。信仰の祈りは、とても霊的なものであり、憶測ではなく、多分に経験を要する問題であり、あなた自身が霊的でない限り、それを完全に理解できません。あなたは、信仰の祈りについて多くのことを話すかもしれませんし、当面の間はそれを完全に確信するかもしれません。しかし、あなたは信仰の祈りについて、心がずっと定まっていると言えるほど落ち着くことはなく、しばらくすると完全に不安に陥ってしまいます。私は友人の牧師に関するおもしろい事例を知っています。彼は私に言いました。「私が神の霊を持ち、神の臨在を楽しんでいるとき、私は信仰の祈りをしっかりと信じています。しかし、そうでないとき、私は自分が本当に信仰の祈りというものが存在するのかと疑い、頭の中で異議を唱えていることに気づくことがあります。」私は自分の経験から、こういうことがあることを知っています。私がこれまでの講義で提示した祈りに関する見解に異議を唱える声を聞くと、私は彼らの困難が何であるかをよく理解しており、神から遠く離れた彼らの心を満足させることは不可能だとしばしば感じました。それと同時に、彼らがそれを経験するときは、何の議論もしなくても、必ずそれを理解するでしょう。
 3.あなたが聖霊を持っていないなら、持っている人につまずく傾向があります。あなたは彼らの行動の妥当性を疑うでしょう。彼らが、聖霊によってあなたよりも多くのことを感じているように見えるなら、あなたはそれを動物的な感覚と呼ぶでしょう。彼らがそのような感覚を持っていると言うとき、あなたはおそらく、彼らの誠実さを疑うでしょう。あなたは、このようなことを言うでしょう。「私は、何が兄弟をそのような感覚を持たせるのかわかりません。彼は非常に敬虔に見えますが、私は彼を理解できません。彼は動物のような感覚を多く持っているのでしょう。」したがって、あなたは自分自身を正当化するために、彼らを非難しようとします。
 4.あなたは、悔い改めない人々や肉的な信徒たちの間で評判になります。彼らは、あなたのことを合理的で正統派の一貫したキリスト教徒として称賛します。あなたはそのことに同意して、彼らと共に歩むだけです。
 5.あなたは狂信に対する恐怖に非常に悩まされます。リバイバルが起こるときはいつでも、あなたはリバイバルの渦中にいる人々に対して狂信の強い傾向を見るでしょう。そして、あなたは彼に対して恐怖と不安、あるいは反感に満ちるでしょう。
 6.リバイバルで使用されている手段によって、あなたは非常に煩わされます。リバイバルに直接的な手段が採用されている場合、あなたはそれらがすべて「新しい」と思われ、あなたの霊性の欠如に比例してそれらにつまずくでしょう。あなたは彼らに適切さを見出しません。天国が魂の救いのためにとられた手段を喜んでいるにもかかわらず、あなたは彼らの適切さを見ることができないほど盲目であるため、リバイバルの手段に反対してしまいます。
 7.あなたは信仰を非難するでしょう。悔い改めない人々は、あなたのことを自分自身に非常に似ているので賞賛することもあれば、あまりにもひどい偽善者だという理由で笑うこともあります。
 8.あなたは聖書についてほとんど知りません。
 9.あなたが聖霊なしに死ぬなら、あなたは地獄に落ちます。これには疑いの余地がありません。聖霊がなければ、あなたは決して天国に行けません。

備考

 1.罪人が悔い改めないことが有罪であるのと同じように、クリスチャンが聖霊を持たないことは有罪です。
 2.むしろ、聖霊を持たないクリスチャンはより罪が重いのです。彼らはより多くの光を持っているので、その分とても罪が重いです。
 3.すべての人には、聖霊に満たされていないクリスチャンに文句を言う権利があります。あなたが神のための仕事をしないなら、神にはあなたに文句を言う権利があります。神はご自分の御霊をあなたの自由に使えるようにしておられます。もしあなたがそれを持っていないなら、神はあなたに目を向け、あなたがそれを持っていたなら、あなたが行うかもしれないすべての善に対して責任を負わせる権利を持っています。あなたは天全体に対して罪を犯しています。なぜなら、あなたは彼らの幸福を増し加えなければならなかったのに、そうしなかったからです。罪人、教会、牧師も、あなたに文句を言う権利を持っています。
 4.あなたは主の働きの邪魔になります。牧師があなたに対して働きかけることは無駄になります。牧師たちはしばしば神の御霊を持たずに生きている教会があるところで善を行おうとして、うめき声を上げ、もがき、無駄に疲れ果ててしまうのです。聖霊が注がれるときにはいつでも、教会はすぐに聖霊を悲しませるでしょう。このようにして、あなたは聖霊に満たされないので、牧師の手を縛って、その心を打ち砕き、場合によっては殺してしまうこともあるでしょう。
 5.クリスチャンにどうしても聖霊が必要な理由と、どれだけ聖霊に依存しているのかお分かりいただけたでしょうか。この点は、どれだけ強調しても強調しすぎることはありません。
 6. 神の霊をただ待つだけで、神の臨在を獲得するための手段を使わないことで、神を試みないでください。
 7.あなたが聖霊を持つつもりなら、あなたは子供のようであり、空気にゆだねるように、聖霊の影響にゆだねる必要があります。聖霊があなたを祈りに導いているなら、あなたは彼の優しい働きかけにゆだねるために、ほかのすべての活動をやめなければなりません。間違いなく、あなたは時々何らかの事柄のために祈りたいという願望を感じていたのに、その思いに抵抗して祈ることを先送りにしてしまい、神があなたを去ったことを経験したことがあるでしょう。あなたが聖霊にあなたのもとにとどまることを願うなら、あなたは彼の非常に柔らかくて優しい働きにゆだねて、彼が何をしているかを学び、彼の指導に自分の身をゆだねなければなりません。
 8.クリスチャンは、聖霊の臨在を楽しむために、犠牲を払うことをいとわないはずです。ある高齢の女性の信徒は、「私は牧師の説教を聞くことか、私の同性愛仲間との交際のどちらかをやめなければならない」と言いました。彼女は説教をあきらめ、去っていきました。もう一つの事例となんと対照的なことでしょうか!
ある同じ年代の女性が同じ牧師の説教を聞いて、家に帰り、同性愛者であることと世的な生き方を捨てました。彼女はそれらにまつわるすべてのもの捨てました。彼女は服装、アクセサリー、日常生活、会話の仕方を完全に変えました。彼女の同性愛者と世的な友人は、すぐに喜んで彼女を神との交わりの楽しみに任せ、彼女が善いこと行うために自由に時間を使うに任せました。
 9.このことから、流行の生活をしている人が天国に行くのは非常に難しいに違いないことがわかります。そのようなサークルに属することは、なんて災難でしょう!誰が彼らの中で神の臨在を楽しむことができるでしょうか。
 10. 必死にこれらのサークルに参加しようとしている人たちがどれほど狂っているかを見てください。彼らは家を大きくしたり、生活スタイルや家具を変えたりしています。それは帆柱を登って海に投げ出されるようなものです。神を楽しむためには、そういう場所に上ろうとするのではなく、降りて来なければなりません。神は、上流の生活の堅苦しさやお世辞の中には全くおられません。
 11.多くの信徒は、ニコデモが新生についてそうだったのと同じくらい、霊的に無知です。彼らは無知であり、恐ろしいことに回心すらしていません。誰かが彼らに祈りの霊について話すなら、それは彼らにとってすべて意味不明な記号のようです。そのような信徒の場合は、ひどいものです。使徒たちの性質とどれほど違っていることでしょう!使徒たちの生涯について読み、彼らの手紙を読んでください。すると、あなたは彼らが常に霊的であり、神と共に毎日歩いていたことを見るでしょう。しかし、今、そのような信徒はどれほど少ないのでしょう!「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)これらの信徒の何人かをリバイバルの中で働くように仕向けてみても、彼らは何をすべきかを知らず、エネルギーも能力もなく、何ら感銘を与えることはありません。いつになったら信徒は、自ら聖霊に満たされて、主に仕えるようになるのでしょうか。もし、この教会が聖霊に満たされるなら、私はこれ以上大勢の人々の心を動かすために何も求めなくてよくなるでしょう。リバイバルがこの都市全体に広がるまで2週間もかからないはずです。

第6課
目次

コメント

タイトルとURLをコピーしました